魔女の子どもたち<2>
シスターとともに向かった先は、町の北東に広がる丘を上ったところに建つ家。
冬が来るというのに庭は多くの緑に満ち、それらに調和するように彩られた緑色の屋根が陽光に照らされている。
扉の向こうから現れたのは、背の低い年配の婦人だ。
魔女だと聞かされていたコルトは、彼女の姿にいささか拍子抜けをする。絵本に出てくる、鉤鼻でしわくちゃな老人の姿を、どこかで思い描いていたのだろう。
シスターは婦人といくつかの会話をしたのち、コルトの頭を撫でて帰っていく。残されて、少しだけ居心地が悪くなった。
しかしこうして見知らぬ場所にやって来るのは、寄宿舎、教会と続いて三度目だ。
幼いころから、父親に連れられて大人たちの集まりに顔を出すこともあったコルトは、十歳にして処世術を身につけている。
「はじめまして、ロサ。コルトと申します。僕の身を引き受けてくださったこと、感謝します」
「おや、素敵な紳士ですこと。精霊たちが騒ぐわけね」
「精霊ですか?」
「貴方が暮らしていた地では、縁遠い存在だったかもしれないけれど」
「不勉強で申し訳ありません。教会のシスターたちから、わずかではありますが聞き及んでおります。セーデルホルムにとって、精霊は良き隣人であるのだと」
「そう畏まらなくてもいいのよ、コルト」
苦笑する魔女――ロサの真意を探ろうと、コルトは『耳』を澄ませて、目を見張る。
目前の相手の心を読むなど簡単なことだった。
しかし、ロサの『声』は聞こえてこない。まるで分厚い壁に隔てられているかのように、向こう側の声が聞こえてこないのだ。
こんなことは初めてだった。
魔女というのは、そういうことなのか。
不思議なちからを持っている、超越したなにかを持った、ヒトではない存在。
冷汗が流れた。
相手の心が知れないということは、こんなにも恐ろしいことだったのか。
思えばコルトは、物心ついたころから常に他者の心を聞いて生きてきた。聞こえることが当たり前で、そうではない人間と相対したことは一度もなかったのだ。
何を考えているかわからないと、どう対応していいのかわからない。
相手が望む姿を見せ、裏をかき、油断させてからコントロールする。
そうやって日々を送ってきたコルトにとって、このロサという穏やかそうな女性は得体の知れない恐ろしい人物として映った。
「どうかしたの? 仮面が外れているわよ、坊や」
「――なっ」
楽しそうに笑われて、コルトの顔に朱が走る。振る舞いには絶対の自信を持っていたのに、それを笑われるだなんて心外だ。
しかし声をかけられたことで、考えを巡らせる余裕も戻ってきた。対応の仕方を考え直す必要がある。
多くの女性は、コルトが紳士ぶって見せれば顔を綻ばせて喜んでくれたものだが、ロサはそうではないらしい。南部らしい濃いブラウンの髪と、相反するように南部らしからぬ色白の肌を持った容姿は女性受けが良いらしいと理解し、存分に利用していたコルトとしては、テリトリー外の北部での立ち位置に苦悩する。
(だけど、容姿はたぶん悪くないはず。教会での評価はかなり良かったし)
シスターや、教会を訪れた女性たちの心は、たしかにそう言っていたのだから。
懐柔方法を模索していたコルトの耳が、小さな物音を拾った。玄関ホールを中心に左右に分かれた邸内の左側。その奥のほうから聞こえた音は、人の気配を伴うもの。
そういえば女の子がいると言っていた。それも、自分と同じ能力を持った子どもだと。
コルトの表情から、後方で隠れているらしい存在に気づいたことを悟ったのだろう。ロサはさきほどまでとは違う笑みを浮かべると、音の方向に声をかけた。
「出ていらっしゃい。今日から一緒に暮らすのだから、逃げていてはダメよ」
窘める声色ながらも、優しさに溢れる音がコルトの耳朶を打つ。その声に押されるように現れたのは、小さな女の子。
教会で見かけた子どもたちより、少し年上といった印象。いささか表情に欠けているのは、こちらを警戒しているのかもしれない。隠れていたのもその表れか。
だが、その姿を見た途端、コルトのほうこそ凍りついたように動けなくなった。
(なんだ、これ……)
ロサに感じた以上の畏怖。
年下の女の子に威圧され、コルトは無意識のうちに一歩うしろへ下がった。
咄嗟に考えを読もうとするけれど、やはりこれも隔たれた。
いや、隔たれた、などというものではなかった。
届かなかった。
壁が厚すぎて、突破は不可能だった。それどころか、見えない壁は流動しており、そこから発生したなにかが、うねりをあげてコルトへ襲い掛かって来る。
「う、うわああああ!!」
澄まし顔の仮面などかなぐり捨てて、コルトはみっともなく声をあげて、尻もちをついた。失禁しなかったのは、たぶん今朝から水分を取っていなかったせいだ。柄にもなく緊張して飲食もままならなかったが、正解だった。
そんなコルトを見て、少女は眉根を寄せた。それが怒りなのか哀しみなのか判別がつかない。
わからない。わからなすぎて、怖い。
「ごめんなさい。こら、あなたたち。この子は敵ではないわ。そうね、たしかにほんの少し頑ななところはあるかもしれないけれど、それは知らないだけよ」
ロサはコルトに詫びたあと、空中を見つめて言葉を重ねる。まるで言い聞かせるような口振り。
精霊。
不意にその言葉が胸に落ちた。
目には見えない何者かがこの家にいるのだと、突きつけられた気がした。
震える足を叱咤して立ち上がる。深く呼吸をして、集中すると耳をそばだてた。
気配を感じる。空気の振動があるが、コルトの瞳に彼らは映らない。
(でも、居るんだ。きっと)
それはもう確信だった。
緑がかった青い瞳を煌めかせて、コルトはそれを少女に向けた。
蜂蜜色の髪をした整った容姿だが、表情といえるものはない。安心させるように微笑んでみせても、なんの変化も見せなかった。ゆっくり歩いてきて、ロサの長いスカートにしがみつき、顔を隠す。
「ほら、ご挨拶よ」
「…………」
「メルヴィ、大丈夫。彼は、大丈夫よ」
メルヴィと呼ばれた少女はようやく頭を上げ、おそるおそるこちらに顔を向けた。
眉が下がり、不審そうな顔つきをしている。
しかし、何故かコルトはわかったような気がした。
彼女は他人を恐れているのではない。自分自身を恐れ、相手のために距離を取ろうとしているのだ、と。
変わった子だ。
異能を持ちながら、自分とは違った選択をして生きている少女に、コルトは興味を抱いた。実家で起こった横領事件以降、久しく動かなかった心がどくりと音を立てた気がして、そのことが面白い。
「はじめまして、小さなレディ。僕はコルトだ。君の名前を教えてくれるかい?」
わかっていることを敢えて問いかけた。
せいいっぱいの笑みを浮かべて、震える身体を押し殺して、頭の高さを合わせるように膝を曲げて。
少女の榛色に己を映して、コルトは笑みを作る。
怯えなど微塵にも感じさせず、余裕のある態度を取って。
「…………メルヴィ」
ようやく小さく答えた少女に安堵して、コルトは手を差し出した。
「今日からよろしく、メルヴィ」