捕食者
* * *
月の光。
なめらかな光が、皮膚の上を冷たく流れ落ちてゆく。
彼は、その香りと手触りとを感じ、歓喜に身を震わせた。
こうして肉体の支配権をとりもどし、夜の気配を感じるのは何年ぶりだろう?
それが彼の力を増し、全身をさいなむ苦痛すら色あせさせる。
本当なら、日没と同時に行動を開始できたはずだった。
あの馬鹿者を黙らせるのに手間取ったのだ。
結局は力ずくで支配権をもぎ取ったが、今も、哀れっぽい呻き声が耳の奥に響く。
(まあいい……)
地平角45度のあたりに滞空する、鏡のような月に向けて手をかざし、彼は、ほのかな光がその輪郭をいろどるさまをほれぼれと眺めた。
白い手。
陽の光を知らぬ手だ。
その指を温かい喉に食い込ませることを思い描き、彼はくっくっと喉を鳴らした。
そう、久しく味わうことのなかった、この高揚感――
狩りに行くのだ。
彼は視線をめぐらし、人間たちの世界を遥かに見下ろした。
あれは、街の灯か。
休眠に入ったときと比べて、ずいぶんと光が増している。
結界のつもりだろうか?
愚かなことだ。
光を強くすることは、そのはざまの闇を濃くすることに他ならないというのに。
あそこへ行ってみようか?
それとも――
視線を手前へ引いてゆくと、地上の光は次第にまばらになり、やがて、ほとんど存在しなくなる。
かわりに、木々が生い茂り、やがては深い森となって山の斜面をおおいはじめる。
彼の目はこの暗さのなかでも、その木々の一本一本、その枝に茂る葉のかたちすらも見分けることができる。
「!」
不意に、声にならない声をあげ、彼は視線を一点に留めた。
山の中腹に、木々の葉にほとんど埋もれるようにして、一軒の民家が建っている。
屋根の形も、瓦の並びも、壁の色合いも……
ああ、あの頃と、何も変わっていない。
きっと、あの人はまだあそこに住んでいるのだろう。
厳しく、誇りたかく、そして心優しいあの人。
私の正体を知っても、受け入れてくれた――
冷ややかで秀麗な顔が、水滴を受けた湖面のように揺らいだ。
両親を見出した迷子のような表情が浮かび、震える手が伸ばされる。
「あ……詩乃、さ……ッ!?」
不意の発作に襲われたように、彼は胸元をつかんで膝を折った。
「グ……ア……」
目が血走り、半開きになった口から切れぎれの呼吸が漏れる。
胸に押し付けた震える拳は、痛みのためというよりはむしろ、何かを抑え込もうとしているかのようだ。
だが、その苦悶は、長くは続かなかった。
呻きと震えが、出し抜けに止まる。
「愚か者が」
やがて、吐き捨てるように呟いた声は、すでに完璧な落ち着きを取り戻していた。
「まったく、おまえは、あの人間の女に何を求めているんだ?
俺たちにとって、人間は獲物か、さもなければ隷属者と決まっている。
他は、ない」
優雅で、気だるげで、傲慢な、それは生まれながらの支配者の声音だ。
彼はちらりと下方を振り返った。
足元、はるか下の山腹に、ぽっかりと口を開けた洞窟がわずかに見えている。
太陽が昇る前に戻らなければならないが、夜は長い。
愉しみのための時間は充分だった。
口元がつりあがる。
三日月のかたちに割れた唇のあいだから、長すぎる犬歯がのぞく。
「それを、証明してやろう」
黒いコートの裾をひるがえし、彼は巨大な針葉樹の樹冠から音もなく飛び降りた。
ほんのわずかに枝が揺れ、そこから、いくつもの影の切れ端のようなものが、ばらばらとこぼれ落ちてゆく。
乾き切った花びらのように、月光の中を舞い落ちる黒の群れ――
それは体内から全ての血を奪われた、無数の烏たちの骸だった。