明かせぬ思い
薄紅と紫と青とが綾をなす、玄妙な色合いの空。
残酷な太陽の目から身を隠すように、夕闇に紛れて獲物を狩る。
古びた雑居ビルの隙間には、人工の明かりすらも届かない。
手の中で、みゃあみゃあともがく温かい獣の身体……
とくとくと途切れることなく指先に伝わってくる鼓動が、最後の抑制を突き崩した。
薄汚れた毛並みにがっと牙を食い込ませ、すさまじい勢いで生き血をすする。
頭蓋の内側で炎が爆発した。
いくつもの幻が目の前をよぎる。
こことは違う裏路地の光景――無数の猫たちの金色の目――
夜の闇を引き裂く照明弾の光、黒焦げになった建物――
獲物と狩人の精神が入り混じり、過去も現在もメビウスの輪のようによじれた。
ビルの裏口に残飯の皿を置いてくれる女性の姿。
毛並みにそって頭や背を撫でる、優しい手の感触。
輝かしい記憶に、暗黒の闇が襲いかかった。
もっとも原始的な感情、死の恐怖が、すべてを食らいつくして飲み込んでゆく――
彼は大きくよろめき、獲物の身体を取り落とした。
暗闇が弾け、目の前にはふたたび、薄汚れたビルの壁がそそり立っていた。
地面に落ちた野良猫の身体は奇妙にひきつれ、ぴくりとも動かない。
「……う……」
口元を血で汚したまま、彼はずるずると地面に座り込んだ。
『何を泣いているんだ? バシレイオス』
面白がっているように、声が言った。
『情けないじゃないか、ええ? まったく惨めなものだ。
誇り高きアリストファネの血統を継ぐ者、かつては王子とも呼ばれた男が、こんな薄汚い路地裏で野良猫の血をすするまでに落ちぶれるとはな……
だから、おまえは泣いているのだろう?』
「違う!」
彼は喚き、ぎりぎりと牙が鳴るほどにきつく歯を食いしばった。
「私は……もう嫌なんだ! こんな……」
『嫌だ? 何が、嫌だと?
こんなふうに他の生き物の命を奪うことが?
それとも、狩りのたびに獲物の記憶や感情に振り回されて、見苦しく泣くことがか?
愚か者が! おまえの精神の脆弱さには、まったく苛々させられる。
俺たちは呪われた夜の生き物、この血を受け継いだときから、命果てるまで他者の生命を喰らいながら存在し続けるのがさだめだ!
今さら何を惑い、ためらうことがある?
ああ、それとも……』
彼は激しくかぶりを振ったが、声は容赦なく続いた。
『こんな姿を、あの娘には知られたくないというのかな?
そうだ、詩乃によく似たあの娘――桜花とかいう名だったか。
あの娘が、今のおまえを見たら、何と言うだろう?』
「やめ……」
『悪魔、外道と罵るだろうか? それとも、何も言わないかもしれんな。
ああ、想像に難くはない。
ことばもなく見つめる、嫌悪と軽蔑の眼差し――』
「やめろ……」
『人の血を、獣の血に代えたとて無駄だ。
人間どもにとって俺たちは結局、忌むべき化け物にすぎない。
あの詩乃との下らん約束のために、浅い味わいの獣の血などに甘んじるのはもうやめるといい……
あの娘の味を試してみたくはないか? きっと、極上の――』
「やめろ! やめろっ!」
耳をふさいで、彼は絶叫した。
「もう、これ以上、耐えられない――! 私の中から出ていけ!」
「……出て行くのは、貴様だ」
不意に冷ややかな声が聞こえ、バシレイオスは、はっとして立ち上がった。
声の源は、闇に沈んだ路地の奥。
そこから、スーツ姿の男がゆっくりと姿を現した。
金の髪に、金の虹彩。
若い――いや、若くなどない、男。
古きモノ。
「あ……山猫、の……」
「音也」
そっけなく名乗った男の視線が、地面に転がった猫の死骸に向けられる。
バシレイオスは慌ててそれを隠そうとしたが、完全に手遅れだった。
音也の金色の目に、怒りが燃え上がる。
だが、彼はそのことについては触れず、バシレイオスを睨みつけて言った。
「明日の夜明けまでに、この土地を出ていけ」
「え……」
「二度と、桜花殿に近付くな。再び会うことは許さん」
口調には抑制が効いていたが、ことばの端々に、今すぐにでも飛び掛かって相手の喉笛を食いちぎりたいという激情が透けていた。
「貴様からは、邪悪な……死のにおいがする。
本来ならば始末してやりたいが、桜花殿に免じて、見逃してやるのだ。
それを有り難いと思い、早々に、この土地を立ち去れ!」
脳裏に、けたたましい哄笑が響いた。
『見逃してやるだと! これはいい!
この愚かな山猫は、俺たちに挑んで勝てるつもりでいるのだ。
さあ、たっぷりと遊んでやれ。
生皮剥いで、臓腑を抉り、それでも今のような口が利けるかどうか試してやるがいい!』
「あ……あの……」
「明日の、夜明けまでだ」
音也は、もう身をひるがえしていた。
「警告はしたぞ」
それだけを言い残して、路地の奥の闇に溶けるように姿を消す。
足音はしなかった。
『……なぜ、殺さなかった?』
からかうような声が響いた。
『あの少女に知られることを恐れたか? 彼女に、よく思われたいのか?
詩乃を失い、あの少女を代わりにしようとしているのか?』
「黙れ……!」
バシレイオスは軋るような声で呻いた。
「私は……おまえとは違う! 私は、もう、殺さないんだ!」
『だが、猫ならば殺す』
くくく、と笑う声は、心底愉しんでいるようだった。
『あの、音也とかいう山猫の顔を見たか?
あれは、何か企んでいるぞ。
さっさと始末しておいたほうがいいんじゃないか?』
「嫌ですよ……」
『いいのか? でなければ、あそこにいられなくなるかもしれないぞ……』
――いられなくなる?
「そんなはずない……桜花さんは……私を置いてくださると」
『ああ、そうだ。
だが、いつ、山猫に唆されておまえを放り出そうとするかわからんぞ。
また、あの暮らしに戻るのか?
陽光に怯え、ハンターに怯え、追っ手に怯える流浪の暮らしに……』
「あ……」
ゆっくりと毒を流し込まれるように、恐怖がバシレイオスの心にしみ込んでゆく。
『殺してしまえ、誰にも知られぬように、密かに……
だが、じっくりと時間をかけてな』
どこにも、行くところがなかった。
あの場所の他の、どこにも。
そう、全ては、かつて犯した罪ゆえに――
この地上のどこにも、彼を受け入れてくれる場所などないのだ。
「……嫌だ……」
数十年も前――
そして昨日、出会った、たったふたりの少女たちを除いては。
「彼女は、戻ってこいと言ってくれたんだ」
かたく閉じたまぶたの隙間から涙が溢れて、地面に小さなピリオドをふたつ打った。
*
――THU 20:48
「いいか、娘よ」
ずん、と顔を大きくして、俊一郎は真面目な顔で言った。
「何かあったら、すぐに大声で父さんを呼ぶんだぞ。
父さんは真下の部屋に、常に戦闘態勢で待機してるからな。
それから……あ、そうだ!
できるだけ、奴の半径五メートル以内には近付かないようにな!」
「それじゃ、話せないだろーが……」
しっしっ、と父親を追い払う手つきをして、桜花はがらりと自室の窓を開け放った。
窓の外側は、腐りかけた木製のベランダだ。
さらにその外は、暗闇と、遠い街の明かり。
そして、頭上には、満天の星々。
「いよっ」
桜花は器用に窓枠をのりこえると、ベランダのすみに立ててあった脚立をはしごの形に伸ばして、しっかりと屋根に立てかけた。
「……ああ、もう! 何なんだよっ!?
いいから引っ込んでろって、うっとうしい!」
窓の内側からじーっと凝視してくる俊一郎に向かって怒鳴る。
「な! 娘の身を心配する父親に向かって、うっとうしいとは何事だゴラァ!?
そんなことを言うとなあー、父さんは心痛のあまり、おまえが登ってる最中にこっそり脚立を突ついたりしちゃうんだぞオラオラ」
「だっから、そーゆーことを、するなってんだよ! ガキじゃあるまいし!」
「ぷーん!」
「ぷーん、って……オイ」
タコのように頬をふくらませてどかどかと去っていく俊一郎の背中を見送り、がっくりと脱力したものの、桜花は再び気を取り直して脚立を登りはじめた。
目線が、2階の屋根のふちを超える。
「おお……」
何度見ても、そのたびに、色あせることのない感動が湧き上がった。
「今、あたしたちが見てるのと同じ星が、何十年前にも光ってたんだな。
そうだろ、レイ?」
「ええ」
ことばとともに差し出された白い手を、にっと笑って桜花は握った。
屋根の上で待っていたバシレイオスが、桜花の身体を、羽根か何かのように軽々と引き上げる。
『レイ』というのは、昨日、桜花が考えたあだ名だった。
『バシレイオス』では長くて呼びづらいため、短くしてみたのだ。
「サンキュ……すっごい腕力!
とても、二百二十歳のじいさんとは思えないよ」
「それはどうも」
どう見ても二十歳より上には見えないバシレイオスは、桜花の憎まれ口に怒る様子もなく微笑んだ。
こいつの顔、笑ってるときでも哀しそうなのはどうしてだろう、と桜花は思った。
やっぱり、ばあちゃんのことが、忘れられないからなんだろうか……?
吸血鬼の男と人間の少女は、瓦屋根のてっぺんに並んで腰を下ろした。
「桜花さんは、よく、ここに?」
「ああ。あれこれゴタついたときには、よく来る。
こうやって夜空を見てると、何ていうか……
あれこれ小さいこと考えてるのがバカらしくなって、気が楽になるんだ」
「どうもすみません、ゴタゴタしまして……」
「いや、別に、そういう意味じゃないんだけどな」
互いに空を見つめたままの会話が、そこで途切れた。
桜花は、夜風に吹かれている裸足の足指を開いたり閉じたりしながら、妙な居心地の悪さを味わっていた。
下で話し合えば、俊一郎があれこれと口を出してくるだろう。
ふたりきりになれば、聞きにくいことも聞けると思ったのだが。
(くそっ。あたしは、何をたずねるつもりなんだった……?)
いざ二人きりになってみると、かえって、何もことばが浮かばなくなった。
横目でちらりとうかがうと、バシレイオスは、魂を奪われたようにぼんやりと星々の輝きに見入っていた。
それとも、その目に映っているのは星ではなく、遠い日々の幻だろうか。
彼の唇が、小さく動き、何事かを呟いた。
「何?」
「――すみません」
今度は、はっきりと言って、バシレイオスはまっすぐに桜花を見た。
「何が?」
「昨日、私が、あなたにしたことに対してです。
渇きのあまり、自制を失ってしまった。
決して人間は襲わないと、詩乃さんに約束したのに……」
「詫びなんか、いらないよ。おまえは、自分で踏みとどまったんだ。
ばあちゃんも、きっと、許してくれるだろ……」
なぜだろう。
彼が、詩乃という名を口にするたびに、心を小さなトゲで引っかかれるような感じがする。
「あのさ」
桜花は、乾いたくちびるを舐めた。
長い黒髪が旗のように風に流れ、背中を打つ。
「ちょっと思ったんだけど……あのさ。
おまえって、もしかして……ばあちゃんのこと……」
バシレイオスは、はっと身じろぎして桜花を見つめ、それから、慌てて視線を逸らした。
桜花は、心臓をぐさりと刺されたような気分になった。
(やっぱ……そうか。そうだよな。最初から、わかってたんだ……)
そうだ。とっくに、わかっていたことじゃないか。
それなのに、なぜ……
何に対して、衝撃を受けることがあるだろう?
桜花は無理やりに、波立つ心を鎮めた。
「かなり、尊敬してるみたいだけどさ。
いくら、そのばあちゃんとの約束でも、人間の血を飲まなくて、身体がもつのか?
いや、断じて、勧めてるわけじゃないけどな」
少なくとも口調は、自分で満足できる程度には平静なものだった。
「ええ。あの――獣の血でも、生きることはできますから」
「獣の?」
繰り返した桜花に、路地裏での出来事を思い出し、バシレイオスがぎくりとした表情になる。
桜花は、真剣な顔つきだ。
「じゃあ――たとえば、吸血犬、とかってやつも、いたりするわけか?」
「……はい?」
「だって、吸血鬼って、血を吸った相手を仲間にしちゃうんだろ?
てことは、吸血犬とか、吸血猫とかがそこらじゅうに……」
「ああ! いえ」
あからさまに安堵の色を浮かべて、バシレイオスは笑った。
「吸血鬼に血を吸われると吸血鬼になる、というのは、単なる迷信ですよ。
血を吸うたびに殖えていくとしたら、すぐに、世界中が吸血鬼だらけになってしまうでしょう?」
「確かに、言われてみれば……
えっ、じゃあ、吸血鬼って、どうやって殖えるんだ?」
勢いで言ってから、もしかしてかなりきわどい質問をしてしまったか、と焦る。
だが、バシレイオスはあっさりと答えた。
「血を奪うだけでなく、与えればいいのです。
相手の血管に、己の血を注ぎ、血統の力を分け与えるのですよ」
「それって……つまり、吸血鬼ってのは、血液感染するってことか……?」
「その言い方では、何だか疫病みたいですが……まあ、そうですね。
でも、私たちが血を与えた者が、必ず吸血鬼になるとは限りません。
古く強力な血統であるほど、その血を受け入れることができる人間は少ない。
劇薬のようなものですから、相手がその力に耐えることができなければ、死に至ります。
私が《母》から血を受け継いだときも……
あれは、ひどかった。死ぬかと思いましたね」
「それじゃ……」
その瞬間に少女が見せた、この上なく嬉しそうな表情に、バシレイオスは驚いた。
「おまえも、元はあたしらと同じ、人間だったってことか!」
「にんげん……」
耳慣れたそのことばが、ひどく懐かしく響いた。
遠い昔、自分が、まだそう呼ばれる存在だった時代があった。
輝く陽射しを浴び、明るい大通りを歩き、夜の世界も、そこに生きるモノたちのことも知らずにいたあの頃――
そうだ、にんげん、だった。
今は、もう違う。
耳の奥で聞こえる忍び笑いを、バシレイオスはつとめて無視しようとした。
「あの、桜花さん。わたしからも、ひとつ訊いていいですか?」
「うん」
「あなたは、なぜ、私を生かそうと思ったのですか?」
桜花は、思わず相手をまじまじと見返した。
「何だよ……? 改まって……」
バシレイオスは、真剣な顔つきだ。
本人にはそんなつもりはないのだろうが、どこか、答えをきかずには引き下がらないといった気迫があった。
自然、桜花の表情も固くなる。
「まあ……それは、たぶん……
おまえが、心底悪い奴には見えなかったから、かな?」
「けれど、私は――」
「あのとき、おまえは、あたしを殺すこともできた」
それは確かだ。
最後の瞬間に彼の腕が緩まなければ、自分は、確実に意識を失っていた。
からからに干からびるまで吸い尽くされても、そのことに気付くチャンスすらなかっただろう。
「でも、おまえは、そうしなかっただろ。
レイが本当に悪人だったら、あたしは今、ここに座っちゃいないよ。
……あ! それより」
それ以上追求されないうちに、桜花は、自分から疑問を口にすることで話題を変えようとした。
「あたしのほうにも、訊きたいことがいろいろあるんだ。
おまえ、出身はギリシャだって言ってたよな?
どうして、わざわざ日本まで来ようなんて思ったんだ?」
その瞬間、バシレイオスの頬がかすかにこわばった。
「追われて、いたんですよ」
「追われて? 誰に?」
一瞬の沈黙。
だが、それが不自然な間に変わる前に、彼は答えた。
「私は、吸血鬼ですから。ハンターの方たちに、命を狙われるんです。
大陸のほうは、特にハンターの数が多いので、危険なんですよ。
何しろ、あちらは吸血鬼の本場ですからね」
「ほ、本場」
イヤな本場もあったものだ。
「日本は、昔からその土地に住みついておられる方々の勢力が非常に強いので、吸血鬼の個体数そのものが非常に少ないんです。
だから、ハンターも、それほどやって来ないのですよ」
「なるほどな……つまり、日本に避難してきた、ってわけか」
納得して、深々とうなずく。
「いや、実は、レイの身柄をこれからどうするかって、ずっと考えてたんだよ。
でも、今の話を聞くと、故郷に帰すって選択肢は消えるよな……」
星を見上げてぶつぶつと呟くふりをしながら、桜花は、なぜかほっとしたような気分を味わっていた。
「まあ、とりあえずは、今までどおり、裏の洞窟に住み着いといてもらおうか。
人間に悪ささえしなきゃ、あたしらは、別にかまわないし。
……あー、そうだ。やっぱ、九郎次の御大にも、直接ことわりを入れとかなきゃ、マズいよなぁ……」
その場合は、やはり、身元引受人たる自分が出向くべきであろう。
九郎次の御大は苦手だが、この際、そんなことは言ってはいられない。
きちんと仁義を通しておかなければ、この先、信用問題にもなり得る。
「桜花さん」
深くうつむき、囁くように言ったバシレイオスの表情は、桜花には見えなかった。
「あの……もしも、私が……」
彼の声は、いっそうくぐもって、ほとんど聞き取れないほどに低くなった。
「私が、ひどい嘘つきで、あなたや詩乃さんを騙して……
本当は、残虐な化け物だったとわかったら……
そのとき、あなたは、どうしますか?」
桜花は、もう少しで彼の顔をのぞきこむところだった。
『変わらず花のようにみずみずしく、そして、研ぎ澄まされた刃のように美しい――』
昨夜、そう囁いた彼の声は、笑っていた。
残虐な化け物……?
そうかもしれない。
自分は、しおらしい態度に騙されているだけなのではないか?
昨日の夜、彼はわざと桜花の動揺を誘い、その怯えを愉しんでいたのではなかったか?
(でも……こいつは、自分から手を止めた。
さっきも、すすんで詫びを入れた。
今だって、あたしに、何もしないじゃないか……)
どうしてだろう、と桜花は思った。
ほんの二十時間ほど前に会ったばかりのこいつを、あたしは、なぜ、こんなにも信じたがっている――?
「どうするか、って?」
無数のきらめきに手をかざし、桜花は、にいっと笑った。
「さあね。まあ、たぶん……ていうか絶対、ぶん殴るな! ボッコボコに。
叩きのめして袋に詰めて、埋めて、上からお湯かけてやる」
バシレイオスの顔に、泣きそうな微笑が広がった。
「ありがとう……」
「いや、冗談だよ、冗談!
なんで、今ので礼を言うんだよ? 変なやつ!」
その笑顔に見惚れてしまいそうで、桜花は無理に視線を逸らし、空を見上げた。
銀砂のような星々が、輝いている。
「……あ」
ふと思い出した。
「実はさ。今日、学校で、同じ学年の奴に告られちゃってさ……」
「こくられる?」
「こっ……告白される、ってことだよ!
まあ、まだ、はっきり聞いたわけじゃ――」
「そうなんですか?」
バシレイオスは一瞬驚いたようだったが、すぐに、笑顔を浮かべた。
「それは、よかったですね!」
屈託のない笑顔に、桜花は、二の句が継げなくなった。
また、胸の奥が痛んだ。
「それで、桜花さんは、何と返事を?」
「返事は、まだ、してないんだ……
だって、何て言ったらいいか、分かんないし。
どうなんだろうな。ここは、OKしとくべきかな?」
桜花にしてみれば、苦し紛れに、勢いで放った質問だった。
だが、バシレイオスは、不意に真顔になった。
「……あなたに、その方を想う気持ちが、少しでもあるのなら」
桜花が思わず息を呑むほどの、それは、真剣な表情だった。
「絶対に、申し込みを受けるべきです。ためらってはいけない」
「あ……そう?」
「そうですよ」
彼は微笑んだ。
桜花には、その顔がまるで泣いているように見えた。
「愛は、失う哀しみよりも……
それに手を伸ばさなかったことへの後悔のほうが、ずっと辛く、重いものですから……」
ああ、おまえはきっと今、ばあちゃんのことを考えているんだ。
不意に、喉元に熱いものがこみ上げて、つんと鼻先が痛くなった。
――何だ。なんで、あたし、泣きそうになってんだ。
桜花はいきなり、うんと手足を伸ばし、屋根の上に寝転がった。
大きくあくびをするふりをして、ぐいと目をこする。
驚くバシレイオスに、笑いかけた。
「この体勢、なかなかいいぞ。おまえもやってみたら?」
「……こうですか?」
「そうそう。一度、転がり出したら止まらないから、気をつけろよ」
「……星がきれいですね。
夜空だけは、昔と、何も変わらない……」
「うん……」
吸血鬼の男と人間の少女は並んで横たわり、それきり無言で、じっと星空を見上げていた。
その頃、真下の部屋では、
「おっそいなー、桜花の奴!
見に行こっかなー……でも、勝手に登っていったら蹴られそうだしなー……
むううん! 揺れる父親心」
腕組みをした俊一郎が、悶々と歩き回っている。
静かに更けてゆく、深山家の夜。
その様を、はるか遠くから冷ややかに見つめる望遠レンズの存在があることを、その場の誰ひとりとして、無論、知るよしもなかった。