第7話「レトロライトが照らす空。」
翌週の月曜日の朝。椥叉は今週から学校に来ることになっている。真霜は神妙な面持ちで通学路を歩いていた。ナヅハとも言葉を交わさず、ただ一つのことについてのみ考えて歩いていた。そのために、通学路の半分のいかない内に三回は躓いている。そしてその三回目でようやくナヅハが口を開いた。
「少しは落ち着きなさいな。」
ナヅハも少しばかり緊張気味ではあったが、真霜よりはいくらかマシであった。
「だ、だって、ある意味初めてだよ?こんな感じで言うの。怖くてしょうがないでしょ!」
真霜は拳を握ってナヅハに訴えかける。
「まぁ、気持ちは分かるわ。分かるけれど、そんなんじゃお昼ご飯を食べる前に胃に穴が開くわよ?」
やれやれと首を振るナヅハを見て真霜はため息をつく。
「分かってない、あなたは分かっていないよナヅハ。胃に穴が開く前にひっくり返るくらいだよ。」
「あまり変わらないじゃないのよ。なんにしても帰りまでは他の事でも考えていなさい。」
「そんな無茶な……。」
その後途中で愛華が真霜の前に現れ、学校までともに歩いて行ったのだが、真霜は完全に上の空だった。
「それでね?こう言ったの。”愛華のギャグは生温い麦茶みたいだ”って……真霜?聞いてる?」
空を見上げている真霜はその言葉に愛華のほうを向く。
「え、うんうん、聞いてる、冷たい麦茶おいしいよね、そろそろ旬だよね。」
「いや、ぬるいって言われたんだけど……しかも旬とかないでしょ、年中美味しいよ。」
愛華は戸惑い、呆れていた。
教室の扉を少しだけ開け、中を覗くと既に椥叉は席につき本を読んでいた。
「あぁ……もういるよぉ……。」
「いや待ちなさい!どうして嫌そうに言うのよ。友達としては退院を喜んであげるところでしょ!?」
ナヅハは真霜の表情と言葉に対して、咄嗟にそう言った。
「うん、勿論喜んでるよ?でも話せる気がしないんだよね……。」
既に真霜の顔が青ざめている。それほどまでに真霜を恐怖させているとは、ナヅハも予想していなかった。
「ほら、行きなさい!行かないと始まらないわ。それともここで仁王立ちするつもり?あなたは弁慶ではないでしょう!」
ナヅハは真霜を動かすために強い口調で言った。そうすると、観念した犯罪者のような表情をして、扉をしっかり開けた。自分の席につくと、椥叉が振り返る。
「おはよ、真霜。」
にっこりと笑って言うが、真霜は微妙に視線が横にそれていた。
「うん、おはよ……。」
「ど、どうしたの?なんか変だよ……?」
「ほら、もうバレてるじゃないのよ!」
ナヅハは真霜の頭の中で叫ぶ。
「だ、大丈夫。あ、あのさ、あとでちょっと話あるんだけど、いい?帰りとかで時間あれば、でいいから。」
その言葉を聞いた椥叉は、不思議そうな表情から一変、真剣な表情になる。
「……分かった、大丈夫。予定はないよ。」
そして椥叉はそれ以上言わず前を向いて、本を再び開いた。
「もしかして、本当にバレたかな?」
「まぁ、先週のお見舞いの時の会話から考えれば、わかるんじゃないかしら?」
真霜とナヅハは、椥叉の小さな背中を見ながら話し合う。
「…………。」
その椥叉の様子を見ている内に、真霜は少しばかり冷静になった。その日二人はそれ以降学校にいる間、言葉を交わさなかった。真霜はもちろん、椥叉も真霜に話しかけようとはしなかった。
午後三時三十分頃。その日最後の授業の終わりを告げる鐘が教室に響いた。
「終わったわね。」
「うん……。」
椥叉は教科書とノートを素早くカバンにしまい始めた。真霜も急いで道具をしまい、立ち上がる。互いに互いを見ることは無く、教室を出て学校をあとにする。
そして二人はいつの間にか隣同士に並んで歩いていた。
「…………。」
「…………。」
学校が見えなくなるまで二人の間には沈黙が流れていた。
「気まずいわね……。」
「ちょっとナヅハ黙ってて!今緊張で心臓が粉々になりそうなの!」
「分かったわよ……。」
小さくため息をついて、ナヅハは黙って二人の様子を見る。帰路も半分ほど来ただろうか、ようやく真霜が口を開いた。
「私はね、」
「私の、いや私は……。」
どう言葉に出していいか分からず、真霜は立ち止まり俯く。そんな真霜をナヅハは振り返る。
「真霜?」
「私は……もう一人いるの。」
ようやく彼女が紡ぎだした言葉は、静かに、しかし強く響いた。
「それって、どういう事?」
椥叉は少し動揺しながらも、努めてゆっくりと聞く。
「私の中には、”もう一人の私”がいるんだ、ずっと昔から……。」
「そう、なんだ?」
あまり要領を得られていない椥叉は困惑しつつ返事をする。
「や、やっぱりおかしいよね!気持ち悪いよね!もう一人いるなんて!」
真霜は顔を上げ、無理に笑顔を作ってそう捲し立てる。しかし彼女の目線は椥叉に向かうことは無く、宙を泳いでいた。
「ううん。そんな事は全然思ってないよ。」
椥叉は真霜の顔をじっと見つめてそう言った。
「どうして?病気でもないのに、頭の中にはもう一人がいるんだよ?そんなの変だと思わない?普通じゃないじゃん。」
その言葉は真霜が自分に向けていう言葉でもあった。
「私だって、ああかな?こうかな?って自分に聞くし。言わないだけで色んな人が、もう一人の自分を持ってるんじゃないかな?」
椥叉は真霜にゆっくりと歩み寄る。
「それにさ、どうして”普通”じゃないといけないの?
大抵の人は、自分の目に見えるところだけを切り取って、自分と同じだって安心する。それが正しいんだって思い込みたがる。そしてそれを”普通”と呼びたがる。いつしかそれは"常識"になって、最後には"正義"に変わる。“普通だから良い”、”普通じゃないから悪い”。なんて事はないと思うよ?」
椥叉は、遠くの雲の縁を焦がす夕陽を見つめた。
「ねぇ、真霜。目に見える障害と目に見えない障害で差別されてるって思ったことない?」
「え……?」
思わず真霜は、夕陽をとらえたままの彼女の瞳を見た。
「私は、生まれつき心臓が弱いから、激しい運動とか出来ない。小学校の頃にね、同じクラスに生まれつき足が半分無くて、車イスで学校に来ている子がいたの。勿論その子の方が、私なんかより辛い思いを一杯してきたと思う。彼女が出来ないことでも、私には出来ることが一杯あった。けど、私もその子も学校の体育の授業には参加できなくて、一緒に見学していたの。その時にね、クラスの子によく言われたんだ……。」
椥叉は微笑みながらも、小さく唇を噛む。
「『お前はなんでサボってるんだよ』
『楽してるだけじゃん、嘘つき!』
『根性なし!』って。私は何も言い返せなかった。」
その言葉に真霜は何も言えず、椥叉の顔を見つめる。
「車イスの子は皆と同じ運動は出来ない事がすぐに分かるよね、足が無いから。じゃあ私は?私は見た目は皆と一緒だけど、見えないところで違う。目に見えないから私は酷い言葉を投げられても仕方ないのかな?」
そう言って笑う彼女の姿は余りにも痛々しかった。
真霜にはその情景が容易に想像できてしまい、思わず視界が滲んできた。
「ご、ごめん椥叉、私そんな……。」
その真霜の言葉に椥叉は首を横に振った。
「ううん、そういうことじゃない。私だって普通じゃない。そうでしょ?それにね?」
椥叉は真霜に背を向けた。
「その車イスの子は私とすごく仲良くしてくれた。その子が私の事を理解してくれて、最後には他の子も分かってくれた。私が言いたいのはね、目に見える普通だけが全てじゃないって事と、」
背けていた顔を再び真霜に向け、
「苦しくても、”分かってる人がいる”って嬉しいんじゃないかなって事だよ。」
と言った。
その笑顔を見て、その言葉を聞いて、真霜は椥叉の言いたいことが分かった様な気がした。
「ありがとう……椥叉。」
笑っている椥叉は再び歩き出す。真霜は頬に流れていた涙を拭って、椥叉を追った。