③二年三組所属の文芸部部長による朝顔の観察日記 ~立志編~
・5月19日
「今年のカープは、やるだろうねえ」
市民球場の脇にある芝で寝転がっていたとき、ふいに友人がそんなことを言いだしたので、ボクは「どうしたの?」と尋ねてみた。球場からは少年野球の騒ぎ声が聞こえてくる。
「どうしたのもなにも決まってるじゃないか。今年は選手の層が厚くなったんだ。打ってもいいし守ってもいい。あと半年もしたらリーグを制覇してるだろうぜ」
ボクは野球をろくに知らないので、「そうなんだ」とだけ返した。自分の知っていること、感じていることを相手も理解してくれると思い込んでいるのは、この友人の悪いところだと思っている。
「ところで今日は天気がいいね。絶好の行楽日和だ」
ボクがそれとなく話題を変えると、友人は「まったくだ」と答えた。
「だからこそ、俺たちはこうしているんじゃないか。天気がいいからといって、せかせかと動き回る奴らの気が知れないね」
「他の人たちはそう思ってはいないかもしれないよ。だからこそ行楽日和なんて言葉があるだろうし」
こんなボクの言い分に友人はへそを曲げたらしかった。寝そべったままだから顔色までは伺えなかったけれど、一向に口を利いてくれなくなった。風が芝を撫でる音がばかりが聞こえてくる。
しばらくそんな時間が過ぎていったところで、友人が言った。
「朝顔を、育ててみようか」
「どうしたんだい、急に」とボクが話を聞いてみると、友人はそれとなく話し始めた。
「いっそ他人がしないようなことをしてみようじゃないか。いま、この場でなくていい。思いついたときにでもやろう。それがいい」
ボクにはよくわからなかったけれど、彼は本気のようだった。
市民球場から歓声が上がった。どうやら勝敗が決まったらしい。
・7月28日
ボクは朝顔を育て始めた。ある日に友人が言っていたことが気に掛かったからだろうか。自分でもよくわからない。
庭の片隅で泥にまみれていた植木鉢をきれいに洗って、ホームセンターで買ってきた土を入れてやるとそれなりに形になってくれた。急に中身を詰め込まれた植木鉢にとっては迷惑だったかもしれないけれど、さすがに文句は言い出さなかった。
あとは種を蒔くばかりだとボクが思っていると、「待ちなさい」と声をかけてくる人がいた。
誰かと思って振り返ると、それは身なりのいい老人のようだった。もうすっかり夏だというのに、紋付きの真っ黒い和服を着こんでいる。汗は一つもかいていないが、その右頬には一筋の傷跡がある。
老人は下駄をカラコロと鳴らしながら、ボクのほうへと歩み寄ってきた。
「君は、いま何をしているのかね」
「朝顔を植えているんです」とボクが答えると、老人は「それではいけない」と言った。
「種には傷をつけなさい。そうすれば芽を出しやすくなる」
ボクは老人の言うとおりにすることにした。どうやらこの人は、朝顔を育てることに詳しいようだし、ボクとしてももっと助言が欲しかったからだ。
ひととおりの段取りが終わったころには、ボクはその老人のことを“先生”と呼んでいた。老人のほうも断ることなく「好きなように呼ぶといい」と言ってくれた。
曇りがちで蒸し暑い日のことだった。種は、まだ蒔いたばかりだ。
・7月30日
「やあ、やってるかい」
ボクが朝顔の鉢を見ていると、友人が訪ねてきた。今日は朝からよく晴れていたので、どうやら散歩がてらに来たらしい。
「お、芽が出ているじゃないか」と彼は感慨深そうに言った。「君のことだから、とっくに枯らしてしまっていると思っていたよ。どのくらいになるんだい?」
「かれこれ一週間さ。花が咲くには、まだまだかかるよ。一か月くらいだったかな」
「長いね。ま、それまでちゃんと育てられるのか、見物だな」
ボクは、これは友人なりの激励なのだと受け取った。いつも彼は人に挑発するようなことを言ってやる気を出させる。彼は不器用なやつなのだ。
「ところで、これから一緒に来ないか? 近くの公園でいい試合をしてるんだ。気晴らしにどうだい?」
友人がボクにそんなことを言った。そういえばそんな時期だったかとぼくは思った。毎年このくらいになると、近隣の中学生たちがグラウンドに集まって合同試合をしている。上級生がいなくなって、チームの力量を測りたいコーチたちが執り行っているらしい。
ボクはサッカーのことを知らないけれど、「もちろん行くよ」と答えた。ちょうど朝顔ばかり見ていることに嫌気が差してきていたからだ。
今日は汗ばむほど蒸し暑い日だった。花が咲くには、まだ遠い。
・8月1日
どんよりと、空が曇っていた。ボクは朝から水をやるために、庭先へと歩を向けた。
すると――朝顔の鉢の前に、見慣れぬ顔があった。麦わら帽子をかぶり、薄い桃の色をした前掛けを身につけた老女が、袋を下げてそこにいたのである。
「何用か」と尋ねる前に、こちらに気がついた老女が言った。
「これは、あなた様の鉢でございますか?」
「そうです。ご覧のとおり、まだ芽が出たばかり。花を付けるのは、当面先のことでしょう」
「左様ですか」
と、老女は呟いた。
「しかし、よろしいのですかな? このままだと、大輪の花を咲かせることなく、散っていくことになりますよ?」
「どういうことですか」
と、ボクが問うと、老女はクツクツと笑いながら、袋から何かを取り出した。そこから放たれている異臭――ツン、と鼻を突く香りが辺りに漂っていた。
「これは、肥やしでございます。これを少量、土に混ぜてやるとよろしいでしょう」
「しかし――酷く臭います。他に方法はございませんか?」
ボクがそう言うと、老女は笑みを浮かべたままで答えた。
「では、ホームセンターに行きなさい。私は、これ以外に何も持ち合わせておりませぬ。そこにはきっと、あなたがお望みになる品があることでしょう」
一言だけを残して、老女は去っていった。親切心だったのか、気まぐれだったのかは知らないが、ありがたい助言であったことに相違ない。――
その昼、ボクはホームセンターへ走った。店員に訊くと、液体肥料というものがあるらしい。それだけを買うと、ボクは店を出た。
夕刻になって、水で薄めたそれを朝顔にくれてやった。これが功を奏するのかは知れないが、やらぬわけにはいかなかった。
如何なる結果を生むことになるのか、それは存じぬことである。
・8月2日
昼下がり、ちょうどボクが出かけようとしていたところで先生に出会った。今日も紋付きの和服を着ていて、堂々たる立ち振る舞いだ。おかげで頬の傷跡が殊更に目立っているようにも見える。
「や、しばらく。どこかへ出かけるのかね?」
「ちょっと買い物へ」とボクは答えた。愛読している漫画の新刊を目当てに、これから書店へ赴くつもりだったのだ。
「このところ暑くてたまりませんね。テレビでもアナウンサーが毎日大騒ぎしてますよ」
「そうかね? いつもと同じくらいだと思うが」
どうやら先生にとっては、ここ数日の猛暑日は何のこともないらしかった。ボクがこれから書店へ行くのはクーラーを目いっぱい浴びるためなので、どうも先生はボクと対局に位置しているらしい。
世間話がてらに振った話はまるで膨らまず、しゅんとしぼみきってしまった。かといって出会ったばかりのボクと先生には、朝顔のことくらいしか共通の話題がなく、自然とその話になった。
「おや、以前よりも大きくなっているじゃないか」
「ええ。肥料をやり始めてから調子がいいんですよ」
ボクが昨日の老女のことを話すと、どういうわけか先生は額に皺を寄せていた。ボクは怒らせるような話をしたつもりはないし、心当たりもまるでない。その深い皺の間に何が流れているのか、全く読み取ることが出来ない。
「先生。ボク、何かおかしなことを言ったでしょうか?」
「君が? どうして?」
「いえ。先生がずいぶんと難しい顔をなさっていたので、気になって」
先生は「ああ」とだけ呟くと、理由を話してくれた。
「気にすることはない。少し昔のことを思い出していたんだ」
「少し昔、ですか」
「とはいえ、君にとっては遠い昔のことかと思うがね」
その日、先生とはそれだけ言って別れた。昨日の老女について思うところのあるふうだったけれど、ボクはとうとう訊くことができなかった。
吹いてくる北風すら熱を帯びた、そんな晴れた日のことだった。
・8月6日
「それはなんとも気になるね」
ボクが先日の先生との出来事を話すと、テレビ画面の中で行進している選手たちを横目に見ながら友人はそう言った。今日は夏の高校野球大会の開会式があり、彼とボクの家で一緒に見る約束をしていたのだ。
「その先生って人と、例のお婆さんは知り合いなんじゃないのかい?」
「そうだとは思うけど、様子が変だったんだ。どうも険があるって感じでさ」
「じゃあ、仲が悪かったんじゃないか? それより、俺が気になってるのは、その先生のことだよ。どうして君の夏休みの宿題を率先して手伝ってくれているんだ?」
ここでようやく、ボクも違和感を覚えたのだった。まだ出会ったばかりだというのに、いたく親切にしてくれている。感謝の念は捨てきれないけれど、不思議に思うところもある。
「次に会ったときに聞いてみるよ。ところで、君のところの朝顔はどうなんだい? きっと、もう花を付けているころなんじゃないか?」
友人はボクよりひと月ほど早く、朝顔を育て始めていた。その時期から考えて、そろそろだと思ったのである。
しかし、どうやらそうではないらしかった。
「ああ、あれなら枯れたよ」
「枯れた?」
「そうとも。俺は水をやり過ぎた、構い過ぎたんだよ」
口から吐き捨てるように出てきた言葉は、彼なりに愛情を注いでいた証左なのだろう。ボクは友人の姿を見ながら、そんなことを思ったのだった。
「ところで、君のほうはどうなんだ? 水はきちんとやってるかい?」
この一言でボクは、ようやく今朝の水やりを済ませていなかったことを思いだした。朝と夕方には欠かさずやっているつもりだけど、毎日やっていることだからこそ当たり前のように忘れがちなのだ。
すでに時刻は午前十時。もういいやと思ったりもしたものの、気づいたときにやっておくことにした。いささか遅い気がするけど、やらないよりはいいだろう。
今日も汗ばむような暑さだった。頭上では太陽が煌々と輝いていた。
次回へ続く