三九六年 フラウィウス・スティリコ フォロエ山麓
「諸君もよく知っているように、我々ローマ人の歴史はふたりの兄弟から始まった」
いかにも、その通り──。
という顔をしていたが、髭面を並べている男達は、実のところあまりよく知らなかった。
その証拠に、真面目くさった顔をしていても、上司と目が合わないように、視線をあらぬところへ泳がせている。
──では、その兄弟とは誰と誰かね。
などど訊かれると困るのだ。
もっともスティリコは、それをとっくに承知している。
「そう、ロムルスとレムスだ。ロムルスとレムス」
少しでも部下達の記憶に残るよう祈りながら、スティリコは兄弟の名を繰り返した。
「彼らはトロイア戦争に敗れイタリアに逃れたアイネイアスの十四代目の子孫にあたる。アイネイアスがまずラウィニウムという都市を建設し、アイネイアスの息子アスカニウスが別にアルバ・ロンガを建設した。その遠い子孫がまた新たな都市、すなわちローマを新設したということになる。遠い子孫といっても今から千年以上も昔の話で、どれも我々にとっては遠い先祖にあたるわけだがね。というのもリウィウスが著した『ローマ建国史』によると──」
と、ここでスティリコは内心、舌打ちをした。
(しまった。またやった)
神妙な顔つきと裏腹に、彼らのの脳は混乱をきたしているようだった。ア、アイネイ? アスカ? アル? アルバルバロ?
かと思えば、両目に猛烈な力を込めて、大きく見開いたまま気絶しかけている者もいた。普通なら船を漕ぐところなのだが、鋼のような精神力で、断固として居眠りを拒否しているのだ。
それもこれも、彼らなりの敬慕のあらわれであることをスティリコは知っていた。歴史はさっぱり憶えてくれないが、彼らにはそんなところがある。
「ところで諸君、こんな話を憶えているかね」
声の調子もつとめて明るく、スティリコは《講義》の内容をかえた。
「ロムルスがローマを建国した後のことだ。彼等にはひとつ悩みがあった。それは女性のことだった」
部下達は意識を取り戻した。
「新興都市であるローマには女性が少なかったのだ。そこでロムルスは一計を案じた。祭りを催し、集まった近隣の異民族から未婚の女性を──」
「さらっちまった!」
男達の野太い、不揃いの唱和が響く。彼らの好きなくだりだった。
「その通り。偉大なるローマ人の祖先は嫁泥棒というわけだ」
一同はどっと笑った。
スティリコもまた笑うしかなかった。内心そんな自分を軽く嫌悪しながら、
「その後、女性を奪われた異民族──サディニ族と戦争になった」
「そして勝った!」
部下が叫んだ。手を打っての喝采。咆哮のような勝鬨。
「ローマ! ローマ! ローマ!」
机は叩かれ、地面は踏み鳴らされ、こうなると騒ぎはしばらくおさまることがない。
「そう、ローマは勝利した」
スティリコは辛抱強く待った。
祭りに女、戦争、そして勝利。確かにこの話は、彼らを酔わせるエッセンスに満ちている。
だが違う。このエピソードはもっと重要なことを我々に教えてくれるはずだ。
「厳しい戦いだったがローマは勝利した。そして敗北したサディニ族の王をローマの指導者に加えることと引き替えに、ローマ人とサディニ族、ふたつの民族は共に暮らすようになった」
スティリコは一息いれて、部下達の顔を見回した。よし、今なら声が届く。
「大事なのはここだ。ローマは強大な敵に臆することなく立ち向かった。すなわち困難から逃げぬ勇気。次にローマは敗北した異民族の王を指導者層として受け入れた。すなわち異民族を差別せず、また敗者をも虐げぬ寛容。そしてローマはその取り決めを忠実に守った。すなわち相手がかつての敵であっても、一旦交わした約束は決して違えぬ公正」
思わず声に力が入るのを意識して抑えながら、
「勇気と寛容と公正。それがローマをローマたらしめた精神だ。銀鷲旗と共にある我々ローマ人は、それを肝に命じておかなければならぬ」
そして講義の締めに祈りを捧げようとしたところへ、伝令が飛び込んできた。
「敵襲! 敵襲!」
男達は一斉に腰を浮かせた。
「今日もきたか」
スティリコはため息をついて、傍らの兜を拾いながら、
「諸君、聞いての通りだ。アラリック王はなかなか勤勉とみえる。であれば今日もまた、我々にとってのサディニ族に、ローマ軍とはどのようなものかを教えてやらねばなるまい」
承知!
そう叫んで部下達が天幕を走り出てゆく。その束縛から解放されたような、晴れ晴れとした表情にスティリコの心は小さく傷ついたが、いざ戦闘になれば彼らほど頼りになる男達はいなかった。
(急ぐことはない。少しずつ変わればよいのだ)
またひとつ嘆息すると、地図を広げて伝令の報告を検討し始める。この瞬間から彼も、いつもの勇将スティリコに戻っていた。
西暦三九六年。ギリシャはペロポネソス半島、フォロエ山麓の陣であった。