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狩るモノ、狩られるモノ

 わずかばかりの月明かりの下、腕時計の表示を見下ろす。


 ――WED 22:35


(遅い……)


 すでに1時間半も、この場所で待っているということになる。

 ざあっと夜半の風が吹きぬけ、木々の枝葉を騒々しくかき鳴らした。

 周囲365度で、狂ったように影が踊り回る。


 桜花は、微動だにしなかった。

 あらゆる影と物音に対して過敏に反応し、いたずらに神経をすり減らすような段階は、ずっと昔に通り過ぎている。


「遅いな」


 今度は、声に出して呟いた。

 今、桜花がいる場所に、彼女以外の人間は誰もいない。


 県境にほど近い、山の中腹。

 家から遠く、勝駒高校からはさらに遠い。

 法定速度をぶっちぎって車を飛ばしても、1時間以上はかかる場所だ。

 周囲は、鬱蒼とした針葉樹の森におおわれている。

 天然の森ではなく、人間によって植林されたものだが、今では人の手が入ることもなく荒れ果てていた。


 そんな森のど真ん中――

 樹齢数百年はありそうな、巨大な倒木の上に、桜花はいる。

 いまや、彼女は高校の制服を着てはいなかった。

 背中に龍のエンブレムが鋲で打たれた、くたびれ、擦り切れた革のジャケット。

 Tシャツにレザーパンツ、編み上げのブーツという服装が凄味を醸している。


「もう、さっさと帰って寝たい……」


 おっさんのようにぼやいた桜花に、傍らから、ククククと抑えた笑い声があがった。

 ここには、桜花以外の人間は誰もいない。

 ――人間、は。


「今宵の桜花殿は、あまりご機嫌がよろしくないようで」


 妙に気取った声でそう言ったのは、桜花と並んで倒木に腰を下ろした若い男だった。

 高価そうなスーツを無造作に着崩し、金髪を後ろに撫でつけている。

 その顔立ちは、10人、女がいれば5人はふらふらと寄っていき、あとの5人はあんぐりと口を開いて見惚れるであろうというくらいに整っていた。


「昼の渡世で、何ぞ、気に入らぬことでもございましたかな?」


「別に」


 容貌にそぐわぬ古風な言い回しでたずねてくる男に、桜花はそっけなく言い返した。


「それより、音也おとや。おまえ、ずっとその格好で疲れないか?

 に戻っとけばいいのに」


 音也と呼ばれた男は、ありえないほどに大きな犬歯を見せてにいっと笑った。


「桜花殿は、こちらのほうがお好みかと思いまして」


「おまえ、それ……完全に、ホスト根性が染み付いちゃってるだろ」


 思わず半眼になって、桜花。


「いつも思うんだけど、毎回、よく出てこられるよな? ホストの仕事は、夜が本番だろ。

 こんなふうに抜けて、店長に文句言われたりしないのか?」


「言わせませんよ」


 こともなげに答え、流し目をくれる。

 その目は琥珀の色で、瞳孔が縦に長い。


「桜花殿も、ぜひ一度、店の方にお運びを。わたくしが酔わせてさしあげます」


「あんま、バイトに力入れすぎんなよな……九郎次きゅうろうじ御大おんたいにどやされるぞ?」


 桜花はげんなりとして視線を転じ、闇の彼方に目を凝らした。


 無論、彼女たちは、単なる酔狂でこんな場所に1時間半以上も座っているわけではない。

 待っているのだ。味方を。

 ――そして、敵を。


「ふわぁああああああ」


 緊張感のない大あくびをひとつして、桜花は、ぐるりと肩を回した。

 放課後のベンチであれだけ熟睡したにもかかわらず、まだ眠い。

 さっさとケリをつけなくては、明日に響いてしまう。

 ただでさえ「授業中にしょっちゅう爆睡する」「課題をきちんとやってこない」というかどで、先生たちに目をつけられているというのに――


(ん? ……か、課題?)


 ざあっ、と顔から血の気が引いた。

 そういえば、先週、何か、数学の課題が出されていたのではなかったか。

 提出期限は――まさか?


「や……やっべー! 明日!? 忘れてたぁッ!」


 音也が驚くのにも構わず、立ち上がって喚く。

 数学Ⅱの尾出先生は「オニデ」とあだ名されるほどの厳しさで名高く、課題未提出者には絶対に容赦しない。

『定期と財布を忘れても、オニデの課題は忘れるな』という格言が代々伝えられているくらいなのだ。


「いかがなさいました……?」


「か、課題が! 白紙……!? オニデにぶっ飛ばされる! やべぇ! マジで早くしないと……!

 ていうか、まさか標的はとっくに逃げて、オヤジたちはどっかで道に迷ってるとかいうオチじゃないよなっ!?」


「弟たちもあちらにおりますゆえ、取り逃がす気遣いはないかと……」


「それならもっと……ッ!?」


 風が、囁いた。


 桜花は一瞬で口をつぐみ、目を閉じる。


 暗闇――

 そして、次の瞬間。

 圧倒的な光と音の洪水が襲いかかってきた。

 まるで、数億のフラッシュとノイズの渦に放り込まれたようなものだ。


 彼女に類する素質を持って生まれる者は、人間のなかには、決して多くはない。

 そして、さらにその大半が、この段階で脱落してゆくという。

 人間のあらゆる感覚を圧倒する、この暴力的な体験に耐えられないのだ。


(どこだ? どこだ? ドコダ?)


 光と音の嵐のなかで砕けて吹き飛びそうになる自我を、桜花は鋼のような意志の力で保った。

 集中が高まるにつれて、誰かがボリュームのつまみを回しでもしたかのように、不要な雑音がひとつ、またひとつと静まってゆく――

 やがて訪れる、凪。

 澄明な宇宙に瞬く恒星のごとく、必要な情報の響きだけが残される――


 そう、響きだ。

 あるいは、光のきらめきと揺らぎ。


 桜花は「そこ」へと意識を凝らした。

 瞬間、無限の暗黒の彼方から襲いかかる稲妻のように、鮮明なイメージが跳ね返ってくる。


 乾いた枯葉を踏み砕く、無数の足音。

 凄まじい速さで近付いてくる。

 重なり合う唸るような息遣い、鋭い爪が木肌を削る音。


 風……汗のにおい。

 血のにおい。

 戦闘の昂揚、混乱、恐怖、使命感、怒り、憎悪、憎悪、憎悪――


 ユルサナイ、コロス、コロスコロスシネシネシネシネシネシネ――


 ――カエセ。

 ワタシノ、子ヲ、カエセエエェッ!!!



(まずい!)



 弾き飛ばされるように、桜花は目を見開いた。

 一瞬の、浮遊感。

 足場が定まらない。

 彼女はよろめき、激しく首を振った。


「桜花殿っ!」


 音也の叫びが耳を打ったとき、頭上の枝のあいだから、巨大な影がなだれ落ちてきた。

 桜花は、ためらわなかった。1秒も。


「――飛燕斬ヒエンザンッ!」


 倒木の幹を蹴りつけて跳び退りつつ、影に向けて、右腕を振るう!

 その指先から、一条の光が――まばゆい鎌の刃のごとき光が一閃し、影をとらえた!

 血がしぶき、甲高い絶叫があがる。


 深山一族に、その血脈とともに受け継がれてきた秘技。

 大気に満ちる《光》を凝らし、刹那の刃と化して敵を斬る。

 人間離れした体技と、凄まじい集中力が要求される技だ。

 実戦で役立てようと思えば、技の名を叫ぶと同時に条件反射で集中が完了するまでに修行を積まねばならなかった。


 桜花の技の名は《飛燕斬》――

 その太刀行きの速さから、祖母が与えた名だ。

 直撃させれば、岩どころか鋼鉄をも両断する。

 だが。


(浅い!)


 桜花は舌打ちしながら着地し、同時に、敵の姿を見た。


「それ」は――白い猿に、似ていた。

 だが、猿ではない。

 普通の猿は、人間よりも巨大な体躯など持ってはいない。

 長さが包丁ほどもある凶悪な爪も。

 般若のような顔に爛々と光る、凄まじい怨念に満ちた目も――


「おまえかっ、子ども殺しはっ!?」


 桜花が怒鳴った瞬間、耳をつんざく高音で魔物猿が絶叫し、まっすぐに飛びかかってきた。

 その肩口から、血が滴っている。

 鋭く湾曲した鉤爪が、桜花の喉下を狙う。


 彼女は、退かなかった。

 逆に、前方に身を投げ出したのだ。

 肩口から地面に飛び込むように爪の攻撃をかいくぐり、すれ違いざま、生み出した光刃で敵の足首を切り裂く!

 絹を裂くような悲鳴とともに、魔物猿がどうっと転倒した。


(やった……ッ!?)


 息が、止まる。

 反射的に跳び退いた自分の左膝の真上を、真横に振り抜かれた鋭い爪の先端が削り、血の滴が飛び散るのを桜花は見た。


 片脚を失ってなお、魔物猿は戦意を喪失していなかったのだ。

 四つん這いになり、残った脚と前腕だけで身体を支えている。

 その爪の一本が、わずかに桜花の血に染まっている。

 目はぎらつき、狂気に憑かれているかのようだ。

 もはや、痛みすら感じていないのか。


 ぱあん、と魔物猿が飛んだ。

 身長よりも高い跳躍。

 桜花は見上げた。

 月明かりに爪が光った。

 一瞬後には、振り下ろされる――


(くそっ!)


 両手を突き出す。

 間に合うか。

 間に合わない――


 不意に、桜花の傍らで獰猛な唸り声が響いた。

 忽然と姿をあらわした金色の獣が疾風のごとく地を蹴り、魔物猿に飛びかかっていったのだ。

 それは、ふたまたにわかれた長い尾を持つ、巨大な山猫――


「音也!」


 2頭の妖獣は宙でぶつかると、もつれ合って地面に落ち、激しい組み打ちを始めた。

 牙で喰らい合い、爪で引き裂き合う。

 山猫――|音也の金茶色の毛並みに血しぶきが飛び散り、体毛の斑と交じり合った。


「くうっ」


 左足の傷が疼き、桜花は呻いた。

 だが、浅い。動ける。

 足を引きずり、立ち上がった。


 2頭の妖獣の戦いは、まったく五分のまま続いていた。

 ――いや、違う。

 体格の差で、わずかずつ音也が圧されつつある。


 生温かい液体が、桜花の頬にまで跳ねかかってきた。

 苦痛と、それを上回る興奮の唸りをあげながら、音也は敵を引き裂くことに熱中している。

 自分自身の肉体が傷ついていることにすら、まるで気付かぬように――


 「音也ァ! 離れろ!」


 桜花は怒鳴り、意識を凝らした。

 世界の様相が、変わる。


 今、桜花の目に映る世界は、蒼白い《光》の粒子の粗密。

 桜花の意思に応え、その手のひらのあいだに《光》が集中した。

 極端に密度を増した《光》は、ストロボのように強烈な輝きを放ちはじめ、やがて、並の目でさえ捉えることができるほどになる。


「おおおおぉぉぉぉ……ッ!」


 2頭の妖獣の血走った目が、同時に桜花に向けられた。


「どけっ、音也アアアァッ!」


 少女が刃を振り下ろした瞬間、山猫の若者は血を流しながら跳び退った。


「大・飛燕斬ッ!」


 そして爆発のごとき閃光!


(――外したかっ!?)


 桜花は、目を見開いた。

 必殺を期した一撃は地面を直撃し、山腹を数十センチ近くも抉った。

 だが、そこに敵の姿はなかった。


(くそ!)


 身体が冷える。

 このような戦いのなかで敵を見失うことは、すなわち死。

 桜花は、それでも反射的に身体をひねり、せめて相打ちに持ち込もうと敵の姿を探し求めて――


「……なーにをやっとんだ、桜花?」


 その呆れたような声を聞いたとたん、彼女は、びしりと固まった。


 一体、いつからこの場にいたのか?

 スキンヘッドにひげ面の筋骨隆々たる巨漢が、気楽そうな態度で近くの木に寄りかかり、桜花たちを眺めていた。


 その足元に、魔物猿の白い巨体が倒れ伏している。

 ぴくりとも動かなくなったその身体から、月明かりの下でほとんど黒く見える液体が流れ出し、急速に地面に広がりつつあった。

 

 巨漢の背後には、双子のように似た若者が2人、激しく肩を上下させながら立っている。


「オヤジ! ……三日夜みかや時矢ときや!」


「おう」


 巨漢――桜花の父、深山みやま俊一郎しゅんいちろう――の手から伸びていた光の刃が、ぽうっと弾けて蛍のように宙に散り、消える。


 彼はぐわっと豪快に笑い、片手を挙げた。


「待たせたなっ!」


「待たせたなっ、じゃねえええぇーッ!」


 斜面をダッシュで駆け下りた桜花のドロップキックが、俊一郎のスキンヘッドに、ものの見事にめり込んだ。


「オヤジーっ!

 こーんなデカザル一匹追い込むだけの仕事に、どんだけ時間喰ってんだっ!?

 こっちは、オニデの課題がかかってるんだよっ! 

 しかも、後から現れて、おいしいとこだけ持っていきやがって! 

 オヤジのくせに、娘の顔を立てるってことを知らんのかーっ!?」


「痛てててててて! すまんすまんすまん! 蹴るな!」


 と、派手な悲鳴のわりには大したダメージもない様子で、むっくりと起き上がってくる俊一郎。


「いやあ、悪かったな。

 途中でいったん引き離されて、もうちょっとで、完全に見失うとこだった。

 正直、三日夜と時矢の俊足がなけりゃ、やばかったわ。

 やっぱ、若いと違うな!」


「若いって……ふたりとも、オヤジより年上じゃないか……」


 呟いて、桜花はふたりの若者――に、見える――双子の山猫、三日夜と時矢を見つめた。

 彼らは黙って音也に近付き、肩を貸している。


 音也は、いつの間にか再び人間の姿をとっていた。

 彼はしきりに顔をこすり、手に付いた血を舐め取っていたが、桜花と目が合うと、申し訳なさそうな顔をした。


「面目次第もございません。桜花殿に、よいところを見せようと思ったのですが」


「張り切りすぎてケガされちゃ、こっちが困るんだよ……

 色男の顔に傷をつけちゃ、九郎次の御大に、申し訳が立たないからな」


「過分なおことば、光栄ですな」


(こいつ「色男」ってとこだけ聞いたな……)


 どちらかといえば文句を言ったつもりだったのだが。


「まあ……ありがと。あの加勢は、助かったよ。

 ――ってぇ!」


 気が抜けた瞬間に、痛みが襲ってきた。

 だが、しゃがみ込むことはしない。

 身体を丸め、拳を固めて耐えた。

 俊一郎が、慌てたように叫んでくる。


「あ、おまえ! ケガしてるじゃねえか!」


「いや……大したこと、ないよ。

 奴の爪が、ちょっとかすっただけ――!?」


 桜花は、ぶつ切りにことばを切った。

 不意に、音也が桜花の足元にひざまずいたのだ。

 彼は無言のまま、桜花の脚に手をかけると、傷口に口を寄せ、丁寧に舐め始めた。


 父と娘は、思わず硬直したまま、無言で視線を交わし合い――


「な、な、な、何、してるっ!? ンなこと、しなくていいっ!」


 桜花は、慌てて音也の頭を押し戻した。

 顔が真っ赤になっている。

 俊一郎のほうも頭のてっぺんまで真っ赤になったが、こちらは意味合いが違った。


「ゴラァ! 音也、てめぇ!

 父親に断りもなく娘の脚に触るたぁ、どういう了見だッ!?」


「しかし、手当てをしなければ」


 音也は、平然としていた。

 山猫の一族にとって、仲間の傷を癒すすべは舐めることだ。

 ――確かにそうなのだが、音也の場合、本気なのか、それとも狙ってやっているのか判然としない部分があった。


「応急手当のキットなら、ちゃんとジープに積んであるんだよ!

 桜花、任せろ。傷は、父さんがばっちり縫ってやる!」


「それも断固として断るッ! だいたい、そんな重傷じゃない! 自分で歩けるし」


「とにかく、早いとこ、ジープまで戻るぞ」


「ああ……」


 桜花はうなずいて、倒れた敵に目を戻した。


「4人も、殺されちゃったけど……これで、やっと、神隠し騒ぎも終わる……」


 魔物猿の死骸は、急速に腐敗しはじめていた。

 通常の自然の法則から外れた生命のつけが一気に回ってきたかのように、たちまちのうちに爛れ、崩れて溶けてゆく。

 5分も経てば、それが元は何であったのか、判別することは誰にもできなくなるだろう。

 最後まで残っていた眼球がひとつ、ぐるりと動き、それから糸を引いて地面に流れ落ちていった。


   ワタシノ、子ヲ、カエセ――


 悪臭を放つ煙をあげる魔物猿の死骸をじっと見つめていた桜花の肩に、ぽん、と俊一郎の大きな手が置かれた。


「桜花、帰るぞ」


「……ああ」


 小さく頷き、俊一郎の背中を追う。


「俊一郎殿。今宵も、わたくしどもの屋敷にお寄りいただけますでしょうか?」


 音也が言った。


「九郎次の伯父貴が、ぜひとも、おいでいただくようにと」


「ああ、そうだな。寄らせてもらおう。

 ……桜花、おまえは、どうする?」


 問われて、桜花は慌てて片手を振った。


「悪いけど、あたし、課題があるんだ。

 早く帰って仕上げないと、明日、オニデに強制居残りさせられる……」


「そうか」


 俊一郎は、大きな肩をすくめてみせた。


「仕方ないな。残念だが、今回もパスか。

 交差点のとこから、ひとりで帰れるな?」


「うん」


 一同がジープを停めた林道までたどり着いたのは、それから40分近くも経ってからのことだった。


 全員、並の人間には及びもつかぬ体力の持ち主ではあったが、さすがに激しい追跡と戦闘を終えた身体には疲労が重くのしかかっている。

 車までの行程のあいだは、ほとんど誰も、何も喋らなかった。


「オヤジ、あれを……」


「おう」


 ようやくジープにたどり着くと、両手を念入りにぬぐった俊一郎が助手席側のドアを開けて、紙袋を取り出した。

 それを、無造作に放ってくる。


「サンキュー……あと、救急箱もくれよ」


「一人で大丈夫か? 手伝ってやろうか」


「いや、いい」


「では、わたくしが」


「いらないって!」


 音也に向かって怒鳴った桜花に、俊一郎が、赤十字のマークが入った木箱を投げてよこす。

 桜花はそれを受け取ると、近くの木陰に踏み込んでいった。


 袋の中身は、制服と替えの下着、靴、それにタオルとスプレーだ。

 返り血を浴びた服装のままで街に戻り、職務質問を受けるような事態だけは絶対に避けなければならない。


 汚れた服をすべて脱ぎ捨て、袋に詰めた。

 一糸まとわぬ姿のまま、特殊な液体を詰めたスプレーを頭から爪先まで全身に噴霧する。

 膝上の傷にひどく沁み、桜花は声をたてずに呻いた。

 濡れた身体を丁寧にタオルでぬぐい、そのタオルも袋に放り込んだ。

 それから、傷口を丹念に手当し、包帯を巻いた。


 制服を着込んで戻ると、ちょうど、着替えを終えた俊一郎が、古い服を燃やしているところだった。

 桜花もまた、炎のなかに紙袋を放り込み、戦いの痕跡が、ガソリン臭い煙と灰に変わるのを見届けた。


「よし、さっさと乗れ!」


 念入りに火の始末をした後、運転席に陣取って急に元気づいた俊一郎が、窓から出した手でばんばんと扉を叩いて促す。

 こちらも熱心に身づくろいをしていた三日夜と時矢の兄弟が、相変わらず無言で、するりと後部座席に滑り込んだ。


 ――WED 23:38


(くそ……午前1時までに、帰れるかな?)


「桜花殿」


 腕時計をにらみつつ扉に手をかけようとした桜花の肩に、手が置かれた。

 振り向くと、背後に音也が立っている。

 この山猫の男は、普段から気配というものをほとんど感じさせず、姿を確認するまでどこにいるのか分からないことがよくあった。

 気を抜いていると、こうして、簡単に背後を取られる。


「今宵も、どうあってもお寄りいただけぬのですか?」


「だから、言っただろ。課題があるって。明日、出さないと、オニデにぶっ殺される」


「その、高校というのは、休暇をいただくわけにはいかないのでしょうか」


 ことばは丁寧だが、要するに「サボって泊まっていけ」と言っているわけだ。


「そりゃまあ……絶対に何があっても休めない、ってわけじゃないけど」


 肩を撫で、滑るように二の腕までおりてきた音也の手から、さりげなく身をはがしつつ、


「あたし、学校は、なるべくサボりたくないんだ。

 友だちに毎日会いたいし、詩乃しのばあちゃんの『教え』もあるしな」


 言った桜花を、音也は、不思議な表情で見下ろした。

 それは、からかっているようにも、あわれんでいるようにも見え、あるいは――


「深山の方々は、本当に、変わっていらっしゃいますな」


「……何がだよ?」


「わたくしどもは、夜の領域に生きる者」


 瞳孔が針のように細められ、じっと桜花を見据えた。


「にもかかわらず、あなたや俊一郎殿は、わざわざ昼の世界に立ち交じり、並の人間たちと深い関わりを持っておられる。

 そう、それが、詩乃殿の教えでしたな?

 人は、人との交わりを、決して忘れてはならぬと……

 それは、何のためにでございますか」


「何のため、って……」


「自らが人であることを、覚えておくために、でございますか?」


 音也のことばに、桜花は表情をこわばらせた。

 そうだ。時々、忘れそうになる――


 自分は、人間なのだと。

 人間の、16歳の、女子なのだと。


「桜花殿にとって、人である・・・・ということは、かように執着なさるほどの価値をもつことなのでしょうか?」


「価値とか、執着とか……そんなもん、関係ないって」


 桜花は、つっけんどんに言った。


「アレだ……気分転換だよ、気分転換!

 学校は、あたしにとっては、外せない趣味みたいなもんなんだよ」


「ゴラァ! そこ、何、ごちゃごちゃ言ってる!?

 さっきから待っとるんだ。さっさと乗れ!」


 俊一郎の怒鳴り声が響き、桜花は助手席に、音也は後部座席にそれぞれ飛び乗る。

 騒々しいエンジン音を響かせ、おんぼろジープは、驚くほどのスピードで林道を疾走しはじめた。



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