四〇二年 西ゴート王アラリック トリノ近郊
北イタリアのヴェローナに春が訪れていたが、アルプスから吹き下ろす風はまだ冷たい。ことに負け戦の後では、肌を刺すことひとしおだった。
「しけたツラすんな、鬱陶しい」
アラリックは唾を吐いた。イリュリクムの属州総督になって六年、四十歳をこえても行儀の悪さ相変わらずだった。
もっとも名目上、属州総督となっているだけで実質的には西ゴート族の独立国である。しかも毎年ローマ帝国より年貢を巻き上げており、力関係は逆転しているといっていい。
それに西ゴート王アラリックは、いつまでもイリュリクムの『司令官』でいるつもりなどなかった。つもりがないというより、もうとっくに周辺に割拠した小部族を討ち従え、勢力拡大に動きだしている。
イリュリクムなど単なる足がかりでしかない。北からまわってイタリア本土、そこでさらなる飛躍の足場をかため、勇躍、アルプスを跨いでガリアを踏んづけ、海峡ごしにブリタンニアまでひと睨み、ヒスパニアまで足を伸ばして大西洋とやらを拝んでやる。邪魔する野郎は蹴散らして、木っ端官軍なぎ払い、アドリア海からジブラルタルまでみんな俺のものにする。
そこまでやってのける自信があったし、当然、そうなると思っていた。
ところが──。
「畜生、なんでこうなった」
当初は順風満帆そのものだった。
北イタリアに侵入するや、たちまちいるかいないかの守備兵を払いのけて西進、ハスタの要塞で形だけの抵抗をみせる皇帝ホノリウスに迫った。
結局、戦らしい戦もせずにホノリウスは要塞を放棄して、南にある西ローマの首都メディオラヌム(ミラノ)に去っていき、そこも囲まれると今度はラヴェンナに逃げ込んだ。
ラヴェンナはアドリア海沿岸の港湾都市で、干潟を埋め立てて都市とした点が後のヴェネツィアと似ており、大軍を展開することができないので籠城には都合がよい。
そのかわり皇帝はこの天然の要害にこもって、一歩も出てこなくなった。アラリックはいつものやり方で、
「糧道? 面倒くせえこと言うんじゃねえよ。現地調達だ、現地調達」
とばかり近隣を掠奪してまわった。
嵐の海に小島がひとつ浮いているようなもので、小さな陸地に縮こまっていれば安全だが、暴風雨にさらされるローマ市民はたまったものではなかった。
それでも西ローマ皇帝ホノリウスは動かない。干潟にそびえる宮殿は、巷に吹き荒れる暴虐を知っているのか訝るほど静謐に、息をひそめて佇んでいた。
あまつさえ、
「遷都である」
そう言ってのけたという。蛮族の跳梁を怖れて避難したのではなく、帝都をラヴェンナに変更したので玉座もそこに移したのである、と。
「どっちでもいいがね」
アラリックはばりばりと頭を掻いた。
彼としては北イタリアで財力を蓄え、さらに大きな戦ができればそれでいい。西ローマの首都がどこかなど、彼の知ったことではなかった。
また直ちにホノリウスをどうかしようとも思っていない。皇帝と呼ばれている男など、アラリックにとって気にするほどの存在ですらなくなっていた。そのうちラヴェンナの奥に隠れているのをふん捕まえて、たっぷり身代金がとれればそれでよし。出てこないなら出てこないで、当面はうっちゃっておいても構わない。その程度にしか思っていなかった。
それより、あいつだ。
「そうとも、あいつさえいなきゃあよ」
対策はしていたはずだ。
アルプス北西に居座っているアラマンニ族に加え、ヴァンダル族にも渡りをつけた。向こう一年は暴れまわって奴を釘付けにするはずだった。アラマンニ族はともかく、父親の古巣であるヴァンダル族が相手なら、多少はやりにくいだろうとも踏んでいた。
「なのにあの野郎、気にもしやがらねえとは」
ラエティアで両部族を打ち破り、雪のアルプスをあっさり越えて、
「スティリコだ、スティリコがきた!」
アラリックが迎撃態勢を整えるより早く、西ローマ唯一の猛将が戻ってきたのだった。
「ヴァンダルの奴らも頼りになんねえな。同族の倅くらい足留めしとけってんだ」
私はローマ人だ──そんな台詞を聞く思いで、アラリックはラヴェンナの包囲をといた。
トリノ近郊のポルレンティアで迎え撃ったが大負けに負けて、散り散りになった自軍を取りまとめるだけで手一杯、逃げ遅れたアラリックの妻子まで捕虜になる始末だった。
取り急ぎ本拠地のイリュリクムへ。当然、スティリコは追撃にくるだろう。ヴェローナのあたりで追いつかれる、とアラリックは踏んだ。
「なあに、手は打ってある」
ひきつった顔でアラリックはうそぶいた。
「ここを逃げ切りゃこっちのもんよ。勝負ってのはよ、最後まで生き残った奴の勝ちなんだぜ」