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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

山寺の岩

作者: 鍋島五尺

 愚鈍な男がいた。


 男は生まれつき愚鈍であった。そして誰よりもそのことを理解していた。

 顔は醜く、皮膚は泥を塗りたくったように浅黒い。瞼は夜の帷のようにずっしりと重く、鼻はちょうど土団子を踏み潰したような形をしていた。左耳はその体を成しておらず、ほとんど聾であった。分厚く腫れ上がった唇は男の珍妙さを象徴しているようだった。頬は不恰好に膨らみ、右と左で形が違っていた。体の筒のような部分は押し並べて短く太く、その背丈はいくら歳を重ねても子供のようであった。また、先天的な病により、右脚が石のように硬く膝を曲げることができなかった。

 その造形から男は口が上手く動かすことができなかったため、無口であった。思うことがあってもその口がもつれて動くため、人に事を伝えるには不便した。顔も同様であって、表情というものが男にはまるでないように見てとれた。笑おうと試みても頬は引き攣ったように動くのみであったし、怒るにも悲しむにも同じであった。ただ平常であっても他人からは不機嫌であるように見え、無愛想であると思われた。

 手足も等しく、男の行動を何から何まで邪魔してまわった。仕事の類はどれも下手で、実親さえも男を穀潰しと思い寺に追いやった。


 しかし、男にも心があった。男の心は人一倍敏感なものであった。

 村の誰よりも空の美しさを知っていた。聾の耳も鳥の囀りを聞いた。大木の頑強な様に感嘆した。生きる素晴らしさを理解していた。しかしそのどれも男には表すことはできず、人々は彼を木偶だと罵った。


 唯一人、男を理解したのは寺の住職であった。その寺は山の奥にあり、長い石段を気が遠くなるほど登ったその先にあった。その山には底が霞む程深い谷があり、その谷風で岩が転げ落ちるので、ガーン、ガーンという音がいつも寺に響いていた。村人達は男の醜さをもう見たくはないとその寺に追いやったのだった。

 寺の住職も一見では男の本質を見抜くことはできなかった。心の奥底では面倒事が増えたと落胆したが、仏法によって男を住まわせた。

 男は寺にやってきてからしばらくの間雑用を言いつけられていた。御堂の床を磨いたり、落葉を拾って燃すだけの役目を任された。男は不器用ながらもそれらの仕事を続けた。男は自分が誰よりも愚鈍であることを理解していたため、それを淡々とこなすことを第一に考えた。男がどの坊主よりも早く起きて仕事をしているため、住職はそこにだけは感心していた。


 住職が男の素質に気がついたのは、それから暫く経った後であった。

 人里離れた場所とは言っても、村に一つしかない寺院であったので、来客はそれなりにあった。その日も男は言い付けられた仕事をこなしていた。

 夕方日が傾いてきた頃、御堂の掃除をしていると村人が一人やってきた。この村人はどんなに食べても痩せ細った体が変わらず、それで女に相手をされない自らの容姿を嫌っていた。だからこそ男をひどく嫌い、誰よりも気勢よく男を痛めつけた者たちの一人であった。村人は男を見つけると、甚だ疎ましげに住職はどこにいるかと尋ねた。男は黙って離れの方を指差し、仕事を続けた。半刻ほどすると村人は住職を連れて戻って来、本尊の前で少し祈りたいのでそこを開けてくれと男に言った。男は仕事をほとんど終えていたので、黙って御堂を明け渡した。

 男は村にいた頃のことを思い出した。その醜さ故に疎まれ、煙たがれ、訝しがられた。男は怒りを覚えた。しかし、男は昂る感情を抑える術を知らなかった。その怒りから男は雄叫びをあげ、ところ構わず駆け出した。その声を聞いた住職は少し男のことが心配に思い、村人が帰ったのち男を探した。

 男は寺の裏手にある林に立っていた。見ると、男は腕を高く振り上げ、岩に何かをしきりに叩きつけているようであった。住職は恐ろしく思い、それを止めることができなかった。ガーン、ガーンという音がいつにも増して山に響いた。

 陽のその殆どが山々に隠れきった頃、男は急にその手を止めた。林の中はもう薄暗く、それでいて赫い夕日が眩しく差し込んでいた。そろそろと近づいてみると男が急に振り返ったので住職は驚き跳ね、歩みを止めた。男は何も言わず住職をじっと見つめ、こちらに来いと言うかのように一歩だけ後ろに下がった。恐る恐る住職が大岩に近づいてみると、そこには鬼の形相が彫ってあった。それは見るに恐ろしく、今にも動き出して人を食ってしまいそうな面をしていた。住職はもう老人であったが、これほどにもおどろおどろしいものは見たことがなかった。それはまさしく傑作であった。

 住職は男にこれをお前が彫ったのかと尋ねると、男は一度だけ小さく頷いた。どうやって、何で彫ったのかと訊けば、男はその右の手に持った小さく錆びた刀を住職に見せた。

 住職はいたく感心し、これまでの考えを改め、男に色々と問うてみることにした。住職は御堂に男を連れて行き、それで向かい合って座り、身の上のこと、思うこと、生まれのことなどを尋ねた。男は問われたことのみを簡潔に答えるだけであったが、その瞳は住職が男を理解するには十分な鋭さを持っていた。住職は男に新しい小刀を与え、仕事はこれまで通りに、それでいてこれからも彫り物を続けるようにと言いつけた。男はこれを承諾した。


 それからというもの、男は昼過ぎまでには仕事を終えるようにし、それから日没までの猶予を彫り物に使った。男の心にある全ての怒りそれぞれの面を彫った。住職は手が空くといつも男が彫る様を見に行った。

 男の彫った面はどれも魂があるように見えた。そして、男の顔はそれを彫っている時にだけ、その面と同じように禍々しい怒りを表していた。住職はその様から男が短くも苦しい道を生きてきたと知り、その業を憐れんだ。

 日が落ちると住職は男を御堂に呼び、仏道について説いた。男はいつも無表情でいたが、じっと岩のように動かず熱心に聞いた。男にとって、仏の教えは輝いて見えた。仏とやらだけやらが俺をわかっている。だから住職も俺をわかってくれるのだと感じた。


 いつものように男が御堂の掃除をしていると、またあの村人が寺へやってきた。村人は同じように乱雑に、住職の居場所を男へ尋ねた。男はすくっと立ち上がり、ぎこちない笑顔を浮かべて離れの方を指差した。村人はそれを怪訝に思い、黙って離れへと歩いていった。

 男はその態度に腹が立った。一体どうしてあのような男に仏道が解るだろうか。人を見下し、人を人とも思わぬような奴に仏道が解るものか。男はえも言われぬ哀しみを覚えた。

 男はまた裏の林へ向かい、一心不乱に岩を彫った。今度は哀しみの面であったが、これもまた傑れていた。目にどっぷりと涙を溜めて、今にもおいおいと泣き出さんばかりの面であった。ふと、男は自分の頬に涙が流れていることに気が付き、驚愕した。男はこれまで泣いたことがなかった。泣こうとしても涙がうまく出てこない。泣き声は野良犬が唸るように低く汚く、家のものがそれを禁じていた。しかし今、男の顔には涙がつらつらと這っていた。

 男は、面を彫るたびに自分が真っ当な人間になっていくように感じた。情動を彫ることで、それを人並みに表現できるようになっていく。それが許される。男は自分の醜さが業に因るものだと知っていた。積み重なった業の末に俺は愚鈍であるのだ、そう強いられているのだと知っていた。そしてその業が、一彫りする毎に削れていくように感じた。俺は岩を彫るのと同時に業を彫っているのだ。これからも何千、何万と面を彫ろう。そうしてやっと俺は人間に成れるのだと思った。


 男が哀しみの面を彫り続けていると、背後から大きな笑い声が聞こえた。それが住職のものではないと男はすぐに気付き振り返ると、そこにあの村人が立っていた。

 村人は男を指差し、高らかに笑い続けた。何がそんなに可笑しいのかと男が問うと、その声の不恰好に村人はまた笑った。ひとしきり笑い終えた後村人は男に近づき、にやにやとした表情を浮かべながら、お前は何をやっているのだ、彫り物なぞやって人間のつもりかと言った。

 村人は男の才を知らなかった。面を見てもその才を見出すほどの秀眼を村人は持ってはいなかった。男が仏道をもっとよく知っていれば、哀れであるのは村人の方だと見抜いただろう。しかし、男にはまだそれだけの理解はなかった。そして何より、やっとのことで掴んだ人生の煌めきを一蹴されたことが男には到底許せなかった。

 男は腕を伸ばし村人の首をぐっと掴むと、そのまま地面に投げ飛ばした。起きあがろうとする村人の顔を左足で蹴りつけ、そのまま地面に倒れ込んだ。そして傍に落ちていた石で何度も顔を殴り、そのまま男は村人を殺してしまった。

 男ははっと我に返り、俺はなんて恐ろしいことをしてしまったのだと思った。男はしばらくそのむくろの側で動けずにいた。

 すっかり暗くなり住職が男の様子を見にやってくると、住職は倒れ込んでいる村人と男の汚れた着物を見て、全てを悟った。なんてことをしてしまったんだ、お前には才能があったのにもう戻れない、と男を叱りつけた。それでいて、この男の中にある憎しみや怒り、そして何よりその才を見出していたのにも拘らず、この事態を止めることができなかった自らを恥じた。

 この寺に彼が訪れた事は家族が知っているだろう。明日になっても彼が帰らなければ村人達は彼を探しにここへやってくる。そうすればお前は必ず彼らに殺される。だから今のうちに山へ入りなさい。そうしてもう二度とここへ戻ってきてはいけない、と住職は男に言いつけた。男は涙を流しながら小さく頷くと、右足を引き摺って林の奥へと進んでいった。住職にはその姿が怪我をした野良犬のように見えて、哀れで仕方がなかった。

 翌朝、寺に村人達が駆け込んできた。あの村人が来たはずだ、今どこにいると問われ、住職は林の亡骸を村人達に見せた。石でめった打ちにしたので、瞼は腫れ、鼻は潰れ、それはまるであの男のように醜いものだった。村人達はそれを見てひどく悲しみ、男はどこだ、我々が仇に殺してやると怒り狂った。住職は、男は彼を殺した後、それを悔いて谷に飛び降りたと説明した。谷は深く、とても男の死を確認する事はできなかったため、村人達はそれを信じ諦めた。


 昼夜山の中からはガーン、ガーンという音が響いた。住職にはその中に男が岩を彫る音があるとわかっていたが、来客にはただ岩が風で転げる音だと言った。

 男が山に入って初めの新月の夜、住職は提灯を持って男を探した。彫り音は岩が転げ落ちる音によく似ていたので、男を見つけるのにひどく苦労した。

 男は山頂に程近い岩場に座って居た。まだ数日だというのに、男の周りには十数体の像があった。それらの顔はどれも違っており、そしてどれも喜怒哀楽それぞれの表情を生き生きと映し出していた。

 男は夢中で岩を彫っていたので、住職が来たことに暫く気がつかなかった。住職が男においと声をかけると、男は振り向いて会釈をした。またガーン、ガーンと少し彫った後、和尚、俺の業はこれで削られるだろうか、と男は住職に訊ねた。住職はただ一言、うんと答えた。それは男への畏れからではなく、本当にそうだと住職は思った。

 住職は、男が座ったまま彫っているのを見て不思議に思った。男はいつも立って岩を彫っていたはずだった。住職がそのわけを訊ねると、男はその両足を放り出して住職に見せた。提灯を近づけて見てみると、男の両足が岩のような色になっていた。男が触ってみろと言うのでその通りにすると、その黒ずんだ肌は石のように硬くなっていた。あいつを殺した日から段々とこうなっていってしまった、これも業かね、と男は言った。住職はまた、うんと一言言った。


 住職は新月になると、毎度山へ入った。その度に男の周りには石像が増えていた。それに応じるかのように、男の肌はどんどん黒く、硬くなっていった。男は腰がそうなってしまって以来、ろくにものを食べていなかった。足元を通る虫のみを掴んで食った。木の葉から滴る水だけを飲んでいた。そのために、男は窶れていった。

 それでも男は彫ることをやめずにいた。腕が動くうちに岩をひとところに集めてきてそれを彫った。右肩が動かなくなれば左手を使った。左手が動かなくなれば小刀を口に咥えて彫った。いつからか、男は住職が声をかけても答えなくなった。男の心には彫ることのみがあった。


 丁度十一度目の新月の夜、住職がまた男を訪ねた。すると男が急に彫ることをやめ、小刀を地面に落とし口を開いた。


 「和尚、聞きたいことがある。俺は業の中に生まれ、業のためにこうやって死ぬ。人は皆そうなのか。生きとし生けるものは皆こうなのか。和尚、あんたもそうなのか。」


 住職はまた、うんとだけ答えた。すると男はどこか遠く、遥か遠くの方を見つめた。住職にはその醜い横顔が一瞬、弥勒のように見えた。もの悲しく、しかしどこか嬉しそうに思えた。それは男の元来生まれ持ったその顔からは想像もつかないような変化であった。

 男は小刀を拾って咥えさせてくれるように頼み、住職はそうしてやった。そしてまた男は岩を掘り始めた。


 次の新月に住職はまた山に入った。

 男は岩になっていた。数えきれないほどの石像に囲まれて、男もまたその一つとしてあった。その石像は、他のどれと比べても美しかった。喜怒哀楽どの表情とも取れる顔つきを浮かべ、そこに佇んでいた。

 住職はそれらをひとつひとつ寺へ運び、離れの部屋に並べ、毎夜仏道を説いた。坊主達は初めのうち、和尚は気がおかしくなってしまったのかと思ったが、それを除けば普段と変わらなかったため、以降は特に気をとめなかった。程なくして、住職は病にかかり息を引き取った。


 寺坊主曰く、ガーン、ガーンという岩が転げ落ちる音は、今も山から聞こえてくるそうだ。

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