03 メイドの仕事
「メル、これはなんて読むの?」
「ちょっと待ってね。マドレーヌができたところだから、お茶を飲みながらにしましょう」
「グリュンにもあげていい?」
「あなたが食べるものを、少しだけね」
メルヴィがこの家にやってきて、そろそろ二週間。
はじめの刺々しさはどこへいったのか、ケイトリンは彼女に甘えるようになった。
きっかけになったのは、一匹の犬だ。毛むくじゃらのそれを抱えたケイトリンは、おどおどしながらも、犬を飼いたいのだと申し出た。
少女が何かを願うなど初めてのことで、アダムは動揺のあまり普段以上に怖い顔になったらしい。
怯えた顔をして後ずさるケイトリンの背を止めたのは隣に控えていたメルヴィで、彼女が優しく話しかけると、それに頷きを返す。
穏やかな雰囲気に圧倒され、アダムはますます混乱した。
庭に入ってきた迷い犬だろうか。医者に見せ、病気の有無を確認することを前提に許可を出すと、ケイトリンは安堵した顔となり、メルヴィの腰に抱き着いていた。
その後、かしこまった表情でメルヴィから告げられた内容は驚くもので、あの仔犬は「妖精」だというのだ。
セーデルホルムに精霊信仰があることは知っていたが、その存在を信じたことはなかった。まして、ケイトリンがずっと人ではない何かを瞳に宿していたことなど、初耳である。
何故、そんなことがわかるのか。
問いかけに対しメルヴィは、榛色の瞳を向け、自分も同じだからだと告白した。
いますぐ、すべてを信じていただけるとは思っておりません。
ですが、ケイトリンの世界を否定しないであげてください。あの子には味方が必要です。
自分が見ているものと同じものを見て、聞いてくれるひとができたことが、よほど嬉しかったのだろう。
理解者を得たことで、少女の心は驚くほど落ち着いた。
仲睦まじいふたりの様子を見て、アダムは内心で安堵と、感嘆の息を漏らす。
士官学校時代からの友人であるレスターが若くして結婚したのは、家族に恵まれているとは言い難かったからだろう。彼は、兄姉がいるアダムのことをいつも羨ましそうにしていた。
レスターの妻カリンナは、スペンサー家同様に古くからある名士の娘だが、家系図を紐解けば貴族に連なる家柄。彼女の両親は、荒事の多い軍人を毛嫌いしているきらいがあった。
アダムを介して、ふたりは出会った。娘を誑かしたとして、あちらの家からアダムは疎まれている。
当時レスターから聞いた話では、ケイトリンは精神的に問題のある子だということだったが、メルヴィの言葉を聞いた今となっては、そうではなかったのだとわかる。
しかし上流社会に生きるお嬢様だったカリンナは、知ったところで娘に寄り添うことはなかったかもしれない。彼女は疲弊し、心を病み、やがて自死を選んだ。
元凶となったケイトリンは一旦引き取られたものの、やがてレスターが住む官舎の前に置き去りにされた。何を言われたのか、そのころから名を呼ばれることを厭うようになり、さほど間をおかず、レスターが仕事中に命を落とした。
やっぱりわたしは悪魔の子なんだ。
そう呟いたケイトリンの声が、アダムは忘れられない。
身寄りのないレスターに替わって、ケイトリンを育てようと決めた瞬間でもある。
口数が多いとはいえないアダムだが、非常に頑固でもある。
兄姉にはすでに子があり、負担はかけられない。その点、自分なら独り身だし、結婚相手も、その予定もない。
そう言って、強引に事を進めてしまった自覚はある。
レスターを失った者同士、傷の舐め合いをしているのだと言われてしまえばそうかもしれないが、それでも孤独な少女を放り出すことなどできなかったのだ。
何度か子守を雇ったが、ケイトリンは懐かなかった。それどころか、彼女たちはアダムが独身だと知ると、己を妻にしないかと言い寄ってくるようになる始末だ。雇っているあいだでさえケイトリンと馴染めなかった彼女たちが、どうして母になれるというのか。
私室の寝台に皺が寄り、香水の匂いが残っていたときは吐き気がして、子守を雇うのは止めることにした。
休暇にあたり手配されたメイドのメルヴィは、その年齢にそぐわない経歴の持ち主だ。いくつもの仕事をこなし、けれど一所に長居はしない主義らしい。
ならばきっと割り切った仕事をしてくれるだろう。以前の子守たちのようなことにはならないはず。
そう判断し、アダムは彼女を受け入れることを決めた。
メルヴィを紹介してくれたのは、軍の情報局に所属する事務官、コルト・パーマーという男である。
国の最高司法官であるパーマー卿の養子として、やっかみと共に知られているが、その立場は彼自身の仕事ぶりによって認められている。
独自の情報網でも隠し持っているのか、被疑者を自白させる手腕には一目を置く。それはまるでひとの心を読んでいるかのようで、地獄耳のパーマーとして恐れられているところだ。
深い知り合いというわけではなかった彼に声をかけられたのは、休暇に入ることを決めたとき。申請書を提出に行った際、直接紹介された。
はじめは渋ったアダムだが、ケイトリンのことを引き合いに出されては断りづらい。
彼女はお役に立つと思いますよ、と推されたとおり、メルヴィは有能さを発揮している。
ポールの差配に従い、彼の意に反することはない。家の中が明るくなった気がするのは、掃除が行き届いていなかっただけではないのだろう。彼女の朗らかな声は、家の空気そのものを変えてしまった。
だが、彼女の有能さは家事に関わることだけではない。語学にも長けていた。
アダム宛に届いた郵便に書かれていた差出人の名は他言語で記されていたのだが、彼女はそれを読み取り、アダムでさえ辞書を必要とする文章を造作なく読み進めた。なんでも、海外からの賓客をもてなす仕事も請け負ったことがあるらしい。通訳を兼ねたメイドは重宝されるそうで、積極的に言葉を学んだそうだ。
その数は、母国語を含めて五か国。うちひとつは発音に自信がないと首を振ったが、読み書きができるというだけで立派なものだろう。
休暇中だからこそか、スペンサー家に関する書状や手紙も多く届く。名家の子息として、次男坊にも付き合いというものがあるのだ。
軍の機密に関する書類は開示するわけにいかないが、スペンサーの名に関するものは、アダムの采配に委ねられている。
書斎でおこなっていた執務は、ポールに替わりメルヴィに手伝ってもらうことにした。
「せっかくの休暇ですもの、ポールさんもお休みなさってください」
メルヴィが促し、時間の空いたポールはケイトリンと過ごすようになった。母方の祖父母とは良好でなかった少女だが、穏やかな彼には心を開き始めている。
その下地を作ったのは、まぎれもなくメルヴィだ。
たった二週間で、彼女はアダムの世界をも変えてしまった。その変化は、決して嫌なものではないと感じている。
◇
アダム・スペンサーは口数が多いとはいえない男だが、度が過ぎるほど生真面目であることは確からしいと、メルヴィは認識を改めている。
手紙や書面の整理を頼まれ、家事が落ち着いたのち、共に書斎で過ごすようになった。
会話はないに等しいが、彼が纏っているオーラは穏やかで、メルヴィは居心地の良さを感じ始めている。
思えば最初の出会いがよくなかったのだ。ケイトリンを頭ごなしに否定する姿に、つい苛立ってしまった。まったくもって大人げないと反省する。
心を乱してはいけない。悪い存在に引っ張られてしまう。ここはセーデルホルム。精霊の存在が他所よりも近い場所。
――良いことを考えなさい、メル。そうすることで、隣人たちはあなたを助けてくれるから。
(うん、わかってる。おばあちゃん)
瞳を閉じて、呼吸を整える。
瞼の裏に現れる大切なひと。
彼女のことを思い出す機会が増えた理由は、ここに帰ってきたからだ。
セーデルホルムは、メルヴィが子どものころに過ごした場所。
人ではない者をみて、他人の内なる声が聞こえてしまう子どもだったメルヴィは、五歳のころに教会前に捨てられた。
両親の顔は、あまり覚えていない。ただ、「おまえはいらない」と突き飛ばされて冷たい塀で背中を打ち、雪が積もりはじめるなか、目の前で馬車が走り去ったことだけは記憶に残っている。
教会では、メルヴィの特異性に気づいたシスターにより、ほどなく別の人物の手に委ねられることになった。
それが、丘の上に住んでいる高齢の女性。魔女の名で親しまれている、ロサだったのだ。
メルヴィはロサに救われた。隣人たちとの付き合い方を教えてくれたのも、勝手に聞こえてしまう『声』を遮断する方法も、すべてロサから教わった。
だが、仕事としてこの家に帰ってくることになるとは思わなかった。
そのうえ、同じような特性を持っている少女の世話だ。
(コルトってば、知ってて黙ってたわね)
脳裏に浮かぶのは、してやったりといった顔をした幼馴染。この家で共に過ごした、兄のような男の顔。
仕事の斡旋はいつものことだし、セーデルホルムの魔女の家が仕事場ときけば、断る理由はどこにもない。他人の手に渡って以降、近づかないようにしていた生家は変わらない姿で建っていて、涙が出そうになった。
契約期間は半分過ぎたけれど、もう少し先を願ってしまう。こんなことは初めてだ。他人の心を暴いてしまいかねないから、長く同じ場所に留まることは避けてきたのに、どういうことだろう。
きっとケイトリンが心配なのだ。番犬を得たことで安定はするだろうけれど、まだ教えは必要なはずだから。
(だから、寂しいなんて思ってないわ)
アダムのために淹れたお茶を手に、メルヴィはキッチンをあとにした。