仕立て屋の男
時同じくして、場所はアスガロの中心地である「天の広間」。ここでは朝市が開かれ、早くから人々で賑わう。店が戻った後も広間には、階段で寛ぐ者、井戸端会議で盛り上がる主婦、明るいうちから酔い潰れた中年など、色々な人で溢れている。その天の広間に一台の馬車が通った。
「フン!なんとも俗世な野郎だ。アスガロの明日を作る一派とは思えんな」
男が怒りを向けたのはビルヌ公爵である。男はミルシュ男爵といい、堅物で関わりづらいと貴族間では有名だった。その系譜と先祖に大きな畏怖を持ったミルシュは軟派なことが大嫌いで、舞踏会もまた嫌っていた。ミルシュ男爵は通達の頭だけ読んで、腹を立てて馬車の窓からその招待状を投げ捨ててしまった。
「こんな情けない男が公爵の地位にいるのだから、アスガロはなっておらん。実にどうしようもない野郎だ」
馬車はそのまま天の広間を通り抜けて行った。
ひらひらと舞い上がった招待状はやがて広間の片隅に立つ白い彫刻の足元に落ちた。
「まったく、本当に嫌になる。どうして広間を汚そうと考えるやつがいるんだい」
一人の青年がその招待状を手に取り、仕立て屋に入っていった。彼の名前はマイル。そしてこの物語の中核をなす人物となる。
彼は父親から受け継いだ仕立て屋を営んでいる。母親は彼が十歳の時に他界。父親も昨年他界してしまった。彼が先ほど入った仕立て屋は、まさにその受け継いだ店である。天の広間は建物が囲うように空間を作っている。その建物の一つがその店である。幼いころから大人になるその日まで、共に過ごしてきた点の広間。そこに対する愛情というものは、同国民の誰よりも強かったといえる。
店に入った彼は、扉の近くにあったゴミ箱にその招待状を放り込んだ。当然、そのような代物とは知る由もなく。
「ゴミをその辺に捨てるのはなぜだろうか。紙切れの一つくらい家まで持って帰ればいいもものを。自分ひとりがマナーを守ってどうする、というその考えがいずれ町を汚すんだ。そして汚された街というのは、いずれその国の動かざる悪の根源にすらなりかねない」
彼は独り言を言いながら作業場に戻り、途中で終わらせていた仕事を再開した。
翌日のこと。彼の家にゴミ処理の男が彼の家を訪ねてきた。
「ようマイル、いるかい。来てやったぞ」
「ああ、キストロームさん」
「ゴミあるなら持ってくよ」
「ありがとう。今まとめて持っていくよ。そこの椅子で待ってて」
「ああいいよ。いくらでも待とう」
キストロームは作業場の隅に置かれた、客用の椅子に座った。マイルはゴミを取りに、奥の部屋へ消えていった。微妙な時間を持て余したキストロームは、奥にいるマイルに聞こえるよう大きな声で語りかけた。
「いやあ、こんな店をしっかりやっていけるなんて、お前はさすがだな」
奥からマイルが答える。
「ありがとう。でも僕の力じゃない。お客もほとんどが親父の時からの常連ばかりだし、店だって当時のものを使ってるんだから、僕は投資していないんだ」
「謙遜するな。たとえ親父さんの頃からの客ばかりだからって気を落とすことないさ。そいつらだって、君の腕が親父さん以下なら自然と離れていくさ。でも実際はそうじゃない。つまりは君の腕前はすでに十分だってことだ」
「そんなに褒めたって、ゴミ以外は出て来やしない」
「それでいい。それが俺の仕事だから。そういえばマイル、お前は生地だって一緒に売っているんだろう。反物の値上がりどうするってんだ」
奥の部屋からマイルが顔をひょこっと出した。
「なんだって?」
「まさか、仕立て屋の癖して布の値上がりの話を知らないのか」
「それはいつの話だい」
マイルはゴミどころではないと、奥の部屋から出て来た。
「いや実は俺だって、さっきそこの広間の奴らとの雑談で聞いただけだから深いことは知らないんだがな。ほら、今年は天気が穏やかじゃなかったろう。原料の植物がかなり打撃を受けたらしい。そのせいで新しいものが少ないらしい」
「へえ。でもそれだけだろう?布は野菜と違って腐るわけじゃないし、いくらでも残ってるだろう」
「いんや、根拠はそれだけじゃねえ。噂によると近くの国の仕掛人が買い占めをしたらしい。儲けようってな」
「なんてこった。それがもし本当なら困ったことだぞ」
「このすべてが本当かどうかはわからないが、値上がりは本当のことらしい。お前さんも打撃受けちまうんじゃないかい」
マイルは肩をがっくりと落とした。
「ああ。下手したら直撃だよ。ちょうど店に入れていた在庫が減ったから買い足そうと思っていたところだったんだ。今までのお客さんのこともあるし、値上げはしたくないな」
マイルはしばらくうつむいた。やがて顔を上げてキストロームを見据えた。
「すまない、今日は帰ってくれないか。さっきまで捨てて置いたものも使えるものなら取っておかねばならない」
「そうか。構わないさ。どうする、なんなら午後にでも来ようか」
「いや、結構な量あるし、ゴミの確認だけで一日を終えられるほどブルジョワでもないんだ。仕事もしなきゃならない」
「じゃあ、明日また来るよ。元気でな」
「ああ。キストロームさんも。本当に悪いな」
「構わん構わん」
キストロームは店を出てまた別の場所へと行ってしまった。
「はあ。面倒な仕事が増えてしまった。まさか僕がゴミを漁る日が来るなんてね」
マイルは肩を落としたまま、仕事をしてしばらくの間は忘れることにした。