四〇二年 スティリコと詩人クラウディウス トリノ近郊
宮廷詩人クラウディウスが詠じる長い詩を、スティリコは黙って聞いていた。
卓には髭面の部下が並ぶ。彼らも大人しく耳を傾けているが、目だけは瞑らないよう力を込めていた。そこまで上司に倣ってしまうと間違いなく舟を漕ぐ。それはスティリコに恥をかかせることなのだと、彼らは頑張っているのだった。
やがて長い詠唱が終わった。
「素晴らしい。美しい調べでした」
目を開いたスティリコは静かに手を叩いた。
「武人にとって詩人に吟じられるほどの栄誉はありません。しかし、かように過ぎる賞賛を頂いては、いささかこの身に過ぎますな」
「なにを仰られるやら」
宮廷詩人クラウディウスは言った。
「将軍こそ唯ひとり地上に遣わされた救国の軍神、神に愛されし稀代の英雄、その勇名はローマの盾と讃えられたポエニ戦役の名将ファビウス、ハンニバルを破りアフリカの名を冠したスキピオ・アフリカヌスをも遥かに凌駕し、未来永劫この不滅の帝国に語り継がれること疑いありません」
スティリコは笑顔をみせたが、喜んでいるようには見えなかった。
「いずれにせよ何がしかの評価を頂戴するのは早すぎるようです。ファビウスにしろスキピオ・アフリカヌスにしろ、賞賛を受けたのは敵に勝利した後ですから」
「なんと! とっくに勝利したではありませんか」
ポルレンティア戦勝の祝賀を伝えに、わざわざラヴェンナから足を運んできた宮廷詩人は、大きな身振りで驚きを表現した。
「まだです。アラリックを取り逃がしました。彼を捕らえない限り勝利したとは言えません」
「勝利したようなものでしょう」
「失礼ながら、クラウディウス殿はアラリックをご存知ない。あの男は、ひとつの戦場が有利に展開したからといって、喜べるような相手ではありません」
クラウディウスの顔から笑顔が消えた。杯の葡萄酒で喉を潤し、深く椅子に座りなおして、
「ひとつの戦場ではない。将軍は何度も奴に勝っているではありませんか」
「左様、ギリシャで一度、マケドニアでもう一度、彼と矛を交えました。しかし、いずれも勝ててはおりません。あと一歩のところで彼を取り逃がしているのです」
「しかし戦況は優勢だった」
「そこなのです。あの男が恐ろしいのは」
スティリコの声には実感がこもっていた。
「ギリシャではフォロエ山中に彼を追い詰めました。告白しますが、私自身、勝ったと思いました。そこに驕りがあったのでしょう。僅かな隙をつかれて脱出を許してしまいました。そればかりか、戦が終わってみれば撤兵したのは私のほうでした」
スティリコは淡々と述懐した。戦を語っているとは思えない静かな口調だった。
「マケドニアでもそうでした。歩兵で前線を受け騎兵で包囲する。糧道を奪い退路を断つ。ギリシャの失敗を繰り返さぬよう考え抜いたつもりでした。しかし気がつけば彼は山中に消え、姿を追うことすらできなかった。それでもイリュリクムまでの要所を塞ぎましたが、いつの間にか彼は戻って、兵の募集までかけている始末。私は二度も優勢に戦いをすすめながら、いずれも勝利を得られなかったのです」
それは謙遜などではなかった。幾分、自分に辛い採点をしがちなスティリコだったが、アラリックと対峙した武人としての冷徹な批評だった。
「しかし、今度こそ勝利は目の前です。その──将軍の仰られる意味での、勝利も」
「しかし、まだ手中にしておりません。クラウディウス殿、夜を徹して客人をもてなすのがローマの慣わしではありますが、今宵ばかりは中座の非礼をお許し願いたい。なぜなら、こうしている間にもアラリックは一歩、また一歩と遠のいていくのですから」
スティリコは杯を置き、頭を下げて非礼を詫びた。
実際、彼の胸中は穏やかではなかった。アラリックは潰走する騎兵を取りまとめ、再編して本隊より先に逃がしているらしい。戦場において何より重要な騎兵を温存しようとしているのだろう。
アラリック本人が指揮をとる本隊は変幻自在、追撃をうまくいなすばかりか、思わぬ反撃にこちらの被害も少なくはない。それでいて騎兵が本拠地に逃げ込むや、部隊を山中に散らせて行方をくらましてしまうのは、これまでの経験からいって明らかだった。
勝てそうなのに勝てない。そこがいちばん怖ろしい。暢気に宴などに付き合っている場合ではないのだ。
「粗末な野営の軍舎ですが、精一杯のもてなしをさせますので、どうか今宵はくつろがれよ。帰路は護衛をつけますので、安心してラヴェンナに戻られるがよいでしょう」
「いまひとつ。将軍、いまひとつ」
席を立とうとするスティリコを、クラウディウスが呼び止めた。
「いまひとつお答え頂き、畏くもラヴェンナの陛下が抱えておられる小さな悩みを、解消してくださいませぬか」
「陛下が?」
「然り」
スティリコは座りなおした。
「陛下におかれては、いったいどのような悩みを抱えておいでか」
「将軍、あなたの誇る武勇まことに一世之雄にして古今無双、さすが勇猛なるヴァンダルより来る天晴れ益荒男よと、ホノリウス陛下も殊の外、心頼もしく思し召しますが──」
「クラウディウス殿。私はローマ人です」
スティリコは膝に置いた手を強く握りなおした。
「私もここにいる部下たちも、皆、ローマ人です」
「陛下の悩みはほんの小さな、些細な疑問なのです。しかし、もののふならぬ我々には、悲しい哉、その些細な疑問とても晴らしてさしあげる術がありません。願わくば将軍、陛下の疑問にお答え下さいますよう」
「して、その疑問とは」
もってまわった言い方に内心じりじりしながら、スティリコは促した。
「されば。かように精強なる将軍の勇兵をもってして、なぜ惰弱なる蛮夷の賊将アラリックひとりが討てぬのか。戦の機微とはかくも玄妙にして不可解であるかと、畏れ多くもご嘆息あそばされたとの由」
「アラリックは惰弱な武将ではありません。そう申し上げてください」
「よもや。よもや万が一にもと、陛下ご自身も心中に芽吹く微かな懸念を、何度も打ち消しておられたご様子ですが、ついに、おん夢にまでみられて目覚めた早暁、次のごとく打ち明けられて、恐れ多くも落涙あそばされました」
「──なんと仰せか」
「万が一、万が一将軍が異邦出身の誼にて賊将と気脈を通じていた場合、いかにすれば朕は将軍の忠節を取り戻せるのか、と」
スティリコは、しばらく口がきけなかった。