第6話「卯の花は宵闇に咲く。」
家に帰った真霜はベッドに寝ころび、天井を見つめていた。
「どうしよう……。」
病院から帰ってきて2時間はそうしていた。
「私の事を信じる人なんていないわよ。」
ナヅハはうつむいて言う。
「今までの私なら迷うことすらなかったのに……。」
真霜は今まで両親を除いて、どんな人間にもナヅハに関して話したことは無かった。
「やっぱりナヅハに似てるからなのかなぁ?」
顔立ち、髪の長さ、背格好、驚くほどに似ていた。唯一違うのは、ナヅハは左触覚だけ色が違っているくらいだ。
「双子並みに似てるよね、一体何したらそんなに似るの?」
「私が聞きたいわよ。」
「前世で姉妹だったんじゃないの?椥叉とナヅハ。」
少し笑いながら真霜は言った。
「あんな気難しい妹は勘弁よ。」
「……どっちかというと椥叉が姉なんじゃ?」
「なんですって?」
「だってナヅハの方が自由奔放で末っ子っぽいじゃん?椥叉は大人っぽいから姉でしょ。」
至極当然の真理のように言った真霜に対してナヅハは頬を膨らませる。
「まぁ失礼!私はお姉ちゃん的でしょ!」
「ほら、ムキになるのが妹っぽ~い!」
そんな風にからかう真霜をナヅハが怒り、二人で結局は笑っていた。しばらくしたあと真霜は口をつぐんだ。
「どうしたのよ?」
「姉妹のことは冗談だとしてもさ、どうして私の頭の中にしかいないナヅハと現実に存在する椥叉があんなにそっくりなんだろう?昔どこかで会ったのかなぁ?」
真霜は目を瞑って唸る。
「……心当たりあるの?」
「そんな記憶ないんだよね。ナヅハ、あなたはいつから……?」
「…………。」
真霜は何度この質問をナヅハにぶつけただろう?そして何度沈黙が流れただろう?ここ数年はその質問をすることは無かったが、椥叉が現れたことでその質問が再び浮かんでしまった。
「私はずっといたわ。"あなた"が"あなた"だった時から……。」
意味深なナヅハの答えに真霜は諦めてベッドから下りる。
「今日はやけに暑いなぁ……。まだ五月なのに、夏みたい。」
そう呟いた後真霜はシャワーを浴びに行った。しばらくして浴室から出てきた真霜は髪を軽く乾かし、部屋の窓を開ける。
「風が涼しいね。」
ふいにのどの渇きを覚えて、冷蔵庫を開けたが、あいにく飲み物はなかった。小さくため息をついて、財布と携帯とアパートの鍵を持って部屋を出た。
「コンビニ行くの?」
「ううん、自販機だよ。」
その言葉にナヅハは首をかしげる。
「コンビニの方が近いけれど?」
真霜のアパートから大通りを百メートルも行けば二十四時間営業するコンビニがある。しかし、真霜はその反対方向にある自動販売機に向かって歩き出していた。
「まぁ、シャワーも浴びてこんな格好だしね。」
学校とは違い、大きな太めのフレームの眼鏡をかけ、乾かしたばかりの長くて癖の強い髪、挙句の果てには裸足にサンダルという出で立ちであった。
「たしかに、やさぐれた独身女性みたいね。」
ナヅハは首を振って苦笑いをする。
「ナヅハこそ大概失礼じゃん……。」
「でも前はその格好でも行く時はあったわよね?飲み物だけなのに。」
「そうだね……今は、」
真霜はふっとちいさく息を吐いて星空を見上げる。人も光も少ないこの町では星がよく見えた。カシオペア座が暗い夜道を歩く真霜を見下ろす。
「一人でゆっくり考えたいから、かな?」
「・・・・。私とは話すじゃないのよ?」
「確かにそうだけど、ナヅハはナヅハでもあるけど私でもあるじゃない?だから二人だけど一人なんだよ。きっと誰もがおかしいって言うと思うけど。でも、そうでしょ?ナヅハ。」
笑って真霜は言う。
「ええ、そうね。第7条ね。」
「『他人の意見を聞きなさい、けれど飲み込まないように。』」
真霜はそう返す。自動販売機で冷たいコーヒーのボタンを押して手に取った。その自動販売機の隣には廃れた小さな公園があり、日中、特に夕方くらいになると子供たちが遊んでいるが、日が沈んでしまえばだれも来ず、今は冷たいまでの静寂があたりを包んでいた。しかし、真霜は恐怖を感じたことはない。家にいる時と同じで、他者の目を気にする必要が無いこの公園の、この時間が好きだった。コーヒー缶のプルトップを起こし、煽る。
「んぐ、んぐ……。はぁ~~~~~~。」
大きなため息だった。真霜は夜空を見上げる。
「ナヅハの事は、今のところ私とナヅハの間だけの話だよね?」
「ええ、そうね。秘密の話ね。」
ナヅハもまた、真霜が見ている空を同じように眺めた。
「もう私にとって、椥叉は大事な友達。ナヅハに似ているとか、そういうこと関係なしにね。」
「……ええ。」
「勿論、愛華も奏も友達だけど、正直ナヅハの事を言えるとは思えない。私の状況を憶測されて、下手に気を遣われる。たった二か月だけど、私には分かる。」
「それは、どうしてかしら?」
ナヅハは目を閉じて腕を組んで尋ねる。
「私と、住んでる階層が違うんだよ。」
真霜は静かに言った。
「それは、よく言われる'生きている世界が違うんだ"とかのアレ?」
ナヅハの質問に真霜は首を横に振る。
「そんな気分の問題じゃなくて、経験。体験してきたことがかなり違うんだよ。大抵の人が”普通”で、それが”当然”。でもそれは必ずしも皆じゃない。当たり前にお父さんやお母さんがいてくれて、友達もいて、ご飯が3食出るのが当然。そういう人って、そんな生活がいつまでも続く、当たり前のものだって信じ切ってる。だから苦しんできた人の気持ちなんて、分かろうとする努力すらしないんだよ……。」
寂しそうな表情で真霜は言った。
「ゲーテね。」
『涙と共にパンを食べたことのないものには、人生の味は分からない。』
「勿論私は今こうやって、生きてる。幸せだけど、世間の”普通”からは離れてると思う。それは椥叉も同じだと思う。」
初日の昼食の時の、椥叉の目を思い返す真霜。
「そうね。」
ナヅハはただ頷く。
「ねぇ、ナヅハ。私は、我が儘なのかな?」
手に握っているコーヒー缶を揺らしてみる。
「……。どうしてそう思うの?」
一度言葉に詰まった様子のナヅハが返す。
「私は同じ目線で、同じような温度の友達が欲しいと思ってる。愛華とも、奏とも楽しく話せるんだけど、時々私の心臓が冷たくなるの。私はこの子たちと違うって、絶対に一緒にはなれないって。笑っている自分が怖くなる。
周りの目も冷たくなって背骨が凍り付く。いくら頑張っても重なることは無くて、どこかで私は一人……。」
真霜は淡々と、しかしコーヒー缶を少しだけ握り締めていた。
「そう感じない友達が欲しい。だからあなたは我が儘だと言うの?」
真霜はしばらくしてから、躊躇いながらも頷いた。
「……そんな訳、ないでしょう?」
ナヅハの声は震えていた。
「そんなの当たり前のことよ?誰もが願っていいことよ?
”普通”の人達は皆”普通”だと思っているから、そういう風に感じる友達が出来る。あなたのように、孤独で、誰にも理解しようとすらされなくて。それがどれだけ辛い事なのか。それに理解してくれた唯一のあの人もいなくなって。あんまりよ……。」
ナヅハの頬には一筋涙が流れ、拳は固く握られていた。
「ナヅハ?」
「ごめんなさい……。私は忘れるところだった。あなたを”また独り”にしてしまうところだった……。」
「一体、何を?」
ナヅハの様子に真霜は酷く狼狽した。
「……いえ、なんでもないわ。あなたは知らなくていい事よ。とにかく。」
頬の涙を強く拭ってナヅハは言う。
「確かに椥叉なら、分かってくれるかもしれないわ。もう止めない。言いたいなら、言いなさい。第3条よ。”後悔するくらいなら、やりなさい。”」
「……ありがとう、ナヅハ。」
真霜はコーヒーを飲みほして、公園をあとにした。