|雨歪《レインズ》
『首都』と呼ばれた高層ビルの建ち並ぶ、経済の中心点があった。そこには、まるで雨を吸って伸びるかのように、雲に突き刺さらんばかりに乱立するビル群があり、その合間を埋めるように娯楽を提供する施設があった。雨煙の中でさえ、常に光と活気溢れる区画だった。
人は光に惹かれ、盛者必衰の理など、『首都』にだけは通用しないと思われていた。
ある日。強い雨が降る日だった。
豪雨と言うほどでもなく、しかし弱い雨というわけでもなく、何時の間にかやって来て、何時の間にか去って行くスコールの様な雨だった。
首都全体を覆う様な雲から、まるで檻の様な雨が空を降り、それが首都の衰勢を左右した。たった一日の雨格子で、首都の人間全てが忽然と姿を消した。まるで、雨が全てを洗い流してしまったかの様に。
――俺の親父も、その時、首都に居た。
◇
『元』首都のとある二十階建ての廃ビル。
と言っても、元首都には廃棄されたものしか存在しない。人の生活も、残り香も、全て棄てられて、雨に削られて崩れるのを待つばかりだ。
この廃ビルは元はどうやら宿泊施設だった様で、一階は大きな吹き抜けの空間になっている。本来なら高級であろうソファーやら、シャンデリアやら、美麗なディテールの施された彫刻やらがセンス良く配置されているが、手入れがされておらず、人がいない事を尚更強調してしまう。放置されていた年月の割には埃が少ないものの、灯りもなく、ガランとした空間は不気味さすら感じられる。
その空間の中に、人間二人分の足跡と、小さな水溜りの跡が出来ていた。入り口の大きなガラス製のドアが内開きに開け放たれ、外から廃ビルの中へ、まるで水溜りを追いかける様に足跡は続いていた。
入り口から入ってきた水溜りと足跡の向かう先は、奥の階段だ。水溜りは一直線に階段へ向かっているが、足跡には寄り道が多い。エレベーターの近くに一人の足跡が向かい、エレベーターが使えないか試してみたのだろう、上矢印ボタンだけ埃が指先の形に無くなっていた。電源の供給が無かったらしく、うんともすんとも言わないエレベーターには最初から期待していなかったのか、歩幅から判断するに、恐らく走ってもう一人の足跡に合流している。
その後の足取りは確かで、寄り道すること無く着実に階段へ向かう水溜りを追い掛けていた。
階段は、人間が五、六人横に並んでも肩を打つけること無く昇降出来る幅広さであり、途中で折り返して一階分になる。圧迫感を感じない程度には高さもある。天井から氷柱のように埃の塊が濫立し、その身を悠々と伸ばしていた。足跡たちは、階段を上がってからより一層緊張を高めたらしい。
人間が消え、ホテルの顔とも言える一階フロントでさえあの廃れ具合だったのだ。階段など言うに及ばず、一段上がるだけでも埃が妖精の様に我が物顔で空間を舞うことだろう。だが、幸いにも水溜りが埃を濡らしたお陰で最悪の事態は回避できている様だった。
足跡は十二階に着いた途端に慌ただしくなった。慎重に歩を進め、通路の両端を、壁に沿う様に足跡が続く。まるで何かに警戒しているかのような足取りだ。
幾つかの角を曲がり、とある部屋に着いた。
ぴちゃぴちゃと、やけに水の音がする部屋だ。雨漏りをバケツで受けている時の音がしているが、雨漏りにしては音が多すぎる。もし雨漏りだとしたら、何箇所も同時に穴が開いているはずだ。
蝶番が破壊され、ドアが蹴破られている。
中には人間二人と――
――『雨』そのものが居た。
◇
弾丸が音速を超え、空気の壁を貫き飛翔する。
バンバン、バン! と不規則に反響する破裂音に混じって、まるで高架下の騒音を凝縮した様な耳障りな重低音が響く。
「おい、アスト! お前がこのビルに追い込もうとか言い始めたんじゃねえか! 先に言えよ、何体もいるならよォ!」
「ゴメンよー! でもボクらなら行けると思ってぇー! ていうかあんなに居るとは思わなかったんだよー!」
「行けねーよ! ドア開けたらうじゃうじゃいたじゃねーか!」
「晴明が仕留め損ねなかったらこんな事になってないのに……」
「うるせー役立たず! そもそも弾数が少ないって先に言っといただろうが! 食い意地張ってんじゃねえよ!」
「なっ……! 乙女に向かってそう言う物言いはないでしょー!」
廃ビルの中を走り回る影が二つあった。互いに大声で言い合いながらも、速度を維持したまま、走り去ってきた後方を何度も振り返って何かを探していた。追い掛けられているのだ。そして彼らは逃げ回っている。
一人は晴明と呼ばれた男。身長は百八十センチにギリギリ届かない位だ。青いTシャツとジーパンを組み合わせた、いかにも家に落っこちていた服を拾って着ましたみたいなスタイルだ。やけに作りの良い、安全靴とスニーカーを組み合わせたような靴を履いていた。
彼は服を着たままシャワーを浴びたのかと疑われる程、全身に水を被っていた。青いシャツの色味が濃くなり、床に足が着くたびに振動でベチャ、と音がする程びしょ濡れになっている。真っ黒な髪が、行水後の鴉の様に光を反射している。顔立ちは平均的、と言わざるを得ないが、黒眼だけが異様に爛々と輝いている点だけは、平均からは大きく逸脱している。
そしてアストと呼ばれたもう一人は、声の高さから判断するに女性だ。背は低く、百五十センチを超えるかどうかと言ったところだ。黄緑色のレインコートのフードを深く被っているため、顔立ちは確認出来ない。不思議な事に隣を走る晴明とは対照的に、その身は水の一滴にすら濡れていない。レインコートすら、袋から出したばかりの様に、乾いている。
「だあー、もう! ジリ貧だっつーの!」
「相手が【時雨級】で助かったね!」
「助かってねえよ! 俺の手持ちの弾数と相手の頭数が一緒じゃねーか! ワンショットワンキルとか無理ゲーだぞ!」
通路に乱雑に積み重ねてあった椅子や机をばら撒く様に蹴り飛ばしながら、晴明はぼやく。電気が通じておらず、通路に設置されたランプ類は軒並み装飾品と化していた。外からの光が窓から淡く差し込むおかげで真っ暗闇にはなっていないが、それでも影が多く足元は薄暗い。
晴明は右手に持ったハンドガンのマガジンを新しい物に交換しながら嘆息していた。
ベレッタ――M92FS。
九ミリパラベラム弾を使用。装弾数は15発。
音速を超える鉄の玉を放つ武器だ。たった一キロに満たない重さが、この場では、晴明に自信と安心感を与えていた。左腰にはナイフもあるが、彼はそちらをあまり使いたく無い様だ。
「だからボクはアサルトライフルを持って行こうって言ってるのにいー」
「そんなもん持ち歩ける訳ねーだろうが。目立つだろどう考えても」
「それでやられちゃったら元も子もないと思うよ?」
そう口を尖らせるアストの手にも拳銃が握られていた。
USP.45。
装弾数は12発。45口径の拳銃は、小柄なアストの手には不釣り合いな重厚感を放っていた。大きなおもちゃを持つ子供の様にも見えるが、不思議な事に違和感が無い。ずっと昔から慣れ親しんできた万年筆を手に取るように、その手に収めていた。
「おいアスト、何処まで来てる!?」
「多分さっき曲がった角まで追いついて来てる! ここから三十メートルくらい!」
「逃げ切れると思うか?」
「無理かなー。外に出たらあの数だと追い付かれちゃうよ、きっと」
「しゃーねーな、戦うか。アスト、残弾は? 俺はワンマガジンしかない」
「ボクはチャンバー内に残ってる一発と、マガジンに五発。あと、予備のマガジンが一つ」
「この狭い通路でカタをつける――と言いたい所だが、不測の事態があったら詰む。が、敵が【時雨級】なら、数さえ減らせりゃ逃げ切れる」
「じゃあ、一階の大広場みたいな所で戦おうよ。あそこなら、外にすぐ出られる」
「決まりだな」
晴明は、ベレッタを手に馴染ませる様に何度かグリップ握り直した後、照明の壊れた通路の突き当たりを右折した。アストが追い縋るように慌てて付いて来る。転びかけ、ギリギリで体勢を立て直した。
「そっち行くの!?」
「逆に何で左行こうとしたんだよ。此処に来るときの道順覚えてねーのか?」
「むうー。追い掛けるのに夢中だったの!」
「やっぱり食い意地張ってんじゃねえか」
「流石のボクも怒るよ?」
「へーへー、すいませんねぇ。……それじゃあ、今回は食わなくていいよな?」
「…………食べるけどさ」
「ほーん?」
「もー! ボクのヨンゴーで風通し良くしてやるからなー!」
「わかったわかった。俺が悪かったから銃を振り回すのは止めてくれ」
ぶんぶんとUSP.45――アストが言うにはヨンゴー――を振り回し抗議する彼女を、晴明は面倒くさそうに宥めた。
来る時に付けた足跡を辿る様に通路を掛けていく。二人が走った後には埃が巻き上がり、マスクでもしないと咳が止まらないだろう量が渦巻いていた。
階段を駆け下り、廃ビル一階の広いロビーの中央に陣取る。このビルが廃棄されてからは掃除をする人間などいる訳がない。使われていた頃は、一面ガラス張りで見晴らしの良い開放感のあるロビーだったのだろうが、今ではなぞるだけで指が真っ黒になるほど、埃が張り付いている。
全開になった入り口のドアから雨音が入り込んで、ロビーに反響する。
ざあざあ、と。
自然な環境音に混じって、明らかに規則的な音が聞こえてきた。まるで人が歩く時の様な二足歩行の音だ。
べちゃ、べちゃ、べちゃ、と。
雨音に引き寄せられてきたかの様に、それは現れた。
「やっぱりいつ見ても気持ち悪いな、あいつらは」
「そーお? ボクは綺麗だと思うけどなー」
姿形を比喩で表すとして、かろうじて挙げられるのが人間だ。ただそれは、輪郭から消去法で当てはまるモノを探した時に人形と人間の二択になり、動いているからという理由で人間が選定されただけであって、目の前のそれを人間だと認めるのは如何あっても忌避感が打ち勝つ。
それの身体は、向こうに鎮座するインテリアが透けて見えるほど透明度が高く、軟体動物の様に腕が蠢き、小刻みに頭に相当する部位が震え続けている。人間であるならば物理的に不可能な動きをしている。有り体に言って不気味以外の何者でも無い。
「雨歪……か。全く、良い名前だな、おい」
――雨歪。
大昔のある時代において、突発的かつ偶発的に全世界同時に『発生』した、災害だ。そして、今目の前に現れたそれの名称でも有る。
性質は液体。
形状は多種多様かつ、ある一定の大きさを確保出来れば不定形に変動する。特徴は、身体の何処かに目の様な光が浮かぶ事と、アメジストの様な色をした核を内蔵している事だ。
雨歪の身体は液体で構成されている。
水――つまり、雨だ。
奴らはその身体のほぼ全てを雨水から成り立たせており、身体の何処かにある核を破損させるか、体型を維持できないほどに身体を拡散させない限り消滅しない。体表面、と言う文言が表現として正確かどうかは判断しかねるが、雨歪の体表面は、オブラートの様な薄い膜で輪郭を成している。不思議なことに、個体によって膜の厚さが異なる事もある。
「外見はな。人間を襲って身体の中に取り込んで、溶かしながら食ったりしなければ俺もそこまで毛嫌いしねえし、こうして銃を構える必要もねえ。なんでわざわざ人間を食いに来るかね、雨歪は」
「目的が『食事』だからじゃない? 人間だって、食べられるモノは何でも食べるじゃん?」
「まあ、食べるのに理由は要らないわな。そんじゃま、抗うとしますか」
振動を続ける頭部に、二つの目の様なものがあった。赤い、赤い、LEDライトの様な小さな光だ。その目は、辺りを再確認する様に明滅した後、晴明とアストを餌として捕捉した。どちらが正面か、それすらも分かりにくい雨歪だが、捕食対象として、晴明達を明確に捉えたらしい事くらいは、光る赤目からでも何故か読み取る事が出来た。
幼児が捏ねて作った粘土細工の様にアンバランスなものが、現実のものとして動き回っている事に言い知れぬ恐怖を感じる。顔もなく、関節もなく、骨もなく、そこにあるのは正体不明ののっぺりとした何か。そこに意思が無いからなのか、感情が無いからなのか、あるいはその両方か。ただそこにあるだけで、嫌悪感を抱く。
「良いかアスト。残弾は無駄遣いするな。身体を散らしきるのは今は無理だ。核を狙ってけ」
「はーい。いつも通り、ボクの残弾が五発になったら合図するねー」
雨歪の核。
アメジストの様な色合いをした野球のボール程度の大きさのモノが、人間で言うなら心臓の辺りに浮かんでいた。
あの宝石じみた球体が、奴らの核だ。核を破壊さえ出来れば、雨歪は消滅し、水風船が割れる時のように輪郭が弾けて、なんの変哲も無い雨水に戻る。一定以上の体積を吹き飛ばしたりして、形状を保てなくしても消滅させる事はできるが、今回は核狙いだ。
「そら、次々襲って来るぞ!」
晴明が叫び、アストが照準を定める。
ビル上層で逃げ回る前、つまり雨歪の巣窟となっていた部屋に突入した時、撤退に移る為に晴明は手持ちの弾をほぼ撃ち尽くしていた。お陰で現在の晴明のベレッタには十五発の弾丸しか残っていない。しかし、部屋の中に鉛玉をばら撒いたのが功を奏したのか、その際に雨歪の核を運良く貫通した弾丸が二発ほどあり、二体を消滅させる事に成功していた。
部屋に居た雨歪が残らず追い掛けてきているとすれば、一階に来る雨歪は合計十五体だ。丁度、晴明の残弾数とピッタリ一致する。
アストの弾薬も合わせれば、理論上は殲滅可能なのだが、現実はそうもいかない。
人体と身長はほぼ同じとは言え、ある程度離れた距離から野球ボール程の核を撃ち抜くのは至難の技だ。
身体が透明で核の位置が丸分かりである事が唯一の救いだが、一箇所に止まり微動だにしないというならまだしも、雨歪は人間と同じ程度の運動性能を有している。動かれたら、簡単には当たらない。
雨水で身体が構成されていると言っても、その動きは素早い。一見、のろまに思える雨歪だが、全速力で走れば成人男性ぐらいの速度で迫ってくるのだ。人間程度の運動性能は、十分過ぎるほどに脅威である。
「右手の二体は確実に殺せ!」
「任せてー!」
二人を餌として認識した雨歪が我先にと殺到していく。
迫る雨歪を晴明とアストは手慣れた動きで処理していく。スペースを無駄なく使い、引き鉄を引いていく。少しずつ入り口の方へ下がりながら一番近い雨歪から始末していく。
瞬きほどの間に、雨音を引き裂くような銃声と、ぱしゃん、と言う破水音が埃に塗れた薄暗いロビーに木霊する。
次々と階段から降りてくる雨歪だが、晴明らの冷静な対処により、既に六体が水溜りに成り果てていた。あるいは、雨歪こそが水溜りの成れの果てなのかもしれないが。
「【時雨級】は知能が低くてラクだねー。フェイントとか掛けて来ないし。あ、リロードするよ!」
「あいよ。俺はあと八発だ」
流石に全弾命中とはいかない。何発かは核を外れたが、概ね狙い通りに雨歪を消滅させている。
晴明、アスト、共に自身から十メートル圏内に雨歪を入れた瞬間に核を確実に撃ち抜いている。未だに懐に潜り込まれる失敗は犯していないが、下手をすれば即死の危険な綱渡りだ。
雨歪は、リロード中でも待ってくれたりは、当たり前だがもちろんしない。常に最短距離を詰めて捕食しようと走る。元雨歪の水溜りをバチャバチャと踏み越えながら晴明とアストへ向かう。
アストはレインコートの内側に手を入れて、マガジンを探った。手探りでお目当てのマガジンを掴むと同時に、マガジンリリースレバーを押して空のマガジンを振って落とす。少しだけ手首を捻り、懐から取り出したマガジンを擦り入れた。
対する晴明は、リロードで隙だらけのアストを援護するべく少しだけ自ら距離を詰める。両手で構えたベレッタで、照準を合わせて正確に弾丸を撃ち込まんとする。流石に全力疾走で核の位置が上下する所を撃ち抜くのは無理だ。よって、足止めをしてから確実に仕留める。
晴明は、核ではなく、雨歪の膝あたりを狙って引き鉄を引いた。丁度、上げた足を地面へ戻そうとしていた所に着弾し、水が弾ける。バランスを崩した雨歪は、埃を拭き取るように倒れ込む。
続けてもう一発。
床に伏せていた雨歪の核を撃ち抜いた。
弾けた雨歪には目もくれず、すぐに後続へと視線と銃口を戻した晴明は、同じことを二度続けて行った。
アストのリロードが完了し、射撃を再開するまでに、晴明が三体を仕留めた。
残りは六体。
晴明が後退しつつ、追ってくる雨歪の右股関節あたりを撃ち抜き、速度を殺す。晴明の銃声とは異なる音が、倒れた雨歪の核を破壊した。
「やべえあと一発しかねえ」
「あとはボクがやるよ!」
アストは晴明とは違い、足止めを行うこと無く、直接核を狙う。射撃の精度が良いのか、はたまた運が良いのか、見る見るうちに水溜りの数が増えていた。今は、水溜り同士が混ざって床上浸水しているかのように水浸しだ。
「確実に仕留めろ!」
「頑張ってるよう!」
アストの射撃能力は晴明よりも高いようだが、それでも百発百中とは成らず、何発かは頭や腕を弾けさせるに止まっていた。
「残り二体だ。どっちかの足を止めてくれれば俺がトドメを刺す」
「じゃー、左をお願い」
バン、バン、バンッ、と戦闘の終わりを告げる銃声がロビーを満たす。それと同時に、控えていた雨音が世界の主役に返り咲く。静寂と沈黙の隙間を、ざあざあと縫い付ける。開け広げたままのガラス製のドアから、銃声が逃げていったようだ。
晴明が辺りを見回し、伏兵の存在が無いことを確認してから右腰のホルスターにハンドガンを仕舞った。左腰には緊急用のナイフが即座に取り出せるように備えられていたが、今回は出番が無かった。
「アスト、食うんなら早く食っちまえ。早く家に帰ってシャワーを浴びてえ」
「ちょ、ちょっと待ってよー」
「待ってんだろうが。風邪引くぞ、俺が」
レインコートの内側にハンドガンを仕舞いながら、水浸しになったロビーの中央にぱちゃぱちゃと走っていくアスト。晴明はこの廃ビルに足を踏み入れる時に入り口近くに置いておいた傘を拾い上げながら愚痴っていた。全身が濡れて、服が肌に張り付いている。乾きやすい作りの服装だが、蒸発する時に気化熱で体温を奪ってしまうのだ。
アストは、消滅した雨歪に唯一残った残滓とも言える水溜りの上で両手を合わせて、祈る様に小さく呟いた。
「ごめんね、雨歪。君らの存在はボクが貰うよ」
腰を屈めて、雨歪の残骸に右手を当てる。ぴちゃ、と小さな音がした。
「――いただきます」
次の瞬間。
床一面に広がっていた水が、アストに吸い寄せられていった。正確には、アストの右手に、だ。水が渦を巻き、彼女を飲み込む。
いや、逆だ。アストが、水を呑み込んだのだ。ほんの一秒前まで大量に渦巻いていた雨水が、一秒後にはアストへ向かったと思ったら消えていた。放水車の放水の様な量の水をその身に受けながらしかし、アストは一滴たりとも濡れていない。
レインコートのフードが、渦巻きの余波で脱げていた。その姿が露わになる。
軽くカール掛かった髪が肩の辺りで切り揃えられている。雲を写し込んだかのようなグレーの髪だ。顔のパーツは美術品の如く美麗で、計ったかのように完璧な配置だ。晴明を平均的と評するならば、アストは異常と言っても過言ではない。平均から大きく逸脱した美しさ。真剣な表情をしているアストは、ともすれば人形の様な無機質さすら持ち合わせている。綺麗で、美しく、壊れてしまいそうで、触れば触れたところから腐っていきそうなぐらい柔く瑞々しい白い肌をしていた。
瞳はまるで宝石だ。紫色で、光を捉えて離さない。雨歪の核と、同じ色をしていた。
薄暗い空間の中で、アストの瞳に悲しみとも諦めとも違う光が浮かんだ。懺悔だ。だがそれを誰かに気付かせることはしない。
「……ごめんね、雨歪」
瞼をそっと閉じて、呟く。地面から手を離し立ち上がった時、アストの瞳に宿る光は消えていた。アストは大きく深呼吸をして、晴明の元へと駆け寄る。
「終わったよー!」
「帰るか」
「ボク疲れちゃったよー」
「何さらっと俺の傘に入ろうとしてんだアスト。ほら合羽のフード被れ。そして出て行け」
「むー。労いが足りないよー! て言うかいつも言ってるでしょ、合羽じゃなくてレインコート!」
「別に変わんねーよ」
「変わんないけど変わるんだよー!」
傘を広げた晴明とフードを被り直したアストが廃ビルを後にする。軋んだ音を立てて、ガラス戸が閉まった。雨煙に巻かれて、晴明とアストの姿がボヤけていく。二人が居た事実も、雨歪との命のやり取りも、全て雨が覆い隠した。この廃ビルで起きた出来事は、アストと、晴明と、世界だけが知っている。それ以外が知る由はない。
雨は全てに降り注ぎ、侵食し、穿ち、覆い、囲い、閉じ込める。曇天の下、人々は雨を嫌い、憎しみ、遠ざけ、抗い、しかし緩やかに確実に溺れていく。
――これは、とある二人の物語。
雨によって全てを失い、雨に打たれて涙を流し、雨に濡れて震える人と。
雨の化身でありながら、雨に背を向け裏切った、雨歪の物語。
雨格子の中で紡がれる、男と女の物語。
――人間と雨の物語だ。
銃器を出しつつ、こんな世界観を作ってみたかったので、お試しで書いてみました。
続くかどうかは分かりません。