④二年三組所属の文芸部部長による朝顔の観察日記 ~慟哭編~
・8月8日
生憎なことに、今日は朝から雨だった。天を仰げども太陽はなく、ざあざあと粒の大きな水滴が、無数に落ちて来るばかり。なんとも気が滅入るものである。
せめて良いことがあるとすれば、朝顔に水をやりにいかなくて済んだことだろうか。降り注ぐ陽光と放たれる熱を、毎度のごとく浴びせられるのは、物好きでなければ避けたいものだ。花を咲かせるという使命感さえなければ、おそらくボクもしなかったことだろう。
居間の窓から外を見やると、軒先には朝顔の鉢があった。広がった葉で雨雫を受け流しながら、きっと、そろそろ丈を伸ばすに違いあるまい。
そんなこと考えていると、ふと、こちらに視線が注がれていることに気がついた。誰かが、道路を挟んだ向かい側に立っている。しきりにこちらを覗いている。
ようく見てみると、それは数日前に会った、例の老女であった。あのピンク色の前掛けを、けして見まがうはずはあるまい。傘を持たないもう片方の手には、シャベルの入ったビニール袋を下げている。
そして、どうやらあちらも気がついたらしく、老女は口の端を上げて笑ってみせた。そうして会釈をしたかと思うと、やがて背を向けて去っていった。
クーラーを効かせた室内は、何やらうすら寒くなっていた。雨は止む気配はない。
・8月9日
昨日の雨が残した水溜りを避けながら、ボクは今日も朝顔の前にいた。数日ぶりに液体肥料をやると、どこか機嫌を良くしたように見える。
「達者にしているようだな」
そう言いながら現れたのは先生だった。いつもと同じ格好でも汗をかくことなく、その手には何やら長い物が握られている。
「葉が増えてきたのなら、そろそろ支柱を立ててはどうかね?」
先生に言われてから、ボクはやっと気がついた。そういえば用意するのを忘れていた。そろそろ買いに行かなければと思っていたのに。
「なに、そう恥じることはない。人間、誰しも失敗はするだろう」
その心遣いに感謝しながら、ボクは先生が用意してくれた支柱を鉢に刺した。まだ小さな緑の葉の周りを、柵の付いた細い棒で囲い込む。いつかはこの棒の長さを越す勢いで成長するのだろうけれど、その姿はまだ想像がつかない。
「ところで、どうして先生はボクを手伝ってくれるんですか?」
いつかしようと思っていた質問を、ボクはこの場で投げかけてみた。唐突にも思えるその問いにも、先生は臆することなく答えてくれた。
「私はね、人に教えることに生きがいを感じているのだよ。道に迷っている若人がいたら手を差し伸べる。そうして伸びてくれたなら、何よりも喜ばしいことだろう?」
どこか超然とした答えを言う先生のことを、ボクは不思議に思わずにはいられなかった。
先生との別れ間際に、ボクはしばらく家にいないことを話しておいた。父と母はいるものの、ボクと姉は明日から旅行にいくのだ。いつもこうして訪ねてくれているのに、伝えておかないとばつが悪いと思ったのである。
「私も同じだとも。息子夫婦と一緒に伊豆へ行くことになってね」
朝顔の世話は忘れず誰かに頼むようにと言い残して、先生は帰っていった。まだ陽は高く、沈むまでには時間がある。
そういえば買い忘れていたものがあった。旅の準備を怠らないよう、ボクは足早に家へと戻ったのだった。
・8月14日
姉との旅行から帰ったボクは、真っ先に朝顔の様子を見に行った。両親に任せきりにしていたため、どうにもその安否が気になったのだ。
すると――そこにいたのは、件の老女。雨の中で不気味に笑ってみせたあの顔が、朝顔の鉢を前にして立っていたのである。
「久方ぶりでございます。元気にしてらっしゃったかえ?」
またもニヤニヤとほくそ笑んでいる老女に、ボクは常と変わらぬ素振りで返事をした。
「おかげさまで。ところで、今日はどうしたんですか? 何かご用でも?」
「いやいや、大したことではございませぬ。儂はただ、この朝顔を見に来ただけ。それだけのことでございます」
他意はないという老女の言葉を、ボクは素直に受け取っておくことにした。疑いの範疇にはないと判断したのである。
「ところで、そろそろではありませぬか?」
「そろそろ?」
「ええ、ええ。程よく伸びてきたのであれば……こう、してしまうのがよろしいかと」
そう言いながら老女は懐から鋏を取り出すと、ためらいもなしに、棒に絡みつく朝顔の茎を、先端部分だけちょん切ってしまった。切り落とされた茎が、葉っぱと共にハラハラと地面に落とされる。
「な、何をなさるんですか!」
焦りに駆られたボクが声を荒げたものの、老女は「まあまあ」と宥めるばかりであった。
「ご安心なさい。儂は『摘芯』をしただけでございます。こうして頃合いを見計らって、先を切り落としてやると、そこから枝分かれしながら成長し、花もたくさん咲くという寸法。もしや、要らぬ心遣いでしたかな?」
こちらの顔を覗き込んでくる老女に、ボクは首を横に振った。得体の知れない者ではあるけれど、その誠意ばかりは本物なのである。
「訳も知らずに早計でした。申し訳ありません」
「まあ、そう気を落としなさんな。まだまだあなたは知らぬことが多いだけ。ならば、これから多くを知っていけばよろしいのです」
気味の悪い笑みを浮かべながらも、こちらを気遣ってくる老女に、ボクは感服せざるを得なかった。この者に対するこれまでの認識を改めねばなるまい。そう強く思わされた次第である。
そういえば、先生といい、この老女といい、ボクに教えを授けてくれている両名は、おそらく知己であるようだ。いったい、どういった仲なのか。――
「失礼ですが、一つ、お伺いしたいことが……」
尋ねようとしたときには、すでに老女の姿はなくなっていた。影も形も残っていない。
あれは、白昼に見た幻であったのか。定かでないままに、ボクは屋内に戻ったのだった。
・8月20日
よく冷えた室内で衣擦れの音がした。厚手のカーテンで遮られた窓からわずかに光が差し込んでいる。外の様子は伺えない。
もちろん、外からも見えていない。ボクたちが何をしているのか、誰にもわからない。
「もう、こんなに汚して」
友人がそう言うと、ボクは「ごめん」と謝った。虫の音にも負けそうな、弱々しい声だった。
二人して汗ばんでいる。音が激しくなる。室温が高くなる。
「気持ちよくしたくないのかい?」
友人の問いかけに、ボクは言葉に窮していた。頭に何も浮かんでこない。
友人の棒がすべてを絡め取っていく。さらに音が激しくなる。窓際に置かれたアロエが干からびている。
「もっと、きれいにしないと駄目だよ」
愚痴っぽく吐き捨ててから、友人はボクへねめつけるような視線を向ける。互いの手と手が重なって、時間だけが過ぎていく。
「こんなペースだったら、部屋の掃除なんか終わらないぜ?」
ハンディモップを小脇に抱えつつ、友人は袋にあれこれと詰め込むと、バケツリレーの要領で渡してきた。後ろ髪を引かれる思いがしながらも、ボクはそれを扉の前まで運んでいく。
ある夏の日、ベッドにまでゴミが散乱していたボクの部屋を掃除したときのことだった。
そういえば、朝顔が蕾を付けていた。たぶん、そろそろ咲くと思う。
・8月21日
朝顔の咲く瞬間を見ようと、ボクは早朝から目覚めていた。あと十分もしないうちに陽が昇る。花も開くまでもうすぐだろう。
「おや、殊勝なことだな。君がこんな時間に起きているとは」
そんな声に振り返ってみると、そこにいたのは先生だった。いつもと同じ出で立ちで、普段と変わらぬ力のこもった目つきのままだ。
「先生こそ、朝早くからどうなさったんですか?」
「散歩をしていた。毎朝の習慣でね、その道中で君を見かけたというわけだ」
「なるほど」とボクは納得した。毎日のように通りがかっていたからこそ、ボクの育てている朝顔の様子を逐一把握していたらしい。
「光に当てすぎてはいないかね?」
「大丈夫だと思います。夜も明かりからは遠ざけてましたから」
どうやら朝顔は、日光や電灯と問わず、光に当てすぎていたら花が付きにくいらしい。このこともまた、先生から教えてもらったことの一つだ。
「朝顔は日が短くなったことを察してから咲き始める。『短日植物』というやつだ。人の営みでそれを妨げるのは、いささか道理にかなっていないと思わんかね?」
先生からの問いかけに、ボクは「わかりません」と答えた。この人と話をしていると、たまにどの視点から物事を捉えているのかわからなくなる。今回の質問も、ボクにはとっては難しいものだと思われた。
「そういえば、今後のことについて話していなかったな」
「今後のことですか?」とボクが訊き返すと、先生は朝顔を見据えながら言った。
「花が咲き始めると、これまでより虫が寄ってきやすくなる。アブラムシやカメムシなんかがその最たるものだ。それを防ぐためには――」
「これを、お使いになるとよろしいでしょう」
先生の言葉を遮るように現れたのは、あの老女だった。いつもどおりの笑みを顔に貼り付けて、気配なくボクと先生の背後へ忍び寄ってきていたらしい。その片手には、黄色い液体が入った霧吹きが握られていた。表には、「酢」と書かれたラベルが貼られている。
ボクが思いがけぬ来客に驚いて飛び退くと、それを見た老女は、ヒヒヒ、と笑った。
「おやおや、背中がお留守のようですな。それに――あなた(、、、)も」
そう言いながら老女は、先生の方を見やった。対する先生も、臆することなく老女を凝視する。その目には、普段以上に力がこもっていると思われる。
「貴様――“土肥のお源”か」
「そういうあなたは“冊帳の壇上”。お久しゅうございます」
「また、俺を背後から襲うつもりであったか。あのときのように」
「いいえ、そのようなつもりはございませぬ。それに、あれは不幸な事故。敵意も害意を一切なく起こった偶然であります」
「何を馬鹿なことを」と、先生は声を荒げた。
「幼少の頃、お前に突き飛ばされたせいで、この俺は――」
「肥やしに塗れてしまわれたのでしたね。ちょうど、畑のそばに積まれていたものに。道を歩いていたあなたと儂が、たまたまぶつかってしまったばっかりに」
「ぬけしゃあしゃあと、抜かしおる」
「それはそれとして、儂もあなたをお恨みしていることがございまする」
「何のことだ」と先生が言うと、老女は憎々しげに、声を押し殺して語り始めた。
「――あれは忘れもせぬ。幼少の時分に学び舎にて、おぬしが床に積み上げていた本に、儂は足の小指をぶつけるに至った。一度ならず、二度も、三度も、四度も五度も……。この恨み、はらさでおくべきかと何度思ったことか」
「それこそ、不幸な事故だろう。むしろ、屋内で走り回っておった貴様の不注意ではないか」
「黙らっしゃい! 共有の場であることを顧みず、散らかしておったおぬしの落ち度じゃ!」
両者による恨み、つらみの言い合いは、次第に熱が入り始めていた。
「であれば――これから決着を付けるか? 儂と、おぬしで」
「よかろう。受けて立つ」
老女と先生、互いに売り言葉と買い言葉を並べたかと思うと、一様に距離を取り合い、また向かい合った。殺気同士がぶつかり合い、満ち満ちていく。両者の覇気が臨界点に達し、一ミリたりとも身動きの取れない、剣吞とした場が出来上がる。――
「作麼生んんん!!」
「説破ぁっ!!」
老女と先生がそれぞれ叫び、張りつめた空気が弾けたとき、相対した老いぼれ同士が地を蹴った。老いたる者とは思えぬ素早い動きで、拳を構えてぶつかり合う。その形相は、もはや人のものではない。獣そのものと成り果てたものだ!
一陣の風が、草葉も残らぬほどの勢いで吹いた、その刹那――――。
「…………あれ?」
ボクが気づいたときには、二人の姿は消えていた。老女も先生も、いつのまにかいなくなっていたのである。影も形もなくなっている。見渡してみても誰もいない。
それでもボクは懸命に二人を探してみたけれど、やはり見つからなかった。
だが――代わりにあるものを見つけた。
「あ…………」
朝焼けの中でそれを見たボクは、美しさのあまり思わず声を上げてしまった。
朝顔が、大きな花を咲かせていた。
次回へ続く