逢魔が時
(32)逢魔が時
ミリアは旅用に買ってもらった、踵のない短いブーツを履いている。これまでほとんどキーヴァの上に居たので、たいして活躍はしていないが、森を歩いても問題のない山歩き用の靴だ。
「急いだほうがいいわね。ダグラスより先に帰らないと」
「わおーん」
「アッシュに乗れたらいいのにね。さすがに落とされそうだから、乗らないけど」
「わふっ」
「試してみるかって? やめておくわ。怪我でもしたら大変だもの。あなたの背中、人が乗れるように見えないものね」
その背中に立ったのはどこのどいつだ。
「えーっと、確かこっちよね。キーヴァの足ではすぐ近くだったけど、歩くとどのくらいかしら」
ミリアは木の上に居る鳥に顔を向ける。
「こんにちは。この先に小さな川があるはずなんだけど、知っているかしら? よかったら教えてほしいの」
―――ぴぴぴっ。
鳥は短く鳴くと軽い羽音を立てて飛び立った。
「着いてきてって! アッシュ、見失わないでね!」
ミリアは鳥を追うアッシュを追いかけた。
「はぁ、はぁ…、アッシュ…、ちょっと待って、もう無理」
「わおんっ」
後ろを気にしながら先行していたアッシュの耳に、か細い声が届いた。すぐに引き返してミリアの元に走って戻ると、心配そうに手の甲を舐める。
「はぁ…、大丈夫。ちょっと息が上がっただけ。さすがに飛ぶ鳥と同じには走れなかったわ。あの子も先に行っちゃったし、失敗ね。はぁ、ちょっと落ち着いてきた。ふぅ~、もう近いのかしら?」
弾んだ息をなんとか落ち着かせて、ミリアと一匹は耳を澄ませた。すると、かすかに水の音が聞こえた。
「あっ、聞こえる! 近いのよ。行きましょう、アッシュ」
ミリア達が沢までたどり着いたのは、それからしばらくしてから。まずは汚れた手を洗い、ついでに顔も洗った。そしてそっと手で水を汲み、口につけた。
「はぁっ、冷たくて美味しい! アッシュも飲んで…ってもう飲んでるのね。美味しいわね、アッシュ」
「わふ」
沢は思ったより大きく、少し行くと深さもあるようだった。
「そうだ、水を汲まないと」
ミリアがふと顔を上げると、立ち並ぶ木々の向こうの陽が地平線に迫ろうとしているのが見えた。
「大変っ、陽が暮れちゃう。早く戻らないと」
ミリアは急いで桶に半分程度水を汲むと、それを両手で持った。
「う、結構重い。でも半分だし…」
それでもせっかくここまで来たのだから、できることなら持ち帰りたい。ダグラスが汲んできてくれる予定の水は、飲み水用なのでそれをもらうのは避けたい。
「頑張るわ。……どうしても無理だったら、途中で捨てればいいし」
「わおん」
両手で桶を持ったミリアをアッシュが先導して、来た道を戻る。沢の音が聞こえなくなった辺りで、丸い夕陽の下側が地面にかかった。
「はぁ、急ぐとお水がこぼれちゃう。でも、急がないと…」
揺れる水面が気になり、どうしても早く歩けない。そんなミリアを心配そうにアッシュは振り返るが、そのアッシュの向こうに見える陽はすでに半分ほど沈んでいる。
「どうしよう、ダグラスもう帰ってるわ、きっと。こんなに時間かかると思わなかったの。アッシュだけでも、先に知らせに行くのは? …うん、だめよね、やっぱり。私も一人は怖いし…」
アッシュはミリアを守るべき相手だと思っている。妹のようだとも言ってくれた。
「ああ、もうすぐ沈んじゃう。せっかくだけど、お水、少し捨てるわっ」
そう言うとすぐ傍の木の根元に、少しだけ水を流した。桶の三分の一ほどになり、幾分軽くなった気がするが、片手で持つにはまだ少し重い。それでも急ぎ足が気にならない程度にはなった。
「さ、急ぐわよ。アッシュ」
「わん!」
それからしばらくしてついに、最後の光が姿を消してしまう。
「ああ、沈んじゃった。ねえ、アッシュ、山小屋はまだかしら」
「わおん」
「近くまで来ているのね。よかっ…――きゃっ!」
「バウバウッ!」
ミリアがほっとした瞬間、彼女とアッシュはまぶしい光に囲まれていた。そのまま、一人と一匹を包んだ光はその光を強め、しばらくして辺りから光が消えると、そこには丸い円が描かれたように残り、中央に木桶だけが地面にポツンと転がっていた。
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