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縹の空  作者: 藍谷 紬
幽寂の梟
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第8話「一筆、取って。」

「はー、今週もようやく休日にたどり着いたよ。疲れた。」

「そうね、でもあなた今大体の授業聞いてなかったり寝てたりしたでしょ?」

ナヅハの言葉を聞いて、真霜は口笛を吹いて窓の外に視線を向ける。

「こらこら、聞きなさいよ。全く……。」

いつもの様にやれやれと首を振るナヅハ。

「だって、ナヅハには分からないかもしれないけど、学校の授業って眠いんだよ?私からすれば、英語もアラビア語も同じだよ。数学はもはや暗号解読だし。」

唇を尖らせて言いながら、真霜は机の横にかけてある黒いバッグを開いた。

「そこまで酷いなら中学生の勉強からやり直す必要がありそうね。中学英語を完璧にすれば下手な大学なら受かるらしいわよ?」

「あー、聞こえない、聞こえない。こんな時期から大学受験の事なんて考えたくないよ。それはその時になってから考えればいーじゃん。」

真霜はバッグの中から出した習字道具を机の上に並べていく。

「そういう事を言う人ってその時が来てもおんなじ事を言うのよね。困ったわ……。」

「やっぱりもう完全に母親の立ち位置だよね。ナヅハって。」

口うるささを感じていた真霜はそう言った。

「くっ!なんと小生意気になってしまったの……!小学校の頃はもっと可愛らしくナヅハナヅハとすり寄るような子だったのに……!」

頭を抱え呻くようにするナヅハ。

「ほら、まんま母親じゃん。」

苦笑いをした真霜は、そんなナヅハを尻目に硯に水をたらし、墨を磨り始めた。

「はぁ……、ふぅ……。」

真霜は目を閉じる。頭の中には、張った水がイメージされていた。広い水面、色々な所で小さな波が絶え間なく立っている。波は波を呼ぶが、真霜が深い呼吸をするたびにその波は小さくなっていった。最後には水面は一つの動きすら消え去った。

「…………。」

一度目を開き、硯に水を僅かに付け足し、すぐに再び目を閉じた。右手では変わらずに墨を磨り続けている。

次にイメージするのは、大木。多くの葉が擦れ合って穏やかな音を響かせている。その間も真霜は深い呼吸をし続け、その木の葉の動きを鎮めていく。最後にはその木の葉の動きと音が全て静止した。そしてもう一度目を開き、半紙を見つめて筆を手に取った。

三つ目にイメージするのは長く、鈍い光を放つ汚れた刀。その刀を布切れで拭き、砥石にあてがう。しゃりん―しゃりん―と刀が鋭くなる音が真霜の頭の中一杯に響く。濁っていた刀身は、徐々に輝きを取り戻し始めた。ここまでくれば、集中力は普段の比にならなくなってくる。真霜はこの一連のイメージを筆を握るときに必ず行っている。そして真霜は筆を墨に浸し、半紙に文字を書き始める。


『拾玖』


いつもの様に、文字を綴ってゆく。

身体が覚えた動きは、真霜が意識せずとも筆は走っていく。


壱  常に落ち着いて深く考えなさい。

弐  慎重に行動しなさい。

参  後悔するくらいならやりなさい。

肆  失敗からは必ず学びなさい。

伍  経験を積みなさい。

陸  自分の意見を絶対と思わず、先入観を避けなさい。

漆  他人の意見を聞きなさい、けれど飲み込まないように。

捌  自信を持ちなさい、けれど油断しないように。

玖  因果推論を忘れないようにしなさい。

拾  常識にすがるのは止めなさい。

拾壱 頭は常に柔らかくしなさい。

拾弐 出来ると信じて努力しなさい。

拾参 上を見上げて挑戦し続けなさい。

拾肆 どんなに困難な状況でも、希望を捨てず、立ち向かいなさい。

拾伍 心に灯火ほどの勇気を持ちなさい。

拾陸 過去に囚われる必要はありません、けれど忘れないように。

拾漆 自分で自分の限界を決めつけ無いように。

拾捌 立ち止まって泣くのではなく、それすら糧にして前へ進みなさい。

拾玖 いつどんな時も、自分が出来ることを精一杯やりなさい。



最後の行を書き終えた真霜は長い息を吐き出して、筆を置いた。

「うーん、やっぱりまぁまぁかな。」

習字道具を使い墨まで磨って書きはするのだが、真霜は習字を習っていたわけでも、好きだったわけでもなかった。部屋の片づけをしている際に、中学校の時に授業で使用していた習字道具を見つけたのがきっかけだった。それゆえに特別字が上手いということも無く、変な癖すら身についてしまっていた。

「いつも通りね。全然上達してないわ。」

ナヅハは真霜の書いた文字を見て、首を振る。

「仕方無いじゃん。これしかやらないし、今更わざわざ習いに行くほどでも無いのは分かってるでしょう?」

毎週末に、この『拾玖』を習字で書くことが真霜の持つ唯一の習慣だった。

書き始めた当初よりは確かに上達している自覚はあったのだが、その内頭打ちになってしまった。

「えーと、なんていえば良かったかしら……。シグモイド関数?」

「永久に一に近づいていくけど、ならないんだっけ?確かにそうかも。どこかで刺激入れないと、変化はしないんだよね~。」

会話を交わしながら、真霜は書いた半紙を持って襖を開いた。襖の中には替えのシーツ等と、いくつもの茶色い箱が置いてあった。

「大分書き溜めたわよね?」

真霜が茶色い箱の内の一つを開けるとナヅハはそう言った。その箱の中にはびっしりと半紙が詰まっていた。捨てるに捨てられずに箱に貯めていった結果、いくつもの箱が重なる事になってしまった。今日の日付を付した半紙を箱の中にしまい込み、襖を閉じた。硯を洗うため、風呂場に言った真霜はぼーっと鏡で自分の顔を眺めていた。

「……相変わらずのアホ面ね。」

ナヅハがぴしゃりと言った。

「うぅ、ひっどい。確かに仏頂面だけどさ。」

「あなたは外での笑顔は下手すぎるわ。心からの笑顔なんて私以外の前で見せたのはいつかしら?あなたは私がいなければ、笑うことすら出来ないのよ。」

「はぁ……。」

ナヅハの言葉に何も言うことが出来ず、真霜は肩を落としてため息をつく。

「まぁ、いいわ。今日はこれから何をするの?」

硯を洗い終え、風呂場から出た真霜にナヅハは尋ねた。

「そうだね、別に用事無いし、いつも通りのんびりしようかな?」

習字道具をあらかた片付けてそう言った。

「……勉強しなさい。」

しばらく机に向かわされていた真霜だったが、二時間ほど経ってお腹がなりだす頃に、

「ああ! もう無理! やってられないよ!」

と両手を上げて降参するジェスチャーをした。

「まだ全然やってないじゃないのよ。」

ナヅハは深いため息をついて言った。

「学校でやる勉強なんて、テストで危険な点数を回避する為にやるものでしょ?それに、テストはもうちょい先だよ?ひと月はあるし、今やらなくてもいいじゃん。」

「そんな訳ないでしょう?早いに越したことは無いわ。今頃椥叉なら勉強してるでしょうね~?」

ナヅハは真霜を挑発するような言い方をするが、それに乗るほど真霜は単純でもない。

「椥叉は引き合いに出すのはズルいよ。よそはよそ、うちはうち、でしょう?」

腕を組んで真霜は言って、スマホを取り出した。

「それに、多分だけど、椥叉は勉強してないよ?」

メッセージを送ったのだろう、しばらくして真霜のスマホが光った。

「ほら、見なさい。椥叉からだよ。」

ナヅハはスマホに移っているメッセージを読み上げた。

「今日は、本読んでのんびりするつもりだよ。まだ勉強したくない……。」

「…………。」

読み上げてからしばらく二人の間に沈黙が流れた。

「ナヅハ?おーい?」

真霜が呼びかけると、

「……よそはよそ、うちはうちよ。」

と言って真霜の意識外へと消えてしまった。

「あ!こら! ……。逃げた、全くもう。」

こうなるとナヅハは決して戻ってこない事はよく分かっていたので、真霜は諦めて勉強道具を片付けた。再びスマホを手に取った真霜は椥叉にもう一度メッセージを送った。

『明日って空いてないかな?どこか遊びに行かない?』

部屋の掃除をしながら待っていると、数分後に椥叉からの返信が来た。

『空いてるよ!どこに行く?』

『カラオケとか行きたいなぁ、って思ってるんだけど、どう?』

という具合で明日の日曜日の計画はスムーズに決まっていったのであった。

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