表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ふたりのバルバリ  作者: あしき わろし
6/7

四〇二年 スティリコと詩人クラウディウス トリノ近郊

 宮廷詩人クラウディウスが詠じる長い詩を、スティリコは黙って聞いていた。

 卓には髭面の部下が並ぶ。彼らも大人しく耳を傾けているが、目だけは瞑らないよう力を込めていた。そこまで上司に倣ってしまうと間違いなく舟を漕ぐ。それはスティリコに恥をかかせることなのだと、彼らは頑張っているのだった。

 やがて長い詠唱が終わった。


「素晴らしい。美しい調べでした」


 目を開いたスティリコは静かに手を叩いた。


「武人にとって詩人に吟じられるほどの栄誉はありません。しかし、かように過ぎる賞賛を頂いては、いささかこの身に過ぎますな」

「なにを仰られるやら」


 宮廷詩人クラウディウスは言った。


「将軍こそ唯ひとり地上に遣わされた救国の軍神、神に愛されし稀代の英雄、その勇名はローマの盾と讃えられたポエニ戦役の名将ファビウス、ハンニバルを破りアフリカの名を冠したスキピオ・アフリカヌスをも遥かに凌駕し、未来永劫この不滅の帝国に語り継がれること疑いありません」


 スティリコは笑顔をみせたが、喜んでいるようには見えなかった。


「いずれにせよ何がしかの評価を頂戴するのは早すぎるようです。ファビウスにしろスキピオ・アフリカヌスにしろ、賞賛を受けたのは敵に勝利した後ですから」

「なんと! とっくに勝利したではありませんか」


 ポルレンティア戦勝の祝賀を伝えに、わざわざラヴェンナから足を運んできた宮廷詩人は、大きな身振りで驚きを表現した。


「まだです。アラリックを取り逃がしました。彼を捕らえない限り勝利したとは言えません」

「勝利したようなものでしょう」

「失礼ながら、クラウディウス殿はアラリックをご存知ない。あの男は、ひとつの戦場が有利に展開したからといって、喜べるような相手ではありません」


 クラウディウスの顔から笑顔が消えた。杯の葡萄酒で喉を潤し、深く椅子に座りなおして、


「ひとつの戦場ではない。将軍は何度も奴に勝っているではありませんか」

「左様、ギリシャで一度、マケドニアでもう一度、彼と矛を交えました。しかし、いずれも勝ててはおりません。あと一歩のところで彼を取り逃がしているのです」

「しかし戦況は優勢だった」

「そこなのです。あの男が恐ろしいのは」


 スティリコの声には実感がこもっていた。


「ギリシャではフォロエ山中に彼を追い詰めました。告白しますが、私自身、勝ったと思いました。そこに驕りがあったのでしょう。僅かな隙をつかれて脱出を許してしまいました。そればかりか、戦が終わってみれば撤兵したのは私のほうでした」


 スティリコは淡々と述懐した。戦を語っているとは思えない静かな口調だった。


「マケドニアでもそうでした。歩兵で前線を受け騎兵で包囲する。糧道を奪い退路を断つ。ギリシャの失敗を繰り返さぬよう考え抜いたつもりでした。しかし気がつけば彼は山中に消え、姿を追うことすらできなかった。それでもイリュリクムまでの要所を塞ぎましたが、いつの間にか彼は戻って、兵の募集までかけている始末。私は二度も優勢に戦いをすすめながら、いずれも勝利を得られなかったのです」


 それは謙遜などではなかった。幾分、自分に辛い採点をしがちなスティリコだったが、アラリックと対峙した武人としての冷徹な批評だった。


「しかし、今度こそ勝利は目の前です。その──将軍の仰られる意味での、勝利も」

「しかし、まだ手中にしておりません。クラウディウス殿、夜を徹して客人をもてなすのがローマの慣わしではありますが、今宵ばかりは中座の非礼をお許し願いたい。なぜなら、こうしている間にもアラリックは一歩、また一歩と遠のいていくのですから」


 スティリコは杯を置き、頭を下げて非礼を詫びた。

 実際、彼の胸中は穏やかではなかった。アラリックは潰走する騎兵を取りまとめ、再編して本隊より先に逃がしているらしい。戦場において何より重要な騎兵を温存しようとしているのだろう。

 アラリック本人が指揮をとる本隊は変幻自在、追撃をうまくいなすばかりか、思わぬ反撃にこちらの被害も少なくはない。それでいて騎兵が本拠地に逃げ込むや、部隊を山中に散らせて行方をくらましてしまうのは、これまでの経験からいって明らかだった。

 勝てそうなのに勝てない。そこがいちばん怖ろしい。暢気に宴などに付き合っている場合ではないのだ。


「粗末な野営の軍舎ですが、精一杯のもてなしをさせますので、どうか今宵はくつろがれよ。帰路は護衛をつけますので、安心してラヴェンナに戻られるがよいでしょう」

「いまひとつ。将軍、いまひとつ」


 席を立とうとするスティリコを、クラウディウスが呼び止めた。


「いまひとつお答え頂き、畏くもラヴェンナの陛下が抱えておられる小さな悩みを、解消してくださいませぬか」

「陛下が?」

「然り」


 スティリコは座りなおした。


「陛下におかれては、いったいどのような悩みを抱えておいでか」

「将軍、あなたの誇る武勇まことに一世之雄にして古今無双、さすが勇猛なるヴァンダルより来る天晴れ益荒男よと、ホノリウス陛下も殊の外、心頼もしく思し召しますが──」

「クラウディウス殿。私はローマ人です」


 スティリコは膝に置いた手を強く握りなおした。


「私もここにいる部下たちも、皆、ローマ人です」

「陛下の悩みはほんの小さな、些細な疑問なのです。しかし、もののふならぬ我々には、悲しい哉、その些細な疑問とても晴らしてさしあげる術がありません。願わくば将軍、陛下の疑問にお答え下さいますよう」

「して、その疑問とは」


 もってまわった言い方に内心じりじりしながら、スティリコは促した。


「されば。かように精強なる将軍の勇兵をもってして、なぜ惰弱なる蛮夷の賊将アラリックひとりが討てぬのか。戦の機微とはかくも玄妙にして不可解であるかと、畏れ多くもご嘆息あそばされたとの由」

「アラリックは惰弱な武将ではありません。そう申し上げてください」

「よもや。よもや万が一にもと、陛下ご自身も心中に芽吹く微かな懸念を、何度も打ち消しておられたご様子ですが、ついに、おん夢にまでみられて目覚めた早暁、次のごとく打ち明けられて、恐れ多くも落涙あそばされました」

「──なんと仰せか」

「万が一、万が一将軍が異邦出身の誼にて賊将と気脈を通じていた場合、いかにすれば朕は将軍の忠節を取り戻せるのか、と」


 スティリコは、しばらく口がきけなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ