夢魔は本気になれない
世界で最も嫌いな紅色が、目の前に広がっていた。
その次に見える、同じく第二に好まない色の純白、そしてその寝台。それらが好ましく変わるのは、土砂降りで煉瓦に叩きつけられる百日紅。あるいは、子供達により踏み汚される初雪にしかない。辺りを見渡すが、数歩先にある真新しい寝台を除けば、背景は屋外であると見える。ただ今は暑い夏の季節だ、寝る前は隣人の廃棄物の悪臭に眉をひそめていた。嗅ぎ慣れない芳香が漂わせることも、暑くも寒くもない地帯ではない。
四肢と五感が容易に動くことから認識し難かったが、夢だと記者には分かった。これが恒例の嫌な夢であったとしたら、次の選択肢など残されはしない。過去の変えられない結果を見せつける為、自分を雁字搦めに縛り付けるだろう。
不意に、右手の人差し指を関節から大きく沿うよう手の甲へ折り曲げる。鈍痛、あらぬ方向に折り曲がり、付け根に炎症を起こした。
――夢だな
やっと、記者は満足した。ならば商売道具に支障は起きるまい。周辺を見回すが、空もどこか赤みを帯びている。全体的に赤く、それでいて主体である自分には何かしらが襲う気配もない。ただ、こんなにも花が残されているなら、何処かで眠るのみでしかないのだろう。なら暗示されるは胎内回帰、安住への願望といった所だろうが、いい年して下らない。またここで眠ることが夢の終わるスイッチなら、多少は楽しもうと散策した。
実際歩いてみたが、半径10メートル程で見えない壁に先を阻まれている。壁を手でつたい辿ると、夢の舞台はドーム状だと分かった。と、すると、やはり本筋はあの白いベッドそのものだろう。
――目立つな
天蓋付き、支柱がやや細めでヴェールの生地も薄く柔らかい。端々にレースをあしらっていることから、主流とされた時代を模した物だろうか。赤の彩色と相まって異様に目立ち、ただ唯一の白を輝かせる。それがどこか癪に障り、近付くことを躊躇った。
寝台の下に散らばる薄紅の花弁は床に覆い被さる。記者が激しく足で振り払おうとも、無数の紅が散らばるだけで一向に床を見せようとしない。試しに散らばったそれらを掴み上げる。間近に見るとどれも同一の花ではないらしく、色はともかく形状はまちまちだった。恐らく赤のみを共通点として掻き集めて来たらしい。
――ツツジ、百日紅、マロニエ、薔薇、ヒヤシンス
恐らくそれであろう物たちを摘み上げては捨てていく。記者の指から離れると、あるべき場所に吸い込まれ、色が同一に溶け込む。直感的に、髪の色をしていると嫌悪を抱いた。分かることは、この夢は深層心理の反映と言うよりも、人為的な何かに近いものである。
「人為的……」
夢に他人が介入することは有り得るだろうか――そう、例えば、守護霊からの予知夢、悪魔からの悪夢が該当するだろう。
幽霊と妖怪の類は全てはフォークロア、民間伝承から派生されたものだ。または伝承、神話よりも些細に、厄災や飢饉への後ろ向きの感情、宗教観、未知なる現象への理由付けから、教訓と戒めとして作り出される存在とされる。
吸血鬼は分かりやすい例だ。南の離島は、吸血鬼と似た習性を持つものはいれど、死者からの蘇生からの過程はない。常時暑く死体の腐敗が進みやすいことから、死者が蘇る程に死体は残らないからだ。太古の砂漠地帯では重んじていた宗教観念が違い、死体は常に尊厳と願いの元で干からびさせている。吸血鬼と似た、死体蘇生した化物は滅多にない。
人の言う化物にも大きな違いがある以前に、あるかどうかが民間の慣習で揺らぐ。なら、種族として確かにいることは記者には考え難い。しかし、オカルト雑誌を専門とする傍ら、そういったものに縁があるのは幸いかもしれない。
「……夢だと覚束ないはずだが」
低い男の声が飛び込み、それまで人気のなかった視界から容貌が現れた。声からして、肉体年齢は記者本人の本来の年齢と変わりない。また健常な男性としてか、普通の人間なら記者と然程変わらない年齢と推測する。異国人か移民を象徴とさせる、浅黒い肌に彫りの深い顔立ち。肉体は相応に締まっている。黒の背広と短く刈り上げた黒髪には、金色の瞳がよく釣り合っていた。片側に軽く撫で付けた髪型から、よく磨かれた革靴まで、一点の乱れはないように見える。
特徴的な外見ではあるが、見覚えがなかった。正確には、出で立ちに品のある人物はあまり記憶にない。褐色肌も白い肌も、記者にしては諸事にて見慣れている。が、トーンが落ち着いた声色と、舐め回し視る所作が見受けられない。これまで出会った粗野な輩にはないものだった。
――こんなだったら名刺があるはずだ
希少性あるものは必然的に残りやすい。では数少ない人間からの抜粋と反映かと、記憶を反芻するが思い当たる節はない。それか、または自分の理想の顕れかと夢として照らし合わせるが、そもそも自分には恋愛は向いていないと思い、諦めた。
床は花に埋もれて見えないが、記者に近付く男性にはヒールが鳴る。威圧を含ませるくらいには小気味よく、花からの抑制は感じられない。
曲がった指と同じく、都合いいように作られている仕様だろうか。青黒く腫れ上がった人差し指の関節を治せば、忽ち傷は治り、痛みも消えた。途中、それに男性は顔をしかめたが、闊達な歩みは変わらない。
「夢だな、お前誰だ?」
「……意識がありすぎる」
「質問に答えろよ、夢だからトンキチになるのか?」
「夢だからな……動きやすい夢は寝不足の印だと聞く」
「メタだな、そうかもしれない」
劇中劇的な表現を指摘すれば、男性は皮肉気に笑い、そこで足を止めた。幾分か距離は残されたが、長い手足で小柄の記者を捉えるのは容易い範囲にいる。
ただ、情報は得られた。彼がメタと自覚して、この限られた小部屋に対しても自覚をしている。なら、ここは彼が作った夢の中の部屋が正しいだろう。そして、それを意図的に操作、その中での行為を目的とする怪物。
「……夢魔か」
非現実的かはともかく、急に現れる自在さ、メタと自認する認識と、生きている個性がある。そして見るには苦しくない容姿から、そう判断するが記者には妥当だった。
記者が記した物には、邪淫を推奨する化物は世界各地には見られている。有名な物であるならインクブスとサキュバスだ。この場合男性の姿をしていることから、女性を孕ませるインクブスとするが、記者は男性である。大きめの瞳と長い髪から女と間違えられることはあるが、搾取するは精気だ。つまり確認するは生殖器だろうが、彼は死活問題である性行為においてそれを怠っただろうか。
――いや
今がまさにその場面とは考えにくい。事実、会話を交わした際に記者本人の低い声は、女性の者とは違う証拠には成りうる。ただ彼がそれに戸惑う素振りはない。なら、彼は夢魔の中でも性的対象は男性にまで及ぶ者だと仮定するが良いか。
だが、夢を夢で認識されるのは予想外だっただろうか。伝承上夢魔は人間各々の理想像をかたどってから、登場する。そして誘惑して女性には子宮を占め、男性には搾取をする。記者達人間からしたら、ここにいる時点で求めていた人間、股を開いても構わない暗黙の合意となる。言い伝え通り、理想の姿に化けて出るが前提としたら、記者自身のリアクションは彼にとって拍子抜けしただろうか。
ああ、いや、とそれ以上の考えるのを止め、記者は口角を釣り上げる。容姿を求める欲は何もなかったことに気付いた。
「デフォルト、黒髪金目、褐色の肌、背丈はやや高く筋肉はそれなり?」
「……意地が悪い」
夢魔の顔が陰鬱なものに変える。予想通り、これが彼の本来の姿らしい。
夢魔は甘美な夢の中は峰麗しい見目として登場する反面、生身の人間の腹上に跨がる本体は醜悪に描かれる傾向にある。これはそれを描いた画家本来の思想に強く寄った悪、淫乱に対する露悪の象徴による。しかしあくまでも、人間が悪魔に対して抱くイメージのみだ。
――信じがたい
ならば、今ここにいる夢魔は、これが本来の姿らしい。それはいくつもの伝承を否定させる。また記者が跳躍した考えなら、夢魔としての種族が生きている可能性が極めて高いことになる。男性の個性の獲得、化物としての形状と特性を備えて、日常生活に潜んでいるともあり得る。
邪淫乱については、記者には大きく心当たりがある。来てもおかしくない人生を歩んできたと記者は自負していたが、仮の話だ。彼は人々のイメージとは、かけ離れた思慮と知能を見せる。
ならば沽券に、と、記者は寝台に近寄り、柔らかなベルベットを叩いて夢魔に目配せする。黄金の瞳と合わさる。
つま先から頭まで、記者の姿形を見回したが、誘いの視線には動じない。襲いかかる挙動なしにじっと足を止めた。いつの間にか花の香りも、噎せた熱気もなく鳴りを潜めている。足元の衝撃で踊ることのみが華美の動作か。香りも夢魔が調合していたなら、スペルマと牛乳を間違える頭の悪さはなさそうだった。
「……そこまで饒舌だと興醒めする」
嘆息、そして生き甲斐とは逸れた主観。従来の想像図と照らし合わせるのは困難らしい。が、また自分も夢魔のペースを乱したをも気付く。
――個性、個人としての夢魔か
人の挙動を気にする化物は愉快に思えた。誘い、劣情と怒りでボロボロにされるのも悪くはない。舌舐めずりを抑えるのに必死だった。
夢魔の性格がどうであれ、人間らしいのは嫌いじゃない。あまりにも鮮明と斬新な特性は、雑誌の読者投稿枠にすら受け入れ難い。しかしこれまでにない登場の仕方には、珍しく心が高揚しきっていた。夢で終わるなら、後腐れはしない。
「用意してくださったならやるだろ」
「おい待て」
静止を聞かず、着せられた寝間着から、留め具を外す。夢とはいえ、あらわになった胸部を風に撫でられないのが、逆にもどかしい。その先は記者が慣れ親しみすぎてチープだが、化物相手なら初戦としては悪くはないだろう。自分が浅ましくなって、化物に遣い親しむのも悪くない。貧弱な上半身を晒して彼の足元に跪くか。それとも彼の腕の成すままに体位をなすべきだろうか。
感覚は先程の幻想からしかと受け取った。痛覚が鈍るくらいなら気分は良いだろうと、華奢な肢体を晒しかける。
「……興醒めと聞こえなかったか?」
その時、ベッドが急に下へ傾く。向こうの花は赤褐色に枯れ始めた。体勢を取ろうにも、真下に現れたらしい穴に寝台ごと吸い込まれて行く。おもむろに伸ばそうとした手を夢魔は掴もうとしない。ただ棒立ちにベッドのなだれ落ちる様を見ていた。
冷ややかな視線を送られる。お前は俺すらも見下すかと、背筋に悪い痺れを覚え、記者は夢の最後に軽く舌打ちした。
空は最後まで赤かった。