魔女の子どもたち<4>
両目に激痛が走って、ぎゅっと瞳を閉じた。
痛みが消えていくに従いゆっくりと薄目を開くと、いつのまにか白い石造りの回廊に居た。無に等しい白い世界。
やがて、目前にポツリと色が生まれる。
毒々しいほどの赤い染みは徐々に広がり、コルトの背丈よりも大きくなっていく。
驚きに目を見張っていると、視界の右隅から今度は青が浸食してきた。
触手を伸ばすようにゆるゆると伸びてきたそれは赤と重なり、けれど混ざり合うことなく空間に波紋を作っていく。次に左側から鮮やかな黄が現れて、同様に進んでいくさまを眺めているうちに、下から突き上げるように濃い緑がやってきた。
それに視線を移した途端、また右から別の色がやってきて、視線を流すと同時に頭上から違う色が降ってくる。
どれも目に痛いほどの濃い色で、まるで視界の暴力だ。
背中から高波のように黒いものが襲ってきたとき、ついにコルトはそこから逃げ出した。
走っても走っても変わらない景色。
キャンバスにでたらめに色をまき散らしたような世界を進んでいくと、ひとつ扉が見えた。
見慣れたものに安堵してノブを掴んで中へ入るとそこは懐かしい実家の玄関ホールで、階段をゆっくりと降りてくる母親の姿を視界に捉える。
「……お母さま」
「ああ、コルト。よく帰ってきてくれたわ。わたくしが迎えに行けずにごめんなさい」
紅を引いた唇が開くとともに、コルトの耳は彼女の内心を拾う。
なんて忌々しいの。せっかく寄宿舎へ追いやったというのに、どうして戻ってきたりするのよ。
あのひとに似て顔立ちだけはいいけれど、冷たいし、何を考えているかわからないところは本当にそっくりね。
わたくしの可愛い子どもたちに近づかせないように、今度はもっと遠くの学校へ留学させてしまいましょう。
言葉とはうらはらな母の声はいつものことだが、今日はそれだけではなかった。彼女を纏うようにして、さまざまな色が蠢いているのだ。母が声を発するたびに色を変え、流動し、目まぐるしく変化しつづける。
目が痛くて眉をひそめると、母は心配そうな顔をしながらも、内心ではコルトを罵った。
まあ、母親に対してなんて顔をするの。うちの天使たちとは大違いね。
ドス黒いオーラが立ち上り、コルトへ向かう。
蛇のように蠢くそれは闇への導きのようで、一歩うしろへ下がってしまう。
こんなことは初めてだ。
母親が自分を煙たがっていることは知っているし、双子の弟妹は彼女の不貞によって生まれた子であることも、コルトはもう知っている。父に進言して思いきり頬をぶたれたことは、消えない記憶だ。
声に気づいた使用人たちが集まってくる。
かけられる声が二重に聞こえるのはいつものことだが、一人ひとりが色を纏い、コルトの視界を埋め尽くすのは、初めて見る光景。
――すごいね、おもしろいね。もっと見たい? 一緒に見ようよ、楽しいよ!
幼子の嬉々とした声が脳内に木霊した途端、色数がさらに増えた。痛くて瞳を閉じたけれど、なんら変わることなく色は襲ってくる。
四方八方から滲み出ては、数秒ごとに変化する。
暗いはずの瞼の裏側でさえ色に支配され、何も考えられなくなってくる。
色に埋もれて、ひとの顔が見えない
目の前に何があるのかすらわからない。
――あのひと、なにか言ってるよ? 教えてあげるから一緒に見ようよ。あっちのひともキミになにか言ってるね、ほら見ようよ。
声が響く。
脳髄に突き刺さる。
ああ、うるさい。
うるさい、うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさい。
コルト!
目も耳も麻痺してくるなか、澄んだ声が聞こえた。
コルト!
(……誰だ。コルトって、なんだっ、け……?)
コルト、ねえこっちだよ。
「だれ、だ、よ」
メルヴィ。わたしはメルヴィだよ。
浮遊する無数の色を掻くように右手を伸ばすと、あたたかなものに触れた。
ぐっと握ると、頼りないながらも手を引かれる。
こっちにきて。
重たい足を引きずって、コルトは声がする方向へ歩を進める。
はたしてそれが合っているのか判らない。
けれど、澄んだ声は脳裏に木霊し、うるさかった声が少しずつ消えていくことだけは確かだ。頭痛を呼ぶほど色に満ちた視界も、水で溶いたように薄くなっていくことがわかると、コルトの歩行も力強くなっていく。
ようやく自身の右手を認識できるようになり、小さな手を掴んでいることもわかってきた。
かぼそい腕の先には、クリーム色のワンピースを着た小柄な女の子がいて、振り向きもせず前へ進んでいる。
しゃべったらダメ。振り返ってもダメ。まえを見てないとダメ。
頑なな声が脳内に届く。
前を進む少女の声だと、コルトはわかった。
だから彼は、同じように心の声で返事をする。
わかったよ、メルヴィ。
◇
目を開けると天井が見えて、最初に案内された部屋のベッドに寝ていることがわかった。
右手の先にはメルヴィがいて、起き上がった自分を見てホッとした表情を浮かべる。目尻が赤いのは、ひょっとしたら泣いたせいなのだろうか。
無感情に見えた少女の意外な顔に驚いていると、いい匂いが漂うカップを携えたロサが入ってきて、コルトを見て安堵したように微笑んだ。
「メルヴィに感謝なさい。あの子が近くにいなければ、貴方は精霊に乗っ取られていたかもしれないんだから」
「……あの声が精霊ですか?」
「彼らは少々イタズラがすぎるのよね」
「イタズラ? あれが?」
強制的に押しつけて、言うことをちっとも聞いてくれなくて、振り回すだけ振り回して笑っているあれが、ただのイタズラだというのか。
眉を寄せるコルトの傍によると、ロサは宥めるように頭を撫でてきた。
「私達と彼らは、考え方が異なるの。人間の常識は通用しないと思っていいわね。貴方は願ったのでしょう? メルヴィと同じようなちからが欲しいと。だから貸してくれた。親切心よ」
「親切……」
たしかにそうなのかもしれない。
不用意にくちにした自分が愚かだった。
そういうことなのだろう。
「君はいつもあれを見ているのか?」
「あれって、どんなの?」
メルヴィが首を傾げ、コルトは言葉を選びながら答える。
「……色に襲われた。声と色がなにもかもを覆いつくして、見えなくなった」
「わたしは、そんなにたくさんひとがいなかったから、へいき」
「そういう問題じゃないだろ!」
人数の問題ではなくて、常にアレに侵されていることが問題なのだ。
メルヴィがどこか『無』であることに、ようやく納得がいく。アレに晒され続けていたら、気力なんて湧いてくるはずもない。
「ごめん、僕は君にひどいことを言った。知らなかったからといって、許されるわけではないけれど、謝罪させてほしい」
「わたしがちゃんと言っておいたら、こんなことにはならなかったから、わたしもごめんなさい」
顔を伏せるメルヴィに対し、ロサはポンと手を打って子どもたちに告げる。
「はい、両成敗。ふたりとも、いま感じたことを忘れないようにしてちょうだい。それも学びよ。メルヴィ、よく頑張ったわね。偉いわ」
「でも、おばあちゃん……」
「コルトは無事に帰ってこられた。貴女が助けたの。胸を張りなさい。そしてコルト、貴方は反省ね」
「わかっています。アレはとても僕には扱いきれません。ですから僕は決めました」
「何を決めたのかしら」
楽しげに微笑むロサをまっすぐに見据えて、コルトは言う。
「学びます。精霊を恐れているだけではきっと駄目なのですよね。ならば、彼らを知り、共存するすべを僕は欲します。深く知ることで対処します。そうすれば、この子を守ることもできますよね」
視界の端でメルヴィが顔を上げるのがわかった。
今度はそちらに視線を向けて、コルトは笑みを作る。
もう震えはなかった。
ただ、あの脅威を背負っている少女の助けになりたい気持ちが強くなっていた。
「改めまして、僕はコルト。これから一緒に勉強しよう。僕の知らないことを教えてほしい」
「……わたしのこと、ヘンに思わないの?」
「君は命の恩人だよ。感謝こそすれ、どうして厭う必要があるんだ」
くちを尖らせて文句を言うと、少女はくしゃりと顔を歪ませた。
それでも涙を流さない――流せないメルヴィの頭に手を伸ばし、柔らかな髪を撫でてみる。
自身の妹にも、こんなことはしたことがない。遠ざけられていたこともあるが、父親が違うということが頭の片隅にあったせいで、忌避感が強かったのだ。
けれどそれは間違っていたと思う。
弟妹に罪はない。
両親の咎であり、彼らは被害者でしかないのだから。
コルトの身勝手な思いを押しつけて、拒絶していい理由にはならなかったのだ。
(ごめんな……)
心の内で詫びる。
この先、きっと会うことはないのだろうけれど、それでも思いを馳せる。
心に刻む。
もう間違わないために。
「よし。今日から僕は君の兄だ。そうしよう」
「おにいちゃん?」
「うん、決めた。僕の妹だ」
差し出した手は、しばらく宙ぶらりんではあったけれど、おずおずと握り返される。
この小さな手が精霊に囚われてしまわないように、ずっと傍で守ってあげようと、心から思う。
「よろしくな、メル」
その日、コルトは新しい家族を手に入れた。
出会い篇、といったかんじで終わってしまいました。
ちびっこメルヴィはいかがだったでしょうか。
彼女が今のような性格になったのは、コルトの影響がとても大きいです。
この先、ぎこちないなりにコルトに心を開いていくわけですが、ロサの下でどんなふうに暮らしていたのか、覗いてみたいものですね。