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山猫たち

       *  


 大きな柱時計が、午前2時を打った。


「遅うまで引き止めて、悪かったにゃあ」


「いえ」


 老舗旅館もかくやという立派な玄関の上がりかまちに腰をおろし、前方を睨みつけたまま、俊一郎は唸るように答えた。

 不快である、というわけではない。

 困っているのだ。

 今、ひとりの若く美しい女が彼の足元にしゃがんで、手ずからブーツを履かせてくれている最中だった。


(こんなとこ、桜花に見られたら、間違いなく蹴られるな。「オヤジ、でれでれすんなよっ!」とか言って……)


 もちろん、この女性も山猫だ。

 彼女が器用に紐を結び終えて一礼し、彼女らの一族独特の音のしない歩き方でさがっていったときになって、俊一郎はようやく、詰めていた息をほうっと吐いた。


「今回も、一族の方々による格別の手助けをいただいたこと、重ねがさね御礼を申し上げる。

 また厄介事が持ち上がったときには、いつなりと、使いをよこしていただきたい」


 立ち上がった俊一郎のことばに、玄関先まで見送りに出てきていた老人が、しみだらけの顔を二分しそうな口を開けて、ひゃっひゃっと笑った。


 まだ秋だというのに分厚いどてらを着込んだ、太り気味で、気のよさそうな老人。

 並の目には、そうとしか映らぬだろう。

 だが、この辺り一円の魔物たちは皆、彼の名を聴き、その影を見ることさえ畏れる。

 この老人の名こそ、山猫の九郎次きゅうろうじ


「まっこと、人間の変わりようにはいつでも驚かされるにゃあ。

 詩乃の脚のかげにばかり隠れとったハナ垂れの坊が、このように立派な武人になりゃあるとは……」


(ハナ垂れ言うな)


 俊一郎は顔をしかめた。

 九郎次と顔を合わせるたびに、これを言われなかったためしがないのだ。


「音也殿も、ゆっくりと養生なされますように」


「は」


 九郎次の背後に控えていた傷だらけの若者が、俊一郎のことばに、軽く頭を下げる。


「心配にゃあ及ばにゃあ。いつでも怪我ばかりしょおる奴だが、若ゃあだけあって治りも早い……

 それにしても、今宵はまた、派手にやりおったもんだ」


 九郎次は、意味ありげな目つきをした。


「そう……ときに、俊一郎殿。あの件については、考えておいてくれたかにゃあ?」


 来たか。

 俊一郎は、曖昧に唸った。


「おみゃあさんの娘御……最近は、あまり顔を合わせる機会もにゃあが、たいそう美しゅうなられたそうじゃにゃあか?

 侍のように気位が高く、恐ろしいほどの力を持ち、今宵も見事な腕前で、あの猿と渡り合われたとか……」


 九郎次がにんまりと目を細め、声を低くする。

 ごろごろという湿った音が混じった。


「音也は、しんから娘御に焦がれておるのだにゃ。娘御さえ承知なら……」


「伯父貴」


 音也が俊一郎の表情をうかがい、九郎次を小さく制止する。


「にゃあに、先例のにゃあことじゃあにゃあ。おみゃあらは知らにゃあだろうが、昔ゃあ、たびたびあったことだにゃ」


「ううむ」


 父親として、俊一郎の心は決まっていた。

 だが、山猫の一族との関係にきずをつけぬようにするためには、それを伝えるにも細心の注意が要る。

 ややあって、彼は笑顔で顔を上げた。


「無論……新しい絆が結ばれることは、深山の家にとっても喜ばしい限り。

 しかしながら、やはり、こういう事柄に関しては、本人の心を知らぬことには、何とも。

 なにぶん、あれは、ひどくおくてで。こちらから水を向けても、素直に答えるかどうか――

 怒り狂って、蹴とばしてくるかもしれん」


 九郎次はぽかんとし、次には、大口を開けてひゃっひゃっひゃっと笑った。


「けっこう、けっこう! 実に元気で、けっこうなことだにゃあ」


 わはははは、と調子を合わせて笑いながら、俊一郎は内心、胸をなでおろした。

 音也も、心なしかほっとしたような表情だ。


 婚姻の絆をもって、一族と一族とを結び合わせる。

 確かに、昔は人間同士のあいだでも普通に行われてきたことだ。

 だが、政略結婚の駒のように扱われることに、あの桜花が我慢できるとはとても思えない。

 今回も先に帰しておいてよかった、と俊一郎は心から思った。

 こんな場で本人が暴れ出したりしたら、洒落にもならないではないか。


「その件については、また、おいおい。それでは失……おっと!?」


 俊一郎は思わず飛び上がった。

 出し抜けに、玄関の扉にどすんと外から何かがぶつかり、わずかに開いた隙間から、小さな影が飛び込んできたのである。

 それは、俊一郎の足元を縫うようにして走り、九郎次の脚にぶつかって止まった。


 もんどりうって転がった姿を見れば、小柄な三毛猫だ。

 三毛猫は九郎次を見上げ、何かを報告するようにしきりに鳴き立てた。

 それを聴いた九郎次と音也が、さっと顔色を変える。


「何事だ!?」


 鋭く問いかけた俊一郎を、九郎次が、目を上げて見た。

 俊一郎は、ぎょっとした。

 木々のごとく年経り、ほとんどいつでも眠たげに下ろされている九郎次のまぶたが、今はカッと見開かれている。


「坊……こちりゃあ、稲盛いなもりのお山の眷属だ……」


 稲盛山――

 トンガリ山の正式名称だ。

 心臓を、冷たい手でつかまれたような気がした。


「何があった!?」


「稲盛山に、詩乃しのが飼っとった……あの、鬼」


 白く濁った老山猫の目に、今、紛れもない恐怖の色があった。


「あれが……目を、覚ましおったと……」


 それを聞いた瞬間、俊一郎はものも言わずに玄関を飛び出し、ジープに走っていた。


「俊一郎殿、わたくしも!」


「よし、乗れ!」


 音もなく追い付いてきた音也が助手席に飛び乗るやいなや、おんぼろジープはけたたましいタイヤ音を響かせ、白煙を上げて急発進した。



        * 



 自室のある2階から慎重に階段を下り、桜花は、一階の廊下をそろそろと進んでいた。


(どこだ? どこだ? どこだ?)


 暗闇に包まれ、沈黙のなかで意識を研ぎ澄まして、周囲の気配を探る。

 一階は、玄関灯のわずかな光をのぞけば、ほとんど完全に真っ暗だった。

 だが、桜花はあえて明かりをつけることをしなかった。

 今、下手に照明をいじれば、それによってこちらの位置を悟られてしまう。

 それとも、すべては無駄な努力で、すでに気付かれているのだろうか――?


 桜花は、目を閉じた。

 規則正しく呼吸をし、波立つ心を無理にでも静かにする。


 感覚が解き放たれた。

 激しいノイズの海を突き抜け、夜の湖面に広がる波紋のごとく、あまねく平坦に広がってゆく。

 その中心に立つ自分は、さながら巣の中心に座した蜘蛛――


(後ろか!?)


 感じると同時に、身体が動いている。


飛燕斬ヒエンザン!」


 闇を切り裂き、桜花の手から光刃が飛んだ。

 投げナイフのようにきらめいた光は、しかし、カッと乾いた音をたてて台所の入り口の脇を切り裂いただけだった。


(今度はッ!)


 逆方向。

 唸りをあげた刃が、これもむなしく空を切る。

 疑心暗鬼が感覚を狂わせているわけではない。

 確かに、何かがいる・・

 だが、桜花の能力をもってしても、その動きを補足しきれないのだ。


(くそ! くそ! 何だ?)


 敵の姿を求めて、瞳が左右に激しく振れる。

 わきの下にじんわりと汗がにじんだ。

 焦りと、それを上回る恐怖に集中が乱れる。

 このままでは、技が使えない。


 目の前に姿をあらわした敵ならば、それがどれほど凶悪なものであろうとも、対処する自信がある。

 だが、さしもの桜花も、目に見えぬ恐怖にこれ以上さらされることには、神経が耐えられなかった。


「誰だ!?」


 とうとう、怒鳴る。


「遊んでるんじゃねえ! いるってことは、わかってるんだ……姿をあらわせ!」


「ずいぶんと、口が悪くなったな」


 男の声は、桜花の真後ろ、ほんの数センチから聞こえたように思えた。

 その瞬間の桜花の行動は、プロの兵士も顔負けのものだった。

 敵の位置を把握した刹那、1秒も迷わず、振り向きもせずに、渾身の肘打ちを叩き込む。

 肘の先が肉にめり込む感触!

 決まった!


「飛燕斬ッ!」


 身をひるがえしざま、容赦なく光刃で斬りつける!


「だが、変わらず花のようにみずみずしく……」


 桜花は、目を見開いた。

 笑みを含んだことばとともに、背後から腕が伸びてきたのだ。

 それは一瞬で桜花の首に巻きつき、呼吸を奪うほどの強さでぎりぎりと絞めあげてきた。


「そして、研ぎ澄まされた刃のように、美しい」


(やべ……!)


 正体不明の男のたわごとなど、桜花は聞いていなかった。

 目の前が急速に暗くなる。

 このままでは、数秒ともたずに意識を失う。

 集中どころではなかった。

 必死に身をよじったが、首に巻きついた腕は、まるで鋼鉄の万力のようにびくともしない。


(くそ!)


 空しくもがきながら、桜花がついに暗闇の淵に沈もうとした、そのとき――

 出し抜けに、耳元で、濁った呻き声があがった。

 知らない声。

 今にも泣き出しそうな、男の声。


「い、嫌だぁ……っ! 私は――」


 その瞬間、首を絞めつけていた腕の力が緩んだ。


 理由はわからなかった。

 だがそんなことはどうでもよかった。

 ただ、生存本能と、戦士の反射が身体を動かす。

 思い切り息を吸い込みながら、男の腕をひっつかみ、ぐるりと返して関節を極め――


「ォおおおおおりゃあッ!」


 掛け声一発、背負い投げをかける!

 男の身体が、見事に宙を舞った。

 激しい音を立て、背中から廊下に叩きつけられる。


「飛え……ッ!?」


 今しも必殺の一撃を繰り出そうと振り上げた桜花の手が、ぴたりと止まった。


(こいつが?)

 

 そいつは――若い、男だった。

 桜花と同じくらいか、ほんの少し年上にしか見えなかった。


 いや、違う。

 こいつは、人間ではない。

 見た目の姿など、あてにはならない。


「ア……ウウ……」


 床に倒れ、短く整えられた黒髪をかきむしるようにして苦しんでいる。

 その手も、顔も、象牙のように白い。

 全身を覆う、鴉のように真っ黒なコートと好対照だ。


 誰だ、こいつは?

 そして、突然のこの苦しみようは一体?

 あの肘打ちをまともに食らってさえ、平然としていた奴が――


「おい!」


 油断なく身構えたまま、桜花は鋭い口調で誰何した。

 相手が少しでもおかしな動きを見せれば、即座に光刃を突き立てるつもりだ。


「何者だ、おまえは!? どうして、あたしを襲った!? ……答えろ! 片脚ずつ、順にぶった斬られたいのか!?」


 怒鳴り声に反応したのか、男のまぶたがひくつき、ゆっくりと開く。

 不安定に揺らぐ眼差しが宙をさまよい――

 そして、桜花の顔をとらえた瞬間、その目が大きく見開かれた。


「……詩乃さん!?」


「はぁ? 詩乃――ってッ!?」


 ものすごい速度で接近するエンジン音と甲高いタイヤの擦過音とを認識した瞬間、桜花は反射的に男の襟首を引っつかみ、渾身の力でその場から跳び退いた。

 同時、凄まじい音を立て、玄関の扉が内向きに吹っ飛ぶ。

 倒れた扉をばりばりと轢き潰しながら上がり框に乗り上げてきたのは、見慣れたジープのボンネット――


「桜花アアァァァ!!!」


 次の瞬間、運転席から俊一郎が、そして、助手席から巨大な山猫が躍り出た。

 音也が稲妻のように黒コートの男に跳びかかり、肩口に喰らいついて床に引き倒す。

 時を移さず駆け寄った俊一郎が、阿修羅の形相で右腕を振りかぶった。


「こンの、クソ吸血鬼があっ! 娘に何をしたああああっ!?」


(吸血鬼!?)


 はっと我に帰ると同時、男の弱々しい苦鳴が耳に届いた。


「喰らえ! 妖・滅・砲オオオオォ!」


「――やめろおっ!」


 ずぅん、と重い物音。

 築百年の深山家が、大きく揺れた。



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