第九十三話「スティッピン・エルモアゼル」
気づくと、私は檻の中にいた。
目の前には頑丈そうな鉄格子が並んでいる。
鉄格子の外は、木の机と椅子が一組置いてあるだけの狭い部屋。
この部屋には、どうやら私しかいないようだ。
手足には拘束具がついていた。
両手両足が、鉄の枷によって拘束されている。
枷から鎖が伸びて壁に固定されているため、檻の中を自由に動けない。
制服は着ているが、持っていた不死殺しが無い。
それに、トラも近くにいない。
ここはどこだろう?
なんで私はこんなところにいるのだろう?
一旦、落ち着いて考えてみる。
先ほどまで、私は砂浜でいつものようにピグモンと剣術の修練をしていたはずである。
そして、日が暮れるくらいの時間にピグモンが寮のトイレに行ってしまって、私は一人で素振りをしていたのを覚えている。
それからどうしたんだっけ……?
「うーん……」
私は頭を働かせて記憶を呼び起こそうとする。
確か、ピグモンが寮のトイレに行ったあと私は素振りを続けていた。
そして、辺りは段々暗くなってきていて、日が沈もうとしていた。
私はそのとき、素振りを止めて、海に見える赤い夕陽を見たはずだ。
あのとき、日が落ちるのを見てから寮に戻ろうと思ったんだ。
そうだ。
そのとき、私は見たんだ。
強い光を。
その光が私を照らして……。
そこまで思い出したところで、私はそれ以上記憶を思い出せなくなった。
どうやら、私の記憶はそこで止まっているらしい。
ここでようやく、現在の状況に不安を感じ始めた。
手足を拘束されて檻に閉じ込められているという状況。
この状況はどう考えてもおかしい。
もしかして私、誰かに捕まった?
ふと、そう思った。
でも、にわかに信じがたい話だ。
まだ大学に来たばかりだというのに、一体誰が私をこんな拘束するというのだろうか。
それに捕まったときの記憶が無いというのも謎だ。
一体どのようにして私は捕まったのだろうか。
あの光は一体なんだったのだろうか。
「はぁ……」
唐突な理解できない状況に、思わずため息をついてしまう。
私はエレインみたいに賢いわけではない。
私なんかがいくら頭を振り絞って考えても、分からないものは分からないのである。
頭が痛くなってくるだけだから、一先ず考えるのを止める。
とにかく、ここを脱出しよう。
脱出にあたって障害となるのは、この手足に付けられた枷と鉄格子で囲まれた檻。
まずは、手足の枷に付けられた鎖が引きちぎれないか、試しに引っ張ってみる。
「ぐっ……」
思いっきり引っ張ってみたが、鎖は頑丈に金具で固定されている。
私の腕力でこの鎖を引きちぎることは厳しそうだ。
早くも詰んでしまった。
手足を拘束されている限り、この部屋から出ることは出来ないだろう。
だが、私はまだ諦めない。
私は、もう一つだけ脱出する方法を思い描いていた。
それは、影剣流『影法師』である。
影法師は、人の影の上に瞬間的に転移する技。
私が今誰かに捕らえられているというのであれば、誰かが私の元に様子を見に来るだろう。
その瞬間を狙えばいいのだ。
影法師は枷などを付けられていても、檻の中に閉じ込められていたとしても関係ない。
目視出来る範囲に対象と対象の影が見えれば、その瞬間に対象の影の上に転移することが出来る。
そこまで目論んだ私は、檻の外にある一つの扉をジッと見つめる。
誰かがこの部屋に入ってこない限り脱出できない私は、ただひたすらあの扉から誰かが入ってくるのを待つしかないのである。
すると、扉のノブがガチャリと鳴った。
私は音が聞こえた瞬間、臨戦態勢を取る。
開く扉からどんな奴が出てくるのかと睨むようにして見ていると。
扉から一人の男が現れた。
男は人族のようだ。
髪はボサボサで、口周りには無精髭が生えていてなんだか不潔な見た目。
左半身は白、右半身は黒で色分けした牧師の祭服にも似た恰好で、右手に本を一冊携えている。
顔は死んでいるかのように痩せ細っており、目の下にくまが出来ていて明らかに不健康そうである。
もちろん、こんな男は今まで見たことがない。
おそらく、こいつが私のことを捕まえてここに閉じ込めたのだろう。
いつでも影法師を使えるように、男の隙を伺うように見つめていると。
男は、檻の中にいる私のことを見下ろしながら無表情で口だけ開いた。
「幻術は解けたようですね……」
私の目を見ながらイスナール語でボソリとそう呟く男。
「あんた、誰よ!
今すぐここから出しなさい!」
私は鎖を出来るだけ引っ張って、男に顔を近づけるようにして叫ぶ。
だが、男は私の叫び声に反応せずに鉄格子の前にある椅子の上に座って机の上に持っていた本を置く。
私は男のそんな態度が気に入らず、再び叫ぶ。
「無視するな!
早くここから出しなさいよ!
ねえ!
聞いてるの!?」
私が檻の中から叫び続けても無表情のまま。
男は私の方に右手を向けてぶつぶつと何かを唱えだした。
「大気に流れる、気流の化身……。
空気を操り飄々と吹く、風の精霊よ……。
空気の振動を止め、その者の声を掻き消せ……。
……消音」
男がそう唱えた瞬間。
「…………。
……!?
…………!?!?」
私は声を出そうとしても、口から音が出なくなった。
いつも当たり前のように出来ていたことが出来なくなり、軽くパニックに陥ってしまう。
すると、男は再びボソリと口を開いた。
「少しうるさかったので、私の魔術であなたの声を消させていただきました……」
ぼそぼそとした声だが、私の声が出ず静かになった分、男の声は良く聞こえる。
「申し遅れましたが、私はスティッピン・エルモアゼルと申します……。
以後お見知りおきをお願いします……」
そう言って、椅子の上に座りながらペコリと頭を下げる男。
スティッピン?
どこかで聞いたことがあるような名前。
どこだったかな?
なんとなく聞き覚えがあるその名前をどこで聞いたか思い出そうとするが、中々思い出せない。
私が頑張って思い出そうとしているのを余所に、スティッピンは言葉を続ける。
「早速本題に入りますが……。
ジュリアさん……。
あなた、闇の精霊と契約をしていますね……?」
ぼそぼそとした声だが、目だけはしっかりと私の目を見ながら話すスティッピン。
闇の精霊?
私にとって、それは初めて聞く単語だった。
精霊といえば、私が知っているのは影の精霊だけである。
五歳の頃にママに連れられて、とある方法で影の精霊と契約をした。
そのおかげで、私の魔力と引き換えに影剣流が使えるようになった。
だが、闇の精霊は知らない。
同じ精霊のようだが、私が知っているのは闇ではなく影である。
そう思った私は、声が出せないので首を横に振って見せた。
すると、スティッピンは表情こそ変えないものの、目がピクリと少し反応を示す。
「おかしいですねぇ……。
闇系統魔術である『影移動』を詠唱無しで行うには、闇の精霊と契約する他に方法はないはずなんですが……」
そう呟いてから何かを考える仕草をとるスティッピン。
そして、少し間を置いてからもう一度私の方を見る。
「ああ、そういえば……。
バビロン大陸の方では、闇魔術のことを影魔術と言っておりましたね……。
闇の精霊ではなく、影の精霊であれば思い辺りはありますか……?」
私はそれを聞いて驚いた。
ママは、影の精霊の存在を知っている者はこの世界にほとんどいないと言っていた。
それなのに、この男は知っていると言う。
なぜ、この男は影の精霊の存在を知っているのだろうか。
私はスティッピンに対して、より一層警戒心を強めた。
五歳のとき。
影の精霊と契約するときに、ママに影の精霊の契約方法については絶対に他人に漏らしてはならないと言われている。
それゆえの警戒だった。
そんな私の様子を見ながら、無表情で男はボソリと口を開く。
「心当たりがおありの様子……。
やはり契約はしているようですね……。
それでしたら、影の精霊との契約方法について教えてもらってもよろしいでしょうか……?」
私の反応から私が影の精霊と契約をしていると察したのか、直球で聞いてくるスティッピン。
でも、私はママに影の精霊との契約方法は他人に漏らしてはいけないと言われているので、答えるつもりは毛頭ない。
そもそも、こんな私を拘束する怪しい男とまともに会話なんて出来るはずもない。
私は声に出せないことを煩わしく思いながらも、スティッピンに反抗的な目を向けながらぶんぶんと首を横に振る。
「そうですか……。
契約方法を教えていただければ、あなたの持っていた魔剣と連れていたパンダの召喚獣もお返しするのですが……。
それでもだめでしょうか……?」
スティッピンは私の目をじっと見ながら、交渉を持ちかけてくる。
やはり、不死殺しはスティッピンに回収されたらしい。
それにトラまで捕まえられてしまったのか。
不死殺しは別に良いとしても、トラのことが心配だ。
それでも、ママの言いつけを破るわけにもいかない。
私はスティッピンを睨みあげながら、ぶんぶんと首を横に振る。
「それでも駄目ですか……。
精霊との契約方法さえ教えていただければ、本当に魔剣と召喚獣を返して、あなたを大学に送り届けようと思っていたんですがね……。
残念です……」
言葉とは異なり、スティッピンの顔は相変わらずの無表情。
本当に何を考えているのか分からない男である。
すると、急にスティッピンは立ち上がって私を見下ろす。
「本来であれば、あまりメリカ王国の王子とは事を構えたくないんですがね……。
あなたが影の精霊の契約方法を教えてくれないのであれば仕方ありません……。
これより、あなたを誘拐することにします……」
ぼそぼそとした声で言うスティッピン。
その言葉を聞いて、私はスティッピンの影に狙いを定める。
立ち上がったということは、今から部屋を出るのだろう。
なんとしてもスティッピンがこの部屋を出る前に、スティッピンの影を利用して影法師で脱出せねばならない。
今、手元に不死殺しは無いが、こんな細身で不健康そうな男が相手なら負ける気はしない。
幸い、ママから刀剣が無いときの基本的な戦い方も軽く習っている。
ママは、素早く相手の急所に打撃を入れれば勝てると言って、人体の急所を丁寧に説明してくれた。
その学びは今こそ活かすべきだ。
私は、スティッピンの頸椎に狙いを定めて、右手に拳を作る。
そして、頭の中でイメージトレーニングを軽くする。
相手を殴打するときは、身体の動かし方が重要だとママから教わった。
腕だけを動かして殴打するのではなく、腰の動きが重要なのだ。
腰を捻らせることで殴打に勢いがつくらしい。
頭の中で、影法師でスティッピンの背後に転移し、素早く急所である頸椎を殴打することをイメージする。
よし、いける。
私はイメージを終わらせて集中する。
(影法師!!)
頭の中でスティッピンの影の上に転移したイメージをする。
いつもであれば、この瞬間に転移が完了する。
しかし。
「…………?」
なぜか、影法師は発動しなかった。
(影法師!)
(影法師!)
(影法師!)
頭の中で、何度もスティッピンの影の上に立つことをイメージするが、全く影法師は発動しない。
なんで!?
私の頭の中は軽いパニック状態だった。
いつもであれば発動する影法師が、よりによってこんな重要な場面で発動しないなんて。
そんな私の様子をじっと見下ろしながら、再びスティッピンが口を開いた。
「もしかして、影移動を使おうとしてますか……?
それでしたら発動しませんよ……。
この檻の中は吸魔石を使って作られていますからね……」
無表情でぼそぼそ説明するスティッピン。
吸魔石?
知らない、なんだそれ。
私の頭の中が疑問だらけなのを余所に、スティッピンは言葉を続ける。
「しばらく船での移動になりますので、この檻の中で大人しくしていてくださいね……。
食事は一日二回持ってきますので、ご安心ください……。
トイレの方は、そちらのバケツの中でお願いします……。
それでは……」
スティッピンは私に向かって向けていた右手を下ろすと。
扉の方へとゆっくり歩いて行く。
「ま、待ちなさい!!」
私はスティッピンに向かって叫ぶ。
どうやら、スティッピンは右手を下ろしたことで消音の魔術を解除したらしい。
だが、スティッピンは私の声を無視して扉を開けて外に出て行ってしまう。
そして、無情にも扉はパタリと閉まってしまった。
「くそっ!」
檻の中で、私が鉄格子を叩いて鎖が壁と擦れる音が鳴り響くのだった。




