01 緑の屋根の家
小高い丘を上っていくと、森の緑よりも濃い色に塗られた屋根がポツンと見えてくる。
近年になって新しく手が入った平屋建ての一軒家。その門前にメルヴィは立っていた。真昼の太陽が蜂蜜色の髪を照らして背中をあたためるが、大陸でも北に位置するセーデルホルムの冬は厳しい。
使いこまれた旅行鞄の他に、大きな荷はない。すべて揃っているから、身ひとつでかまわないと聞いている。
メルヴィは、各地の御邸を転々としているハウスメイド。中央都市から静養に訪れている軍人、アダム・スペンサーの滞在中に、身の回りの世話をするのが今回の仕事だった。
アダムは今、片足を負傷している。国の中枢で起こった騒動を鎮圧する際に痛めたらしい。大事には至らなかったものの、その状態で通常任務に就くのは難しいと判断された。
溜まっていた休暇と合わせて、少しばかり早い冬の長期休暇を勧められたアダムは、静養のためにセーデルホルムの別荘地を訪れることになったそうだ。
ここは、彼の祖父が所有していた物件。晩年、病気になるまで一族の誰も存在を知らなかった家だが、かつての住人は老婦人とふたりの子ども。慈善家でもあった氏が、援助をしていたのだろう。
高齢者が住んでいたということで、足の不自由さを軽減するための加工が随所に施されている。療養場所としては最適だ。
アダムと同じ軍部に所属している知り合いから、依頼が舞い込んだのが一週間前。
ちょうど前の仕事も終わったところで、次も決まっていなかった。短期の仕事を探そうと思っていたメルヴィとしては、一ヶ月のあいだ、住み込みで仕事ができるのは渡りに船でもあったのだ。
新しい仕事、新しい主。
この家で、どんな出会いがあるのだろう。
高鳴る心臓を抑えながら、メルヴィは敷地に足を踏み入れた。
◇
「はじめまして。コルト・パーマーからの依頼で参りました。メルヴィと申します」
「ああ」
アダムは、ひどく不愛想な男だった。
暗めのアッシュブロンドと冷ややかな灰青の瞳。頬に小さな傷がいくつもあり、分厚い唇は不機嫌そうに引き結ばれている。盛り上がった筋肉で肩が張り、メルヴィの細い身体の倍はありそうな体躯だ。
「使用人の方はいらっしゃらないのですか?」
「執事は使いに。料理人は町から通いの者が。貴女には日常の細々としたことを頼みたい」
「承知しました」
「ただ、その、事前に言っておくが、無理をすることはない」
淡々と話していた男は、そこで急に言い淀んだ。メルヴィは問う。
「お嬢さまのことですか?」
「……言って聞かせてはいるのだが」
この家には女の子がいる。名をケイトリン。七歳だ。少女はアダムの実子ではなく、亡くなった軍の友人の子を引き取ったらしい。
妻に先立たれている友人には身寄りがなく、良家の出だった妻の両親は、軍人の婿を煙たがっていたところがあり、残された孫への態度も褒められたものではなかったという。
そのせいなのか、ひどく乱暴で癇癪持ちらしく、辞めていったメイドたちは少女の態度に辟易したのだとか。メルヴィは、ナニーの役も乞われている。
「伺っております。お任せください、なんて大きなことは言えませんが、精一杯つとめさせていただきます」
「まずは、引き合わせよう」
そう言ってアダムは踵を返す。足を怪我したというわりには、危なげない歩行で進んでいく。
玄関ホールを中心に左右に分かれた邸内。右側はキッチンなどの水場が並んでおり、左側が住居スペース。
一番手前の部屋、開かれたままの二枚扉をくぐると、そこはリビングルーム。暖炉が燃えているが、室内の温度は思っていたよりも低い。
見ると、外へ出るための引戸が足の幅ほど開いており、風が吹き込んでいた。
「すまない。ケイトリンの仕業だ。なんでも、開けておかないと入ってこられない、と言って、気づくとあちこち勝手に開けてしまう」
アダムが引戸に手をかけて閉じようとすると、一続きとなった隣の部屋から甲高い声が響いた。
「閉めないで!」
「不用心だし、客人が来ているのだから、寒い思いをさせるわけにはいかないだろう。そうだ、こちらに来て挨拶を」
「イヤ。どうせまたお金目当ての香水臭いおばさんなんでしょう? おじさんのベッドに忍んでいくような」
「ケイトリン!」
「その名前で呼ばないで!」
金切り声をあげる存在を確認するために、メルヴィは室内を進む。陰になっていた観葉植物を追い越すと、ようやくその姿が見えた。
癖のないまっすぐな黒髪をひっつめ気味に縛り、灰緑の瞳に苛立ちを乗せた少女が、肩を怒らせて立っている。
近くにいるとは思っていなかったのか。顔を出したメルヴィを見て、わずかな動揺が見られた。ゆるりと不安の色が漂ってきて、メルヴィの頬がゆるむ。
(なんだ、いい子じゃないの)
少女のもとへ向かうと、目線を合わせてしゃがみこんだ。
「はじめまして。私はメルヴィよ。名前を教えてくれるかしら」
「知ってるくせに」
「そうね。でもあなたから聞きたいの」
「……ケイシー」
「まあ素敵。あなたそのものね、可愛い猫妖精さん」
小さな両手を取って微笑むと、驚きに目を見開く。
だからメルヴィは、顔を近づけて、少女にだけ聞こえる声でそっと問いかけた。
「扉を開けているのは、妖精の通り道を作っているの?」
少女の肩口に潜む小さななにかは、クスクスと笑っている。床の上を転がるように走っていく動物型の精霊は、壁に突き当たるとそのまま吸いこまれるように消えていった。
家妖精にしては数が多いし、この土地では見ない姿もある。
これらはおそらく、ケイトリンに付いてきた町妖精なのだろう。
「大丈夫よ。彼らはどんな小さな隙間からだって入ってきてしまうもの。それに、あちこち開けてばかりいては、どこから入ればいいのか困ってしまうわ。ここよって、教えてあげないと」
「そう、なの……?」
大きく頷いてみせると、ケイトリンはぎゅっと眉を寄せて俯いた。
「……ほんとうはね、お部屋がさむかったの。だけどみんなが――えっと、みんなっていうのは」
「話しかけてくれるのが嬉しいから、妖精たちはみんな、あなたと一緒にいたいのね。だけどね、ケイシー。良い子もいれば、悪い子もいるわ。本当に悪いやつは、開いている扉から入ってきてしまうの。歓迎していると思ってしまうのね」
「たましいを取っちゃう?」
「そうね。悪い精霊は人間を狙うわ。赤ん坊や幼い子どもは、その標的になりやすい。自分の身をきちんと守るためにも、彼らとの付き合い方を学びましょう」
心当たりでもあったのか、ケイトリンの身体が震えた。
その小さな身体を自分に引き寄せて、メルヴィは少女の頭を撫でる。
「セーデルホルムには精霊がたくさん住んでいるから、あなたのちからになってくれるはず。ずっとひとりで怖かったのね、頑張ったわね、ケイシー」
「どうしてあなたは信じてくれるの? ママもおばあちゃまも、おかしなことを言うなってぶったわ。いままでのメイドも、ひとりでしゃべるなんて気持ちがわるいって。だれも信じてくれなかったのに、なんで?」
普通のひとには見えないものが見えるというだけで、奇異な目を向けてくる。
少女がいつからこうなったのかはわからないけれど、突飛な言動が目立ったり、暴れたりするようになったのは、三歳のころだという。
もしかすると赤子のときから何かを見ていて、母親が精神を病み、育児放棄に至ったというのも、それが原因なのかもしれない。
「ケイシーと同じものを、私も見ているからよ」
「うそ」
「嘘なものですか。私のほうがあなたよりずっと年上なんですから、彼らとの付き合いは長いのよ」
しゃがんだまま胸を張ろうとして、尻もちをつく。踏みつけてしまいそうになった小さな隣人は、メルヴィの細い指をえいやと踏んで、姿を消す。
(怒らせたかしら。あとで埋め合わせをしないと)
独り言つメルヴィに届くのは、ケイトリンの内なる気配。
信じたい気持ちと、嘘かもしれないという不安。
入り混じって、立ち上がるオーラは、マーブル模様を描いている。
半分本当で、半分は嘘だ。
ケイトリンと同じように不思議な存在が見えるけれど、それだけではない。
メルヴィはひとの心が聞こえるのだ。制御して、心の耳を閉じていても、喜怒哀楽の感情はオーラとなって見えてしまう。
少女の葛藤を床に尻をつけたまま眺めていると、アダムがゆっくりと近づいてきた。
「ケイトリンが失礼を」
「とんでもありません」
アダムが声をかけてきたことで、ケイトリンの心はまた固くなった。
警戒と失望。そして哀しみ。
「わたしはわるくない。このひとが勝手に転んだのよ!」
「また突き飛ばしたのか」
「またって、でもだってあれは」
少女からは哀しみが押し寄せてきた。
ちがう、だってあのときは怖いやつがいたから。あのままだと、ケガをしたから。
あまりにも強い感情のせいか、それともメルヴィ自身が同朋に会えたことで緩んでいたのか。ケイトリンの『声』が飛びこんでくる。
苛立ちまじりに床を足で踏み鳴らすと、ケイトリンは逃げるように去った。その姿を見送るメルヴィに、アダムは肩で息をつく。
「申し訳ない。あの調子で、何人ものメイドを辞めさせたんだ」
「あの、ミスタースペンサー。あの子の言い分はお聞きになったのですか?」
「レスターが――ケイトリンの亡くなった父親が言うには、空想癖があって、妄言も多いと」
眉を寄せる男の顔に、メルヴィの中で怒りが立ち上がる。
「そんなふうだから、あの子は頑ななんだわ。ええ、わかった、わかりました。私があの子の味方になります」
「いや、俺は――」
「この土地で過ごしてみれば、あの子が見ている世界が少しでもわかるわ。それを知って、あの子を認めてあげてください」