⑤ノルウェイと忍法帖へ愛を込めて
「いやあ、名作でしたね」
あくる九月一日のこと。文芸部員である彼は、放課後になるとまた図書室にいた。今日も午前授業だったので、正午の青空に陽は高いままである。
「多感な年ごろの青春が流れるような文体で書かれてました。男女の仲に関する描写だって、とても生々しいけど読みやすかったです。ところで――」
彼は深緑色の表紙の本を閉じると、向かい側の席を見やった。
「いい加減に立ち直ったらどうですか、部長」
そこには、机にうずくまっている部長がいた。朝顔の観察日記と思しきレジュメをほっぽり出して、かれこれ十五分くらいこうしている。
「ずいぶん落ち込んでますけど、いったい担任の先生に何言われたんですか?」
「諸々(もろもろ)のことで怒られた……」
「諸々のこと?」
「写真を譲ってくれた女の子、先生の娘さんだった……」
後に彼が聞いたところによると、夏休みの後半に外へ遊びに行っていた娘さんがお菓子を持ち帰っていたため足がついたらしい。知らないお姉さんに頼まれてクッキーと朝顔の写真を交換したという証言と、その写真を部長が使用したことで特定されたというわけだ。
「そのことがバレて、大雷落とされた。小学生相手に恥ずかしくないのか、って」
「おっしゃるとおりですね」
「おかげで宿題はやり直し。さらに反省文を書くことになった」
「妥当ですね」
「朝顔と一緒に写っていた表札に気がついていれば、こんなことには……!」
「罪の意識とかないんですか?」
自分のしたことの何が駄目だったのか。それを理解していない人間に罪を償わせることの無意味さを、彼は思い知らされた気がした。
「あと、文章も否定された。最高の力作だったのに」
「いや、あれは駄目でしょ」
「駄目じゃないもん! 完璧だもん! 汗と涙の結晶だもん!」
顔を真っ赤にして、恥も外聞もなく大声で反論してくる部長に、彼はもう苛立ちを隠せなくなっていた。
なので――少しだけ、仕返しをしてやることにした。
「――わかりました。じゃあ、どこが駄目だったのか、きっちり教えてあげますよ」
「いいぜ。どんどん言ってこい、論破してやるよ! やってみいや!」
頭に血が上って完全に我を失っている部長をよそに、彼は机に放置されたレジュメを手に取ると、最初のページをめくった。
「じゃあ、まず一つ目。なんでこの観察日記は、5月から始まってるんですか?」
「いいだろう? 趣があって」
「だからって、出だしから寝そべってプロ野球の話するやつがいますか?」
「いたら面白いだろうなあ、と思って書いてみたよ」
「作り話じゃないですか。日記じゃないじゃないですか」
「そんな日記も、あってもいいんじゃない?」
「いいわけないでしょ、お馬鹿部長」
さらにイライラしながらも、彼は続きをめくった。
「次に、なんですかこの文体は。どう見ても観察日記の体裁じゃないでしょう?」
「いいだろう? 趣があって」
「なんでもそれで済まさないで下さい。紫式部が怒りますよ?」
「――清少納言、だろう?」
ニヤニヤしながら揚げ足を取ってくる部長と、己の言い間違いと知識不足にささやかな憤怒を抱きつつも、彼は平静を装いながら話を続けた。
「……とにかく、これはレポートとして提出する文章じゃないです。一部には朝顔の情報が書いてありますけど、それ以外は人物描写メインじゃないですか」
「日常のシーンを入れることで生活感が増したと思うが」
「増さないで下さい。甲子園をテレビで見る場面なんかは要りません。それに、8月20日のところなんか――」
ここで部長は少し期待した。「エッチな文章に叡智は宿るのか?」という一言から端を発した今回の件。自分なりに書いたそれらしい文章が後輩部員にどう評されたのだろうか。
いよいよ当人の口から語られるその瞬間を、固唾を飲んで待ち受けていると……。
「――やっぱり触れないでおきます」
「なんで⁉」
「そしたら、あんたの思うつぼでしょうが」
「もしや、そういう類のプレイか? 散々焦らして、もったいぶって、思わせぶりして最後はポイか? 今までもそうやってたぶらかしてきたのか? この甲斐性なしの××××男!」
「ちょっと? 伏字レベルの悪口言うのはなしでしょ? 名誉毀損ですよ?」
「じゃかましゃあ、阿保だら! えいか? うちは、おまんのそがなところが――」
部長が土佐弁紛いの言葉で吠え立てたところで、何者かの豪打をもって机が叩かれた。瞬間、割れる図書室の空気。文芸部の両名が跳ねそうになるほど勢いのある一撃だ。
「――図書室では、静かにしてくださいね?」
一瞬で奇声と騒ぎを収束させたその技の主は、受付カウンターにいた図書委員の少女だった。いかにも小柄、おしとやかそうな雰囲気なのに、人は見た目によらないらしい。
肝の冷えた二人がおずおずと謝ると、彼女は再びカウンターへ帰っていった。
「次回作で使えそうなネタだな……」
「部長、ネタの収集は控えて下さい。あと、あの手の子は飽和してますから」
小声でそんなやり取りをしてから、二人は話を本筋に戻した。
「話に深みを持たせるために、ドラマ性を持たせてみたんだ。ほら、このへんから」
「謎の老人と不気味な老女のどこにドラマがあるんですか。しかも、最後の場面で急に因縁の対決に入ってますし」
「あの作品を久しぶりに読んだら、ボクも書いてみたくなったんだ。忍者同士のバトル」
「――すいません。これ、朝顔の観察日記ですよね? というか、ただのお爺さんとお婆さんですよね?」
「ただのじゃない。ちゃんと実在する人物さ」
「え? あの――――え?」
ここで彼は、今日一番の戸惑いを見せた。
「実在するんですか、あの二人」
「さすがに忍者とか武人じゃないがね」
「そりゃそうでしょうね」
「あと、友人にもモデルがいるとも」
「え、友達いたんですか?」
「気づいていないのかい? あれは、君だよ」
「……………………は?」
さらに彼は、今週で一番の困惑を見せた。
「何がどうしてああなったんですか? 俺、あんなキザな言い回ししてましたっけ?」
「してたかもしれないし、してなかったかもしれない」
「えらくいい加減だな。そもそも、俺はベイスターズファンなんですけど」
「そうだったのか。なら、修正版ではそうしておこう」
「だから観察日記に野球を出さないで下さい。あと、部長と俺は友達じゃないですから」
「そんなこと言うなよ、マイフレンド」
「やかましいわ、目の上のたんこぶ。いや、そんなことより……」
てっきり架空の人物かと思っていたけれど、そうでないなら一つの問題が浮かんでくる。
「モデルになった人がいるのに、なんか扱いが酷くありませんでしたか? 特にお婆さんが」
「近所で畑をしている源さんだよ。地域の清掃に熱心に取り組んでいて、たまに野菜をおすそ分けしてくれる」
「そんな慈善と親切に満ちた人を、気味の悪いやつ扱いするって何事ですか」
「大丈夫、こっちのは“お源さん”だ。あと、あの人は忍者だ」
「だから忍者はいらないですってば」
どうやら部長は、よほど忍法帖がお気に入りらしい。だからといって自重して欲しいところだけれども。
「じゃあ、先生とやらは何者なんですか? こっちも頬に傷とか付けられてましたけど、本当はそんなのないんでしょ?」
「あったとも。半月ほど前に会ったときも、この目で見たから間違いない」
「半月ほど前……?」
「朝顔を枯らした後も、いろいろ相談に乗ってくれたんだ。ちなみに、服装もそこに書いてあるとおりだったよ。ただ、以前にもどこかで見たことのある顔の気がするんだが、どうにも思い出せなくてね……」
「あの、ちょっと待ってください。情報が錯綜していますので」
どうやら彼が想像していたことと、実情は異なっているらしい。しかも、なんだかいろいろとややこしそうだ。
とりあえず、一つずつ確認していく。
「まず、部長は朝顔を育ててたんですか?」
「そりゃあ、育てていたとも。観察日記を提出するなら当然のことだろう?」
「日記に出まかせ書きまくってた人が、どの口で言うんですか」
「……こんな口?」
「無理にアヒル口しないでください。池の鯉みたいになってます」
続けて、二つ目の確認。
「それで、この日記はどこからどこまでが本当なんですか。俺の出てくる場面は論外として」
「ほとんどが実話だよ。面白みを持たせるために少しばかり脚色したがね。特に後半とか」
「もう一度言いますけど、面白さのためにご近所さんを忍者とか怪異同然にしないでください。まさかとは思いますけど、他ではやってないでしょうね」
「呟いてるよ、SNSで」
「呟くなよ、大ぼら吹きが」
「じゃあ、吹くのはOKだね?」
「吹くな、吹かすな、息絶えろ」
「――なんかさらっと酷いこと言ってない?」
辛辣さが増していく中、三つ目の確認。
「それで――先生って人とはいつ出会ったんですか?」
「7月28日だよ。さっきも言ったとおり、日記の前半は脚色が少ないから、ほぼその通りだと思ってくれていい。朝顔を枯らした8月15日以降は作り話だがね」
「脚色どころか虚構じゃないですか。ちなみに、なんで枯らしたんですか?」
「姉とイベントに行っている間に、誰も水をやってなかった。家族にも言い忘れてたからね」
「助言ガン無視してるじゃないですか。で、先生にはどう申し開きしたんです? 相談に乗ってくれたってことは、正直に話したんでしょ?」
「実際に見せた上で、害虫とカビのせいで枯れたことにしておいた。いやあ、事前に本で調べといて良かったよ」
「性根が腐ってるんですか?」
「あと、事情を話したときに、近所で朝顔を育てていた子供がいたことを教えて貰った。試しに訪ねてみたら、幸運にも写真を持っていたというわけさ。先生の娘さんだったのは、大きな誤算だったがね」
「事件の犯人みたいなこと言ってるの、自覚あります?」
アリバイと偽証を取り調べつつ、最後に要点をまとめてみる。
「要約すると――最初は真面目にやるつもりだったけど、途中で枯らしてしまったから、他人のやつを参考に偽の観察日記を書いてみた、ということですか?」
「ああ、そのとおりだとも。完成したのが、これというわけだ!」
部長は得意げに観察日記のレポート用紙をひらひら揺らした。あれこれと手間暇をかけて、ある意味では部長の夏休みのすべてが詰まっているとも言えるそれは、とても薄っぺらくて、エアコンの風に吹かれただけで飛んでいきそうなほど軽く見える。
そのことを踏まえた上で、これまでの経緯を知った彼は、部長に言った。
「大人しく他の課題にすればよかったんじゃないですか?」
それを聞いた部長は、手にしていたレポート用紙を落とすと、そのまま硬直してしまった。机からも落ちた用紙は、そのまま本棚の下に滑り込んで取れなくなる。
しばしの間をおいて、部長が口を開いた。
「ねえ……反省文って、どう書けばいいと思う?」
「――普通に書いてください」
返ってきたのは一つ年下の部員からの、冷たい言葉。
季節が移り替わって、少し肌寒くなった気がした日のことだった。
まだ、陽は高く昇っている……。
次回、最終回