映画「ジョーカー」感想
注意! 映画「ジョーカー」の多分なネタバレを含むのでイヤな人は回れ右して帰れ。
いやとにかく第一声としては「めっちゃ面白かった!」
主演ホアキン・フェニックスの役造りと演技力がただただ凄まじい。あの病んだ肉体と泣く表情での痛々しい笑い。母を想い、トーマスウェインへ救いを求め、マレーへの怒りを爆発させ、そしてあの虚無と不条理を泳ぐダンス、そして暴徒の中で本当の笑みを浮かべる。
今作の八割はホアキン・フェニックスの演技力でできていると思う。ホアキン・フェニックスでなければできないジョーカーだった。
最初にジョーカーのストーリーやちょっとしたネタバレを聞いてきた時は「それバットマンのジョーカーでやる意味あんの?」という疑問があった。
ジョーカーといえば世のすべてをバットジョークと化す狂気。アメコミの人気キャラとして決まったバックボーンストーリーのない存在だった。
狂気の犯罪者という存在である以上、余人に理解しやすい悪に堕ちた理由があっては、ジョーカーという狂気者なキャラクターに余計な水を差すだけだからなのでは? 共感や同意などジョーカーがもっとも嫌悪する感情では? というのが個人的な推測だが、とにかく決まった過去を作りにくいキャラクターだったのだろう。なにせあのジョーカーである。本当のことを涙ながらに語る姿など想像できない。
そこに社会的な個人の孤独や貧困格差などいってみれば「悪に落ちるわかりやすい」動機をつけても「ジョーカーのバットマンでやる必要はあるのか?」という作品になるだけなのでは?という心配をしてしまった。
しかし見てみれば見事に納得。
これはバットマンのジョーカーというキャラクターでなければ成立できない作品だった。金獅子賞は伊達じゃねぇな。
ただただ母の言葉を信じて善良に生きコメディアンを目指すアーサー。相談センターのカウンセラーはろくに話も聞いてくれず、痛みと不条理と裏切られてばかりの日々に、今日も息も絶え絶えにアパートへの階段を登る。
見返してみれば冒頭の不幸なアーサーは、それでもどこかに僅かな希望の輝きがあったように見える。しかしアーサーはその希望ゆえに苦しみ続けている。
ピエロとして踊るアーサーの姿は、窒息しそうな空気を必死に泳いで逃れようとしているようだった。
悲しみの顔であげた笑い声は、空虚がきしむようだった。
今多くの人が、このアーサーのように窒息しそうな人生の中で、踊るようにもがいているだろう。
そして運命は巧妙にアーサーの人生を枝葉から刈り取っていく。
始めは仕事から。次に衝動的な殺人により自分は善人だという誇り。そしてそれが意図せぬ方向でアーサーを祭り上げ、迫る警察の捜査はアーサーの均衡を揺るがす。
そして母の狂気が暴かれアーサーの根幹が断ち切られる。
最後に自らを支えた、愛してくれた人さえも妄想の産物でしかないことに気づき、アーサーはアーサーではいられなくなった。
アーサーであることを止めたのではない。もうアーサーを続けることなどできないのだ。全てを根こそぎ刈り取られた。
信じていたものは最初から無く、たどり着ける場所さえなかった。世界とは彼にとって有意味ではなく、いわば踊り狂う道化のような無意味なものでしかなかった。
何者も彼をつなぎ止められない。つなぎ止められなければ、もう今までの自分ではいられない。
何度も自らへ銃を突きつけられる姿には、それでも最悪を止めようとする僅かな理性だったのだろうか?
僕はあなたの息子だ 僕を抱きしめて
トーマスウェインは彼を拒絶した。
私が道に倒れていても声もかけないだろう
誰も私を見ていないんだ
マレーは正論の剣で彼を刺した。
最後に残ったアーサーの心を殺して、ジョーカーが生まれる。
世界を笑う道化が生まれる。心からの笑顔を浮かべながら。
というふうに映画の流れをそのままみていたら自分はここまでこの映画を絶賛しなかったろう。
この映画の最大の肝は「バットマンのジョーカーの物語であること」と「アーサーは信頼できない語り部」であること。
アーサーには重度の妄想症があることが示唆されている。(未亡人が自分を愛してくれていること、マレーのテレビショーで客席からマレーに呼ばれた部分は完全に妄想だろう)
つまり、最初の看板を盗まれるシーンですら妄想かもしれない。警察に事情を話しているなら家具屋からのクレームはなかったかもしれない。
本当に銃を渡したのは仕事仲間だったのか?
小人の仕事仲間は親切にしてくれたからと見逃したが、実際に親切にしてくれたシーンなどあったか?
全てのシーンに真実か妄想かを確定させる材料はない。ただアーサーが「不運や不条理に巻き込まれているだけの哀れな人生の被害者」だと本当に断定できる方法がないのだ。
そしてそれらの疑惑がラストシーンで「バットマンのジョーカーであることが必要である」物語へと結実する。
アサイラム精神病棟でなぜ笑うのかカウンセラーから質問されるアーサー。
ジョークを思いついた。
どんなジョーク?
理解できないさ。
この理解できないとは、恐らく複数の意味がある。
カウンセラーのような正気の人間ではなく、ジョーカーのような、つまり同じ狂人と認めるバットマンでもなければ理解できないジョーク。
そして、ここまでのジョーカーの物語を自らの人生と共感させている人間=観客には「理解できない」ジョーク。
この映画のストーリーは全て、このジョーカーがバットマンを揺さぶるための脳内で考えたジョークストーリーなのではないか?
以後のバットマンのストーリーを考えるとやや辻褄が合わない不自然な展開が多数ある。
例えばジョーカーによりゴッサムシティの暴動のきっかけが起こりブルースの両親が死んだのなら、まずバットマンのストーリーで絶対に言及される。
ましてテレビショーの途中で人気司会者を射殺したなんて衝撃的なシーンがそれ以後ジョーカーのストーリーから無視されているわけがない。
あの病んだ体のアーサーが車に轢かれてもピンピンして全力疾走できるのか?
デモの人間で満杯の電車で銃を構える刑事は不用意すぎて不自然だった。
ブルースとアーサーの年の差は恐らく20以上はあることになる。ではバットマンと戦っているジョーカーはそこそこ高齢になる。それで戦えるのか?
これはブルースを追い込み揺さぶるための(恐らく「俺とお前は兄弟かもしれないぜ!」などというための)、ジョーカーのジョークだったと考えるとあらゆる不自然やアーサーの信頼できない語り部の視点も全て説明がついてしまう。
だがそれをはっきりと明言するシーンはないので、これらは全ての自分の妄想である。ひょっとしたら以後ジョーカーの過去として正式なものに組み込まれてしまうかもしれない。
ただいかようにも解釈できる部分を恐らくはわざとかなり残している。それがこの作品の凄まじい点であり、「バットマンのジョーカーでなければ成立しえない作品」たらしめている点だと思う。
ラストシーン、血の足跡を残しジョーカーはゆく。
カウンセラーの殺害と、その後のジョーカーが起こす数々の惨劇を暗示し、踊り狂う道化は光の中へ歩いていく。
「理解できないさ」
これはやはりジョーカーの本質をもっとも端的に表した言葉だ。人生の悲哀や悪に至る理由など、ジョーカーにはジョークの材料に過ぎない。他者の共感や理解を笑って踏み砕き、道化は踊る。踊り続ける。