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①タイトルに偽りなし

「エッチな文章に叡智は宿るのか?」


 八月末日、まだ暑さも盛んな頃のことだった。


「エッチな文章に、叡智は宿るのか?」


 午前授業が終わり、放課後になったとある高校の図書室は厳かな静寂に包まれていた。

 そこには、ただ二人しかいない。


「もう一度訊こう。君はエッチな文章に、叡智は宿ると思うかね?」

「あ、やっぱり空耳じゃなかったんですね」


 その静寂は、なんとも下賤で品のない一言によって、見事打ち壊されたのであった。

 文芸部員である彼がスルーしようとしたものの、発言者である部長がそれを許さなかった。いかにも熱のこもった口調で、またも語りかけてくる。


「当然だとも。ボクは真面目な話をしようとしているんだからね」

「どう考えても真面目じゃないです。熱中症ですか? ポカリいります?」

「不要だとも。ボクは至って正気さ。それと、ボクはヴァーム派だ」

「そうですか。よかったですね」

「ところで、さっき言ったエッチな文章の件なんだが――」


 一方があからさまに聞く耳を持っていないのに、部長はまだ同じ話題を続けるつもりらしい。いったいその熱量はどこから出てくるのか。化石燃料で動いているのだろうか?


「ボクは思ったんだ。そういった文章にこそ、作者の智慧が隠れているんじゃないか、とね」

「なにがどうしてそんな結論に至ったんですか? あと、エアコンの温度下げてください」

「いいとも。君がこの話に付き合ってくれるなら、ね」


 席に座って文庫本を読んでいた彼が視線を上げると、向かい側にいる部長は得意げな笑みを浮かべていた。その手には、図書室のエアコンのリモコンが握られている。どうやら質に取っているつもりらしい。

 仕方がないので、彼は立ち上がって入口壁際のコンパネへ向かった。


「あ、ずるい!」

「ずるくないです。至極真っ当な対応です」

「……せっかく友人と、話題を共有出来ると思ったのになー」


 部長はすっかり拗ねてしまった。リモコンを机の上に置いて、表に向けたり裏向けたりしている。カチャカチャと鳴ってすごくうるさい。

 ――こうなったら、面倒くさいからな……。

 この本は後から読むことは出来る。そう割り切って、彼は部長に付き合うことにした。今後も顔を合わせることを想定すれば、とても賢明な判断である。


「俺は友人じゃないです。ただの部員です」

「釣れないこと言うなよ、友人。君も、友達少ないだろう?」


 にやけ面でストレートかつ思慮のない物言いをかます部長に、彼はすこぶる気分を害した。先ほど下した判断は、どうやら正しいものではなかったらしい。目上におわすこの愚者には、一切の血も涙もなくすべきだったのかもしれない。

 ――だったら、さっさと終わらせて帰ろう。すぐに。早急に。速攻で。

 顔には鉄の仮面を被り、心の内で大人の対応を決め込みつつ、彼は部長に疑問を投げかけた。


「それで部長、その妄言の根拠は何なんですか? エッチな文章って、官能小説でも読んだんですか?」

「いや、一般文芸さ」

「一般文芸……? じゃあ、色恋沙汰のドロドロのやつとか?」


 部長は右手人差し指を立てて、ちっちっちっ、と振ってみせた。フィクションでありがちな仕草だけど、いざ眼前でされると無性にイライラさせられる。


「説明するのもなんだから、実際に読んでみたまえ。読めば、わかる」


 もったいぶった言い方をしながら、部長は一冊の本を机上に滑らせて渡してきた。

 それは、一面が真っ赤な表紙のハードカバー本。世界でも名の知られた作者の作品で、上下に分けられたうちの上巻だ。彼も読んだことはないが、名前は知っている。


「その七三ページの後半からだ。すでにスピンは挟んである」


 ずいぶんと準備がいいな、この部長は。

 そんなことを思いつつ、彼は栞紐の閉じられたページを開いてみた。

 そこにあったのは……主人公の青年と、ヒロインと思しき女性が“寝る”場面だった。


「いまさらですけど、これって新手のセクハラですか?」

「違う、真面目な談義だ。そのまま続けたまえ」


 気が乗らないながらも、以前から興味をそそられていたタイトルであったので、彼は読んでみることにした。さりげないふうでとても読みやすくて、サラサラとしてくどくなく、どこか爽やかさを感じさせる。そんな不思議な文章だった。

 部長が言っていたシーンは短く、ほんの一ページほどでまとめられていた。直接的な表現や単語が出てくるので、思春期の彼には少々気恥ずかしく感じられる。思わず両方の耳まで赤くなる。


「たしかに、刺激的ではありますけど……。部長の言う叡智はどこにあるんです?」

「よく見たまえ。前後や冒頭の部分を読めば、違いがよくわかる」


 あれこれと言われるのは癪だけれど、彼は部長の言うことに従ってみた。

 その結果、やっぱりよくわからなかった。


「別に変わりはないと思いますけど……。というか、どの場面でも言葉選びがすごく上手なんですけど」

「気になるなら後で借りたまえ。下巻もそこにあるから」


 タイトルしか知らなかった過去の名作。年月を経てから触れてみても、そこにはえもいわれぬ味わいがある。彼はそのことを改めて実感した。

 だがしかし、今回の本題はそんな真面目なものではない。もっと面目がないものだ。


「どうにも伝わらなかったみたいだから、言葉で伝えさせてもらおう」

「いや、始めからそうして下さいよ。めんどくさいな、ホント」


 一つ年下の後輩部員からの言葉にだんだんと遠慮がなくなっているものの、部長は特に気に留めることなく話を続けた。


「該当する箇所をもう一度見て欲しい。そこには君の言うとおり、人前では口に出すことが(はばか)られるような単語が数多く並んでいるだろう?」

「まあ、そうですね」

「それでいて、段落をほとんど変えることなく、そのままのやり取りを書き連ねてある。一ページだけという限られたスペースに凝縮されていて、情報の密度が高くなっている。場合によよっては、非常に読みにくくなっていても不思議ではない部分だ」


 だがしかし、と前置きをしつつ、部長は話を続けた。


「不思議なことに、これが読みやすくなっている。際どい言葉が多数使用されているはずなのに、いやらしさというものを感じにくくなっている。これはすなわち――作者が細心の払った上で叡智を結集し、そういった印象を与えないようにしたからではないか?」


 部長の自信満々なご高説が終わったところで、彼は本から目を上げて言った。


「…………え、それだけ?」


 彼は真顔になっていた。あまりにも理由が弱すぎて、思わず呆気に取られてしまったのだ。ずいぶんと仰々しく言うもんだから、もっと説得力があるものと思っていたのに。


「部長、それってつまり、『文才があった』ってことでいいんじゃないですか?」

「ざっくばらんに言えば、たしかにそうなる」

「ざっくばらんて……」

「しかし――まだモデルケースはある」

次回に続く

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