02 妖精の住む庭
御邸のことは、その家に付いている妖精に訊けばよい。
彼らは自分の住処を整えるために、尽力する。
「レディにそのようなことは」
「気にしないでください、ポールさん。私のほうが若いんだもの」
玄関ホールに設置されたガラス窓。その上部の鍵が壊れていると囁かれて、メルヴィは裏の倉庫から脚立を出してきた。別荘に在住する唯一の使用人・老執事のポールは、そんな彼女を止めようと必死だ。
凄腕のメイドだと聞いていた。長く勤める使用人に、負けず劣らずの働きをする女性。引き止める声は多いが、そのどれもを断って去っていく派遣型メイドの評判は、噂になっている。
名家であるスペンサー家に長く勤めるポールは、年甲斐もなく、このメイドに会えることを楽しみにしていた。
しかし噂のメイドは、アダムよりも若いレディであったのだ。
二十四歳。老成して見えがちな二十九歳のアダムとはうらはらに、彼女は年齢よりもずっと若い、まるで少女のような瑞々しさを湛えている。
「お止めください、危のうございます」
「平気。男手のない老夫婦の家に勤めたときは、これも仕事だったから」
青い顔をするポールを宥めて、脚立に足をかける。年季の入った印象のそれは、メルヴィ程度の身体ではびくともしない。慣れた様子で段を上がり、細腕を伸ばす。
指をかけると、たしかにガラス戸は横に開いてしまう。
天井近くの小さな窓が開いたところで、泥棒が入ってこられるわけでもない。けれど、悪い精霊はやってくる。鍵を直すのも大切だが、応急処置をしておいたほうがいい。
(ケイトリンのためにもね)
妖精との付き合い方を知らない少女が魅入られてしまっては困るから。
「もうすぐクリスマスだけど、ツリーは置くのかしら。せっかくなら、ヤドリギも飾りましょう。場所は――」
「何をしているんだ」
「見てのとおりですわ。小窓が開いているような気がしたので、確認をしていましたの」
背の高いアダムよりも高い位置から見下ろして、メルヴィはそっけなく言い放つ。
「君がそんな仕事をしなくてもいい」
「ポールさん、今日は寒さのせいか膝が痛むそうですので」
「なら、俺に声をかければ済む話だ」
「怪我をして療養中の方に? 第一、この脚立では旦那さまの身体を支えられるとは思えません」
「とにかく、降りてくれ」
「かしこまりました」
ゆっくりと足場を確認しながら降りて、改めてアダムの前に立つ。今度は彼を見上げながら、なんと言ってやろうかと思案していると、男の唇がぎゅっと引き結ばれた。眉根が寄り、灰青の瞳が睨むような冷たさを帯びて、メルヴィはさすがに心が冷える。
さっきの態度は、雇用主に対するものではなかった。ケイトリンのこともあってなんだかムキになってしまったけれど、自分はメイドだ。主を怒らせてしまえば、契約満了の前に解雇されても文句はいえない。
「差し出がましいことをしました」
「いや、もういい」
頭を下げるメルヴィに対し、アダムはそれだけを告げると背中を向けて去っていく。足を庇っているせいだとわかってはいるが、ゆっくりとした歩みは怒りを表しているような気がして、ますます落ち込んだ。
自分はここへ来てからどうかしている。
だって仕方がない。この家は――
「申し訳ありません、メルヴィ嬢」
「いえ、私が悪いのです。こちらこそ申し訳ございません。アダムさまを怒らせてしまいました」
「あれは怒っているわけではありませんよ。坊ちゃまは、貴女を心配なさっただけです」
「心配? なにを」
「高い場所に上がって、もしも落下でもしてしまえば、貴女が怪我をしてしまう」
「そんなことで?」
高所というのもおこがましい位置。あの程度のことでメイドの心配をするだなんて、随分と気の小さな男だ。屋内の高低差を気にしていては、仕事にならないのに。
「ツリーの話ですが、お嬢さまもいらっしゃいますし、よい考えだと思います」
「もしも頼むなら、町の商会へ行けば手配してくれるはずです。丘の上の家だと言えば、おそらく配達も」
「わかりました。訊いてみましょう。この家はよく知られているようですね。町の皆さんご存知でした、魔女の――ロサの家だと」
セーデルホルムは自然と共存してきた町で、精霊信仰が根付いている。そのなかにあって魔女は知恵者であり、薬師でもあった。
かつて住んでいたのは、ロサという老婦人。彼女は、魔女として親しまれていた。
「ポールさんは、恐ろしくはないのですか? 都のほうでは、魔女はあまり良い存在ではないのでは」
「私は、先代の当主、ジェフリーさまにお仕えしておりました。あの方は、セーデルホルムを好まれていた。この世には不思議なものがあるのだと。若い時分は頑ななところがございましたが、あの方が変わられたのは、この家に住んでいたという魔女のおかげなのかもしれません」
◇
キッチンから繋がる扉から外へ出ると、灌木が裏庭に向けて伸びている。メルヴィの腰ほどの高さだが、子どもにとっては背丈にも相当する。こういった茂みには、なにかが潜んでいることも少なくない。
様子を見ながら歩いてると、小さな声が聞こえてきた。声の主はひとりしかいないだろう。
「ケイシー、どうかしたの?」
「なんでもないわ、向こうへ行って」
いつから外にいたのか。寒さに頬を赤く染めたケイトリンは、まるで背中に何かを隠すような素振りで、こちらを睨んでいる。
悪い気配はしない。むしろ場の空気は安定している。
近づくメルヴィに対し、後ずさるケイトリン。
少女の背中から覗いた緑色は灌木の葉ではなく、動物の毛並みのように見えた。
「ケイシー、それは」
「ダメ! 化け物なんかじゃないの。ごめんなさいごめんなさい、おねがいひどいことしないで」
立ち上がると、灌木と同じぐらいの背か。小柄なケイトリンより高いのではないかというそれは、深い緑色をした長い体毛に覆われており、ぐるりと巻かれた縄のようなしっぽを揺らして佇んでいる。
メルヴィから逃がそうとしているのか、動物の身体を押しているケイトリンに声をかけた。
「私にも紹介してくれないかしら。あなたのお友達」
「……石を投げない?」
「そんなことしないわ」
「棒でたたいたり、水をかけたり、大きな声で追いはらおうとしたり――」
「しないわ。大丈夫」
言いながら近づいて、ケイトリンの前に膝をつく。怯えた顔の少女を安心させるように微笑んで、次に緑色の動物に視線を移した。
深い毛に隠れて、目元が見えない。唸り声ひとつしないけれど、黒々とした鼻の下には、おそらく大きな口があるのだろう。
小さく呪文を唱えながら、メルヴィは右手で拳を作って、その鼻先に近づける。
すると、ふんと吐く息が届き、ヒクヒクと動く鼻がメルヴィの拳を嗅ぎ始めた。
時間にして数分。息を潜めて見守っていると、太い尾をゆっくり左右に振り、膝立ちになっているメルヴィの片腕に寄り添うように毛を押しつけた。どうやら認めてくれたらしい。
(この家に、犬妖精が現れるなんて思わなかったわ)
丘から連なる森付近で見かけることはあったけれど、この家にやってきたのはやはり、ケイトリンがいるからだろうか。
「この子はいつからいるの?」
「知らない。庭に出ると、いつも来る。……ねえ、おじさんに言う?」
「そりゃあ、お話しするわよ。だって家に入れるのであれば、許可を取らないといけないもの」
肯定のあとに続けた言葉で、ケイトリンの顔に驚きが走った。
信じられないことを聞いたような表情で、瞳を揺らす。その頭に手を置いて、メルヴィは微笑んだ。
「お願いしてみましょう。犬が飼いたいって」
「こんなに大きな犬、ダメに決まってるもの」
「あら、まだ仔犬じゃない」
ケイトリンが頭を振ると同時に、あれほど大きかった身体は両手で抱えられるほどへ変化する。甘えるように少女の足もとに寄ると、小さな舌を覗かせて身づくろいを始めた。
「さあ、家に入ってミルクをあげなくちゃ。この子の名前はなんていうの?」
「……グリュン」
差し出されたメルヴィの手を握って、ケイトリンは涙まじりの声で呟いた。