三九六年 西ゴート王アラリック フォロエ山中
アラリックの本営に、前線から戦況がもたらされた。
「おう。どうだった」
伝令が口を開くより早く、アラリックは身を乗り出した。
「アタウルフ将軍も勇躍奮戦されておりますが──」
「まわりくどい言い方をするなよ。端的にいけ、端的に」
「は。戦況は必ずしも有利な展開といえず、アタウルフ将軍より本日の作戦を終了し、次回の出陣に備え鋭気を養うべく、帰陣の下知をくだされてはどうか、との進言がございました」
「進言? 誰にだ」
「王に」
「俺に?」
アラリックは頭を抱えた。
「あのな。将軍ってのはてめえの頭で考えるから将軍なんだぜ。まあ、お前に言っても仕方ねえが」
伝令は硬直したまま、目だけをきょろきょろ動かして、しきりと汗をかいている。教えられた口上を吐き出した後は、どうしていいか分からないのだろう。
「要するに今日も負けたわけだろうが。逃げるかどうかなんざ、死なねえようにてめえで勝手にケツまくれって伝えとけ」
「はっ」
伝令はあたふたと出ていった。
あれで記憶力は悪くない。アラリックの言葉を一字一句違えずに伝えるだろう。ただ、記憶力以外があまりに弱い。
他の連中にしても似たり寄ったりで、やたらと修辞の多い言い回しばかり憶えてくるが、
「状況判断ひとつできやしねえ」
俄ごしらえの玉座に座ったまま唾を吐くアラリックは、西ゴート族を率いる王になっても行儀の悪い男だった。
「スティリコの野郎が羨ましいぜ。あいつんとこも子分の馬鹿は似たり寄ったりだが、てめえの馬鹿を弁えて貴族趣味にかぶれたりしねえし、腕っぷしだけはアホみてえに強え。馬鹿と馬鹿力が喧嘩したら、そりゃあ馬鹿力のほうが勝つわなあ」
アラリックの周囲には少なくない側近や衛兵がいる。当然、殆どが彼と同じ西ゴート族なのだが、それでも彼はこういうことを平気で言った。
「大王」
伝令が報告する間も柔和な顔に微笑みを絶やさず、玉座の傍らに佇んでいたパウリヌスという男が口を開いた。
パウリヌスは幕営ただひとりのローマ人で、キリスト教アタナシウス派の司祭であり、東ローマの高官ルフィヌスの使者だった。
「部下をそうお叱りあるな。大王が栄光あるローマ帝国正規軍の武将になりしゆえに、彼らもまたローマ市民に相応しい物腰を身に付けんと欲するものなれば」
「そも栄光あるローマ帝国とやらも、いまや東西まっぷたつだがね」
アラリックは皮肉ったが、微笑のパウリヌスは動じなかった。
「東にアルカディウス帝。西にホノリウス帝。テオドシウス陛下の聖なる血を引く両陛下が東西ローマにおわしましてこそ、ローマの威光はあまねく万民を照らすものなり」
「聖なる血を引く両陛下、ね」
「左様。あたかも天空に日輪のふたつあるが如くに」
「は!」
アラリックは笑いだした。
「確かにテオドシウスのおっさんはいい武将だったよ。もともと軍人あがりだしな。だが、あのボンクラ兄弟はいったい何の冗談だ? いくら親父さんがいい親分でも、跡目があれじゃお先真っ暗だね」
ひとしきり笑うと、彼は陰りのある目でパウリヌスを見据えた。
「それにだな。俺はローマ軍の役職なんかどうでもいいんだよ。大人しくしてやるから金をよこしな──そう言ってるだけでね。それを報酬とか褒美とか呼ぶのはあんたらの勝手さ。ところがその報酬とやらを打ち切りやがるから、一族郎党引き連れイタリアからギリシャくんだりまで、こうしてふんだくりに来たってわけだ。あんたらが、ここなら好きに略奪してもいいって言うもんだからね」
それでもパウリヌスは微動だにしない。
アラリックの毒のある言葉を肯定も否定もしないが、事実として東ローマの守備兵は、アラリック率いる西ゴート族があらわれる前に、場所を譲るように撤兵していた。
「コリントス。スパルタ。そしてアテネ。まだあんな豊かなところもあったんだな。西ゴート族の俺が言うのも何だが、フン族が暴れまわるわ、フランク族はガリアに居座るわ、ヒスパニアはヴァンダル族に荒らされるわ、ブリタンニアじゃケルトの連中が無茶やるわ」
後世に言う民族大移動の始まりだった。
遊牧民フン族の侵攻に押し出される格好で、ローマ帝国の北辺にいたゲルマン系、スラブ系の民族がローマ領内に流入し、各地でローマ市民と少なからぬ摩擦を引き起こしていた。
彼らの多くは難民だったが、新天地で充分な食い扶持にありつけない場合、彼ら自身が新たな侵略者となることを躊躇しなかったのだ。
「ぶっちゃけローマ帝国もガッタガタの落ち目だろ。どこ行ったって見かけんのはゴロツキみたいな連中と、小突かれ、追い回され、一切合切を奪われてるローマ人じゃねえか。そこへいくと、さすがギリシャは違うわ。都市といい農園といい、こんだけ豊かな土地がまだあると思わなかったぜ。まあ、俺達が来るまではって話だが」
アラリックは皮肉っぽく笑って、
「コンスタンティノポリスにいる東ローマのお偉方は、戦らしい戦もせずにこんな金ヅルを明け渡しちまって大丈夫なんだろうかと、こっちが心配になるくらいだったね」
「西ゴート族を統べる大王は伝統あるローマの司令官を兼務せり。ローマがローマに弓を引かぬは理」
「だったら、あいつを何とかしろよ!」
パウリヌスと違ってアラリックは感情の起伏が激しかった。
「あのクソいまいましいスティリコの野郎をよ! あんたら東ローマは戦もせずに兵を引いたが、かわりに西ローマからあいつがでしゃばって来やがった。頼まれてもいねえくせによ。あいつが来てから俺達は負け戦につぐ負け戦、とうとうこのフォロエ山に逃げ込んだまんま、囲まれちまって身動きもとれやしねえ」
玉座を蹴ったアラリックは、苛々と辺りを歩き回った。
補給路は断たれ、確保した水源もペーネイオス川の流れを変えられ確保がおぼつかなくなっている。といって討って出ればその度に負け、包囲の突破など思いもよらない。八方塞がりとはこのことで、このままでは餓死を待つばかりだった。
「大王」
「なんだよ」
「お困りのご様子」
「おお。大いにお困りだぜ」
「されば、大王をお救いする手を差しのべん」
「はあ?」
アラリックは、しばし呆気に取られた。
「あんたが、あの野郎を追っ払ってくれんのかい?」
「スティリコの全軍を退かせるに及ばず。一角を開くゆえ、大王は乗じてコリントス湾に抜けられよ」
歩みを停めたアラリックは、しばらくパウリヌスの顔を睨んでいたが、やがて玉座に座り直した。
「聞こうじゃねえか。どうやるんだい」
「拙僧がスティリコの陣営に赴き、会見を申し入れる由」
「──なるほど」
パウリヌスは東ローマの高官ルフィヌスの使者であり、ルフィヌスはアルカディア帝の親衛隊長を勤める側近中の側近である。
スティリコは西ローマを統べるホノリウス帝の後見人だが、東西ローマは建前上ふたりの皇帝が支配するひとつの帝国なので、制度としてはアルカディア帝の臣下でもあり、その正使を無下にできない。
アラリックは即座にそこまで理解して、
「うん。そいつは断れねえな。で?」
「此度の出兵に際し、アルカディア帝陛下の御名において、スティリコの領土侵犯を抗議いたす」
「なに?」
東ローマ領のギリシャを荒らしていたのはアラリックである。
「正気か」
「然り」
「なんで、そういう理屈になるんだ」
「道理は事象より導かれるにあらず。事象を導くものなり」
「じれってえな。はやく言えよ」
「畏くもアルカディア帝陛下は、アラリック大王をイリュリクム(アドリア海の東岸一帯)のローマ正規軍司令官、すなわち属州総督に任命される」
アラリックはしばらく何も言わなかった。もちろん身に余る栄誉に口がきけなかったわけではない。
「属州総督──」
そいつはいったい、どういう意味だ? それによってどんなことが起こる? こいつらにはどんなメリットが? 俺が負うリスクは?
アラリックは投げられた提案の意味を解こうと、忙しなく頭を働かせていたが、
「なるほど、それしかねえな──」
ややあってそう答えた。
「乗った。受けるよ」
パウリヌスは相変わらず、微笑み続けていた。