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バシレイオス

 ――THU 02:45


「オヤジ……」


 癖のように腕時計を確かめておいて、桜花は顔をしかめた。


「やっちゃったんじゃないか、これは?」


「いやあー、そんなことないって! あ、ほらほらっ。息しとる息しとる!」


「風前の灯、って感じだけどな……」


 ぴくりとも動かない男の口元に手をかざして言ってくる俊一郎を横目に、半眼で答える。


 場所は、いまだ廊下だ。

 あのあと、怒り狂ったバッファローのごとき俊一郎を止めるのは、実に大変だった。

 とっさに身を挺して立ちはだかり、光弾でドカンという事態だけはどうにか回避したものの、ヘビー級王者並みのパンチ十数発を食い止めることまでは、さすがにできなかった。


「しかし、よりにもよって吸血鬼を、このトンガリ山にかくまうとは……」


 俊一郎から受けた説明を思い返し、桜花は、複雑な顔で呟く。


 吸血鬼ヴァンパイア

 ヨーロッパ諸国、次いでアメリカには多く分布していると聞いたことがあったが、古きモノたちがそれぞれの縄張りを頑強に守るこの日本に存在しているとは思わなかった。


 しかも、こいつは、日本生まれではない。

 つややかな黒髪をしてはいるが、よく見れば顔立ちは日本人のものよりもずっと彫りが深く、桜花は、美術の資料集に載っている彫刻を漠然と連想した。


 この異国生まれの吸血鬼を深山の女当主がかくまったことで、当時、周囲の魔物たちにどれほどの緊張が走ったか、想像に難くはない。

 現に今も、音也は全身の毛を逆立て、ぐるぐると威嚇の唸りを上げ続けている。


「ばあちゃん……どうしてまた、そんな酔狂な真似を?」


「それが、俺も、詳しい事情はよく知らんのだ。

 チラッと話に聞いたことがあるくらいでな」


 ぼりぼりと頭をかいて、俊一郎。


「こいつは昔――つまり、おまえのばあちゃんが若いころ、うちに居候してたんだが、そのうち、裏山の洞窟にこもって、それっきり出てこなくなったらしい。

 俺も、姿を見るのは初めてだし、名前も知らん」


「それって……」


 頭痛をこらえるように、桜花。


「要するに……今の今まで、何十年も、うちの裏山に吸血鬼が埋まってたってことだよな……!?」


「まあ、そうなるな」


「バカヤロー!

 そんなとんでもない話、どうして、もっと早く教えてくれなかったんだよ!?

 いきなり出るから、めちゃくちゃ焦ったじゃないかっ!」


「いやあー、何十年も経ってるし、たぶん、もう腐ってるんじゃないかと思ってなハハハハハ」


 と、ここで娘の冷たい視線に気付き、


「……完全に、忘れてました。すみません」


「そんなことだろうと思ったよ……」


 深々と頭を下げた父に、げんなりと、桜花。


(なるほど、こいつは、詩乃しのばあちゃんの知り合いか。

 それで、あたしを、ばあちゃんと見間違えたんだな。

 それにしても、まさか本物の吸血鬼と関わることになるとは……

 やっぱ、ニンニクで逃げ出したり、十字架で滅んだりするんだろうか?)


 吸血鬼についての桜花の知識は、その程度のものであった。

 今のところ、はっきりわかったことといえば、異様に動きが素早く、力が強いということ。

 そして、凄まじい治癒能力を持っているということだ。

 音也に噛み付かれた肩の傷が、もうほとんど跡形もない。


 さらに言えば、驚いたことに、この姿は《変化》ではなかった。

 目で、見た通りの姿。

 外見においては、ほとんど人間と変わりがないということだ。


「俊一郎殿!」


「うお!?」


 不意に、音也がくるりととんぼを切って人間の姿に変わった。

 突然の大声に驚いた桜花には構わず、彼は、今にも掴みかからんばかりの勢いで俊一郎に迫る。


「どうか、今すぐに、この鬼を滅ぼして下さいませ!

 この者からは、邪悪なにおいがいたします。

 生かせば必ず、深山の家に災いをもたらすことでございましょう!」


「災い、だと?」


「できるなら、この牙で喉首を食い破ってやりたいところ――」


 きりりと犬歯を噛みしめ、音也は言い募る。


「ですが、かつて伯父貴――九郎次と、詩乃殿とが交わした約定のため、山猫の一族は、この者に手を出すことができぬのです」


「さっき、ちょっと齧ってなかったか?」


「それはっ……つい」


 静かにツッコミを入れた桜花を見て、もどかしげに唸り


「ともあれ、この者の生殺与奪の権限は、一切、深山の一族に預けられております。

 それゆえにこそ、伏してお願い申し上げます。

 この鬼を、今、この場で滅ぼして下さいませ!」


「……殺すのか?」


 そんな問いが、思わず桜花の口をついた。

 その口調は自分でも驚くほどに頼りなげで、弱々しかった。

 俊一郎が、驚いたように見返してくる。


「何だよ……」

 

 目を逸らし、ふと、自分でも疑問に思う。


(どうして、あたしはさっき、オヤジを止めたんだ? 今も……どうして?)


 なまじ姿が人間に近いため、情が湧いてしまったのだろうか?

 それとも――


(くそっ。なーんか、ムカつくっ)


 力なく廊下に横たわった吸血鬼は、驚くほどに、美しかった。

 顔立ちそのものは男らしいのだが、白い額に乱れた前髪が落ちかかった様や、かすかにひそめられた眉、わずかに開いた唇に、身震いを起こさせるほどの色気がある。


(冗談じゃない! これじゃ、あたしがただの面食いみたいじゃないか。

 強さをもって身上とする、このあたしともあろうものが!)


 そうだ、あたしは、深山の女。

 相手がちょっときれいな顔をしていたからといって、魔物に止めを刺すのをためらったりはしない。

 ただ――あることが、心に引っかかったのだ。

 桜花は、そっと自分の首に触れた。


 背後から首を絞められ、声だけが聞こえてきた、あのとき――

 桜花は、冷酷で残忍な男の姿を想像していた。


 だが、こいつが『詩乃さん』と彼女を呼んだ、あのとき。

 その表情には、残忍さなどかけらもなかった。

 彼は大きく目を見開き、すがるように桜花を見つめていた。

 まるで、よるべない子どものように――


「おっ! 起きるぞ」


 難しい顔で宙をにらんでいた桜花は、俊一郎のことばに、慌てて視線を戻した。

 吸血鬼の男は、薄く目を開け、ぼんやりと天井を見上げていた。

 自分の身に何が起きたのか、よく思い出せない様子だ。

 まあ、あまり思い出さないほうがよかろう。


「おいコラ、おまえ!」


 乱暴に声をかけると、男の視線がゆっくりと桜花のほうを向いた。


 桜花は、ぎくりとした。


「あ……あ」


 視線が合った瞬間、男の顔に、ゆっくりと笑みが広がったからだ。

 信じられないほど嬉しそうな微笑が。


「夢じゃない……」


 音也が、きっとした表情で前に出ようとし、俊一郎に肩を押さえられる。

 ついさっき自分の首を絞めた、その手が伸びてきて、そっと指をつかんでも、桜花は動くことができなかった。


「夢じゃ、ないんですね? こうして、また、あなたに会えるなんて……

 詩乃さん、わたしは、眠りながら、いつでもあなたのことを考えていたんですよ……」


「おい」


 俊一郎がいきなり横手からずいと身を乗り出し、口をはさんだ。


「おまえ。名前は?」


「バシレイオス」


 まだ意識が定かでないのだろう。

 ぼんやりとした口調で答えてから――

 その瞳に、はっ、と正気の光がともる。

 途端に、彼は跳ね起き、ざざっと壁まで後ずさった。


「だ、誰ですっ、あなたがたは――!?」


「誰です、だぁ!? 人の家に断りもなく上がりこんでおいて『誰です』たぁ、ふてえ野郎だ。

 俺は、深山みやま俊一郎しゅんいちろう! 深山家の現当主。

 こっちは、深山桜花。俺の娘だ!」


「こいつは、山猫の音也」


 びしびしと言い放った俊一郎の後から、申し訳のように付け足す桜花。


「オウ……カ? 娘?」


 状況が把握できていない様子の吸血鬼――バシレイオスを見る俊一郎の目に、かすかな哀れみが混じった。


「おまえは、何十年も眠ってたんだ。

 おまえが言ってる深山詩乃は、俺の母親だ。

 ……おふくろは、五年前に、死んだよ」


 それを告げられたとき――

 俊一郎を見返すバシレイオスの表情は、微動だにしなかった。


(あれ……驚かないのか)


 最前の感動ぶりを見ただけに、桜花は、肩すかしを食わされたような、妙な気分になった。

 同時に、少しだけ腹が立つ。

 尊敬していた祖母の死を、軽く扱われたように思えて。


「嘘だ」


「なに?」


「嘘ですよ……詩乃さんが……亡くなった? そんなこと……」


 そこまで呟いて、バシレイオスは、急に口をつぐんだ。

 まるで、自分が考えを声に出していることに、不意に気づいたというように。


 彼は、桜花を見た。

 そのとき初めて、桜花は、バシレイオスの虹彩が小説に語られるように赤いことに気づいた。

 その赤は、限りなく黒に近く、最初に見合ったときにはわからなかったのだ。

 不意に、その目から一筋の涙が流れて、象牙色の頬に透明な線を描いた。


(何だよ!?)


 桜花は、思わず頬を引きつらせた。

 彼女が感じたのは、巨大な気まずさと、不快感だ。

 気まずさは、大人の男の泣き顔を目の当たりにするのが初めてだったからだ。

 そして不快感は、自分を――

 詩乃ではない自分を、否定されたような気がしたから。


「おい、桜花」


「ああ? 何だよ、オヤジっ」


「おまえが決めろ」


「何を!」


「こいつを、処分するかどうかだ」


 桜花と、そして音也が、はっとして同時に俊一郎を見返す。


「俺らが来るまでに、おまえとこいつとのあいだに、何があったかは知らん。

 だから、おまえが決めろ」


「――桜花殿」


 音也が、桜花の手を取った。

 いつもの韜晦した様子は微塵もない、真剣な表情だ。


「どうか、御決断を。

 この鬼を生かせば、将来、必ずや後悔することになりましょう」


「あたしは……」


 この首を絞めあげた、あのときの姿が、こいつの本性だろうか?

 それとも、大切な人の死に涙する今の姿が、本当のこいつなのだろうか?


 祖母は、なぜ、こいつをかくまったのか。


 吸血鬼。

 人の血を吸う鬼。

 もしも、こいつの性質が悪であり、それなのに、誤って生かしてしまったとしたら――?


「どうする、桜花」


「桜花殿!」


 三人の会話に、バシレイオスは、何ひとつ口をはさまなかった。

 彼は黙って壁に寄りかかったまま、抜け殻のような表情で、じっと一点を見上げていた。


「あたしは……」


 理由は、わからない。

 ただ、その表情を見た瞬間、桜花の心は決まっていた。



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