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16歳

 生活の気配はあるのに、家の中は、まったくの無人だった。

 それでは、彼女たちもまた、狩りに出ているのだろうか? 


 いいだろう。待つことは苦痛ではない。

 餌食たる人間たちが、ひとひらの枯葉にしがみつく虫けらのように『時間』というものに固執し、短い人生の1分1秒も無駄にしまいとせかせか動き回るのを、彼はいつでも滑稽だと感じてきた。


 時の流れなど、彼にとっては意味を持たぬ。

 生きるということは、まるで暗い岸辺に佇み、延々と続く大河の水面を眺めているようなものだ。


 ただ一切は来たり、そして過ぎ行くのみ――


 孤独を感じたことはない。

 ただ、無為だった。

 凄まじい無為。

 アルコールも、麻薬も慰めにはならぬ。

 この空虚感を紛らわすことができるものは、狩りの興奮、そして、獲物の血が喉を滑り落ちる瞬間の恍惚感をおいて他にはなかった。


 彼は初めての場所に連れてこられた猫のように、忍びやかに家中を歩き回り、そこらじゅうにあふれる奇妙な機械類を仔細に眺めた。

 見たこともない品物がたくさんあった。

 家の造りこそ変わっていないが、家具の種類も、配置もかつてとはまったく異なっている。

 そのために、まるで知らない家のように見えた。

 冷蔵庫を開け、流れ出た冷気に鼻先をくすぐられて、彼はくっくっと笑った。



        * 



 ――THU 02:07


「くそっ! 結局、こんな時間か……」


 カーディガンの袖をずらして腕時計の表示を確かめ、桜花は小さく毒づいた。 

 深山家は、町内の人々には「トンガリ山」という愛称で親しまれている山の、ちょうど五合目付近に立地している。

 複雑に折れ曲がる険しい山道は、途中から舗装もされておらず、分岐点をひとつでも間違えれば山中を延々とさまよう羽目になる迷い道だ。


 だが、日々、行き来する身にとっては、勝手知ったる通り道だった。

 夜の闇のなかでさえ、迷う気遣いはない。


 大きな岩を乗り越えた拍子に、膝上の傷がうずき、桜花は小さく呻いた。

 車のなかで鎮痛剤を飲んだのだが、どうも効きが悪いようだ。


(また、傷が増えちゃうな。まあ、顔じゃなかっただけ、マシか……)


 女親がいれば、心配したり、慰めてくれたりするものかもしれない。

 だが、桜花の母は、彼女の誕生とほぼ時を同じくして他界していた。

 俊一郎は、といえば、ぽん、と肩に手を置いて『傷は男の勲章だ』などとぬかしてくるようなトンチキなので、話にならない。


 桜花の全身には、すでに無数の傷跡が走っていた。

 そのほとんどが、戦傷だ。

 深山家秘伝の傷薬によって、かなりの深手もごく薄い痕が残るだけですんでいたが、魔物との戦いをはじめたばかりのころには、十数針も縫うほどの大怪我を負わされたこともある。

 そう、そのために、自らの運命を嘆き、恨んだこともあった――


 深山一族。

 人の身で、人ならざるモノに抗し得る力を持つ者たち。


 単に魔物を狩ることが、その使命ではない。

 深山一族は、いわば「調停者」であり、十数代にもわたって、ヒトと、ヒトならざるモノたちとの関係に折り合いをつけるべくつとめてきた。


 一部の魔物たちとは、盟友のあいだがらを保っている。

 今、俊一郎があいさつに行っている『山猫の九郎次きゅうろうじ』がその代表だ。


 九郎次は、この付近一帯の人間社会にとけ込んだ魔物たちのまとめ役であり、百十数年の長きにわたって深山一族に力を貸し続けていた。

 魔物たちの存在が決して表に出ることのないよう目を光らせ、目立つ行動をとる者には釘を刺し、そして、行き過ぎた非違をなす者があれば、今回のように、俊一郎や桜花たちに依頼をよこしてくる。

 戦いになるのは、そんなときだ。


 昔は、山猫からの手紙――うねうねとのたくる文字でつづられた出動要請が来るのが、本当に嫌だった。

 それでも、桜花は、戦いから逃げることはなかった。


『桜花さん。身体の傷は、どんなものもいつかは治ります。

 けれど、戦いから逃げて、誰かを見捨てれば……

 その心の傷は、一生、消えることはないでしょう』


 祖母――詩乃のことばが、いつも、桜花の背中を押した。


『花のごとく、また、刃のごとし』


 かつて、九郎次が詩乃をさして言ったことばだ。

 幼かった桜花は九郎次のことが嫌いだったが、これにばかりは心から納得して、深々と頷いたものだった。

 詩乃は、優しさと厳しさをかねそなえ、そして強い女性だった。

 5年前に、癌で亡くなるそのときまで、彼女の凛とした雰囲気が損なわれることはなかった。


(詩乃ばあちゃん……

 あたしは……ばあちゃんみたいに、なれるのかな)


   ワタシノ、子ヲ、カエセ――


 徹底的に洗い落としたはずの血の臭いが鼻孔によみがえり、桜花は顔をしかめた。

 あのとき……心ならずも「感じ取って」しまったのだ。

 人間の子どもを四人も攫い、食い殺した魔物猿――

 人間が森を開発したことによって住処を奪われ、我が子を殺された恨み。

 復讐に燃える心の背後に透ける、巨大な絶望、そして喪失感を――


(刃のように……夜の闇のなかでも、迷いなく、まっすぐな道を歩いていけるのかな……)


「どわぁっ!」


 ぼうっとしていると、いきなり、うねくる木の根に足をとられて転びそうになった。

 辛うじて踏みとどまり、歯を食いしばって脚の痛みをこらえる。


 10分後、桜花は、無事に我が家へと帰りついていた。

 客などほとんど来たためしがないのに、純和風の広い庭は、いつでも見事に手入れされている。

 俊一郎の趣味なのだ。


(何だ?)


 玄関の鍵穴に鍵を差し込もうとした瞬間、奇妙な感覚が背筋を撫でた。

 反射的に五感の感度が跳ね上がり、投網のように意識が展開する。

 周囲一体をくまなく探り、異変の正体を見極めようとした。

 だが、何も、捉えることはできない。


「気のせい、か?」


 声に出して呟き、桜花は首をひねった。


 玄関に入ると、たたきに脱いだ靴を揃えもせず、明かりもつけずにどかどかと廊下を直進する。

 洗面所で手を洗い、うがいをし、だだだだだと階段を駆け上がり、襖を開け放って――


「はあああぁーっ……疲れたッ!」


 部屋の明かりをつけるが早いか、桜花はカバンを放り出し、部屋のど真ん中に置かれた巨大なクッションに全身でダイブした。


「痛えッ!」


 膝下の傷に走った痛みに、反射的に叫んでから、


「うーん」


 クッションの、ふわふわの肌触りに頬ずりをする。

 至福のひとときだ。


(あー……そうだ、オニデの課題……)


 最前までの緊張の反動で、もはや、何もやる気がしなかった。

 ――というより、今からでは、たとえ徹夜でやっても終わらないような気がする。


(ま、いいか。明日の三限目までに、ミナに写させてもらうってことで)


 実は、最初から、半分以上そのつもりだったのだが。


 桜花はクッションに腹這いに乗ったまま、のっそのっそとゾウガメのごとき匍匐前進でカバンに近付き、美奈に渡された雑誌を何冊か取り出した。

 適当に手に取り、ぱらぱらとめくってみる。

 流行の服に、きらびやかなアクセサリー、高価なバッグ、香水、新しいカフェ、賢い貯金術、旅行のプラン、ボーイフレンドへのプレゼント――

 どのページにも、モデルたちの笑顔があふれていた。

 桜花と同じくらいの年齢の女子たちだ。


(ミナもそうだけど……この子たち、ほんとに可愛いよな。

 きっと、男子にめちゃくちゃモテるんだろうな……)


 美奈には強気なことを言ったが、やはり、桜花も年頃の娘。

 恋愛というものに対する憧れが、まったくないというわけではない。


 だが、心の奥底に絡みつく鎖が、いつも彼女を縛っていた。


(あたしは、深山家の、次の当主となる者――)


 祖母である詩乃は、17で婿をもらった。

 俊一郎は、今は亡き母、雪菜ゆきなと22歳で結婚した。

 いずれも、深山一族と同じような《力》を伝える旧家からの婿入り、嫁入りだ。


(いつか……あたしも《力ある者》を夫に迎え、深山の血統を守る……)


 その意識こそが、桜花を恋に対して慎重に、かたくなにさせてきた。

 いつか、決められた相手と一緒になるなら、他に情をかける者などいないほうがいい。

 遊びは遊び、と割り切ることができるならいいが、自分がそれほど器用な性格でないことは、自分が一番よくわかっている。


 だが、そう。

 恋愛というものに対する憧れが、まったくないというわけではない――


(音也、か)


 深みのある声と、肩に置かれた指の感触とをぼんやりと思い浮かべて、桜花は溜め息をついた。

 生まれて間もない頃から、何度となく顔を合わせ、幾度もの戦闘を共に戦い抜いてきた、山猫の男――


 いつからだったろう?

 彼が、自分に色目を使ってくるようになったのは。


(しかし……いくらなんでも、あたしみたいなもんまで口説くか? 多分、もう、癖になってるんだな)


 本気だなどとは、もちろん思っていない。

 音也は、桜花より50歳近くも年長で、その美貌ゆえに、数え切れないほどの人間の女性と浮名を流してきたという男だ。


(ホストクラブのバイトで、いくらでも大人の女の相手ができるのに。

 なにも、あたしみたいな、目つきが悪くて色気がなくてことばづかいが乱暴でガサツな女にまで声をかけなくたって……って、やばい。自分で言ってて、ちょっとヘコんできた……)


 桜花は思わず、遠い目をして溜め息をつき――

 不意に、その表情がこわばった。


(何だ?)


 さびしげな少女の顔が一瞬でかき消え、油断のない、鋭い光が瞳にともる。


(やっぱり、気のせいじゃない! 何か……いる)


 この家のなかに、何かがいる。

 16年の歳月のなかで磨き上げられ、研ぎ澄まされてきた、直接目で見、耳で聞かずとも敵の存在を感じとる力。

 その感覚が、異質で、とらえどころのない何かの気配を察知していた。

 それは、まるで、暗い夜に手探りで蝶を追うような感覚。

 捕らえようと手を伸ばすたびに、するりと逃れてゆく――


(挑発……挑戦? さっきの猿の仲間か? 仲間をやられて、報復に来たっていうのか……?)


 ならば、対処法は決まっている。

 すなわち――『やられる前にやれ』。


 桜花はすっくと立ち上がると、音もなく襖を開けて、廊下の暗がりに滑り出ていった。




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