三九六年 皇帝アルカディウスと司祭ルフィヌス コンスタンティノポリス
「ご拝謁の栄誉に浴しこのアラリック、勿体なくも卑賎の身にかような厚遇を賜り、まさしく無上の喜びにございます。アルカディウス陛下におかれましては益々のご健勝にあらせられ、卑しき身分より僭越かとは存じますが、心よりのご奉祝を申し上げまする」
這いつくばるような勢いで、アラリックは拝謁の謝意を訴えた。
直視するのが畏れ多いとでも言いたげに、視線を眩しげにしばたいて、声と髭とをうち震わせてみせてから、
(さあ、次はお前の番だよ)
とばかりに、ちらと隣に目をやった。
スティリコはこういう場が苦手だった。
礼を知らないわけではないし、この国の最高権威によもや特別な感情があるわけでもないが、生真面目な彼はどうしても、どこか後ろめたいような気分になるのだった。
それでもスティリコは通り一辺の挨拶をしてみせた。儀礼上、とりあえずこれで不敬はない。
玉座の皇帝は無言で目を細めた。
肥えて丸々とした弟帝と違い、アルカディウス帝は痩せている。このとき十九歳だから、ともに三十代の武人たちにしてみれば、ゆうにひと回りは若かった。
アルカディウス帝は無言のまま二人を見おろしていたが、ややあって傍らに佇む男に何か囁いた。
「畏れ多くも陛下におかれましては、かように仰せでございます」
男は窒息しかけた鶏のような声で言った。
瓜のような顔面に、海亀の卵を思わせる眼球がふたつ。まばたきをする度に、反り返った長い睫毛がパチパチと音をたてているかのようだ。あるかないかの鼻の下に、めくれあがった唇を突き出して、男はゆっくり謡い上げるように、
「此度の両将出征にあたり、此を今般の朝政艱難を愁う余りの名誉ある行いと認むるゥ──」
この男がパレスチナのキリスト教司祭にしてアルカディウス帝直属の親衛隊長、フラヴィウス・ルフィヌスだった。
「両将軍の忠心、まさに国家を支える礎なり。よって朕自ら此を労うものとするゥ──」
予期はしていた。しかし、それでもなおスティリコは悄然と床を見つめ、顔を上げることができなかった。
一方のアラリックはといえば、
「ありがたき御言葉──」
とこちらも床を凝視して声を震わせ、なんと、ぱたぱたと涙のシミまで落としている。もちろん心中で舌を出しているのだろうが、とてもそうは見えなかった。
帝はまた何か囁いた。
その口元まで耳を寄せていたルフィヌスはゆっくりと頷き、
「かかる積年の忠節をことほぎ、さらなる貢献を恃んで助けんが為、朕は大権委任の詔を発するものであるゥ──」
抑揚をきかせた甲高い声で、
「ローマの忠臣にして蛮族ゴートを統べるアラリックよ。汝を属州イリュリクムのプロンスコル(属州総督)に封ず。貸与されたる大権をもって、朕になりかわり彼の地を治めよ」
ふたりは平伏したまま黙っていた。勅をさずかるさい、みだりに口をきくのは不敬にあたる。
「かたや勇猛比類なきヴァンダル族のスティリコよ。此度の越境も朕を助けんとした勇みであり、その心まことに感じ入る。その変わらぬ忠心をもって弟ホノリウスの長久なる後見者であることを願う」
はた目にもわかるほどスティリコの肩が震えた。
アルカディウス帝は彼の出兵について、アラリックのギリシャ略奪を東ローマの危機と誤認した結果だと言っている。その上で帝国の危機を憂う忠心を認めながら、西ローマから出てくるなと言っているのだ。
民衆の苦しみをどうお考えか。
などとは問わない。わかっていたことだった。そもそもローマを二分する両帝の不仲を知らぬローマ市民はいないだろう。ホノリウスの後見人である自分が出ていけばどんな横槍が入るか、予期できぬスティリコではない。
それでも目的は達した。自分がきたことでアラリックは兵を引く。遅きに失したとはいえギリシャはそれ以上の惨禍を免れたのだ。
問題はそこではなかった。彼はもう少しで、こう叫ぶところだったのだ。
(私は──私は、ローマ人です)
スティリコの父親はヴァンダル族だった。ローマで軍人になった父親と、ローマ人女性の間に産まれたのが彼である。
「──畏こくも陛下は、かように仰せでございました」
ルフィヌスは厳かに言葉を締めた。
言うだけのことを言ってしまうと、アルカディウス帝は奴隷がかつぐ輿に乗って、さっさと退出していった。
「だとよ」
アラリックが腰に手をあて、伸びをしながらそう言った。