そして彼女は彼を
*
「あいつ……やりやがった」
呟きと同時、俊一郎ががくりと膝を折った。
「オヤジ!? しっかりしろ……!」
桜花は、自分の薄情さを呪った。
優人と、バシレイオスのことにばかり気をとられて、俊一郎の傷のことを頭から追いやってしまっていたのだ。
「大丈夫だ……ちょっと、気が抜けてな……
それより、鈴木だ。
応急手当は、したが、早いとこ医者に見せねえとヤバい……」
「あ、ああ……」
うなずいた桜花の肩に、冷ややかな指が食い込んだ。
何が起きたか悟る間もなく、あっという間に地面に叩きつけられる。
「このクソ野郎! 何す……っ」
立ち上がりかけた俊一郎も、一瞬にして吹き飛び、間近の木に激突した。
桜花がくらくらする頭を押さえながら顔を上げたとき、その目に飛び込んできたのは、優人の右肩をつかんで高々と吊り上げているバシレイオスの姿だった。
鋭い爪が布を破って優人の肩に食い込み、新たな血を溢れさせる。
白い手を伝って赤い筋が流れた。
痛みによって覚醒した優人が擦れた声をあげて仰け反り、バシレイオスの口元に残酷な笑みが浮かんだ。
――違う。
この男は、バシレイオスではない。
「君も、俺と遊びたいと言っていたな、ハンター?
もちろんいいとも……さあ、何をして遊ぼうか?」
「やめろ!」
桜花は叫びながらつかみかかろうとしたが、片手で軽く振り払われただけで両足が宙に浮いた。
再び地面に叩きつけられ、激しく咳き込む。
生理的な反応と、それだけではない何かで涙がにじんだ。
どうする、どうしよう、どうすれば――
優人は苦痛に呻き、身をよじりながらも、必死に首をひねって吸血鬼を睨みつけた。
銀の血の王子は、酔い痴れるような目つきでその視線を受け止めた。
「いい声だ、ハンター。実にそそるよ……
それに、目つきもいい」
尖った爪が浅く皮膚を裂きながら頬の線をなぞり、優人のまぶたを撫でる。
「このまま、標本にして飾っておきたいくらいだ――」
シュッ、と鋭い音がした。
銀の血の王子の身体が、大きく揺れる。
彼は、ぎろりと視線を動かした。
優人を吊り上げている上腕に、小さな弾痕が穿たれ、煙を上げている。
通常弾ならば、彼は、蚊に食われたほどにも気に留めなかっただろう。
――通常弾ならば。
銀の血の王子の顔がこわばり、それから、やつれた表情が浮かんだ。
「……銀か……!」
どさりと優人の身体を取り落とし、彼は喘いだ。
自分の右肩に爪を突き立て、その下の皮膚ごと袖を引き裂く。
上腕部はすでに銀の毒素に侵されて変色し、凄まじい速度で腐敗しはじめていた。
獣のような絶叫とともに、銀の血の王子は肩口に爪を突き立て、そのまま、力任せに己の腕をもぎ取った。
血しぶきが噴き出し、彼の半身をべっとりと濡らす。
ぼとり、と腐った腕を地面に落とし、数歩よろめいたところで、血走った目がぎろりと動いた。
その視線の先には――
優人の銃を構え、まっすぐに銃口を掲げている、桜花の姿があった。
「……詩、乃?」
ぽつりと、そんな呟きが漏れた。
その唇に、疲れたような笑みが浮かぶ。
「いや、違うな。
――彼女なら、俺を撃ったりはしなかったよ」
血の流れる傷口をつかんだまま、銀の血の王子はかたわらの樹の幹にどっと寄りかかって膝をつき、それきり、動きを止めた。
*
風が、木々の葉を低くざわめかせている。
桜花は、今になって初めて、その音を耳にとめた。
戦いが終わり、この場所にようやく静けさが戻ってきたのだ。
俊一郎は、突き飛ばされて頭でも打ったか、樹の根元にもたれかかるようにして気を失っている。
優人は、落とされたその場所に倒れていた。
どちらも、わずかにだが、身体が動いている……
まだ息があるのだ。
この戦いを、生き延びた。
それでも、歓びは込み上げてはこない。
「桜花さん……」
かすかな呼びかけに、生存本能が反応する。
素早く銃を構え、狙いをつけた。
「――レイ?」
桜花は、自分がしていることが信じられなかった。
彼に、銃を向けるなんて。
あれほど守ろうとした相手なのに――
だが、わからないのだ。
彼は、バシレイオスなのか、それとも……銀の血の王子なのか?
銃を下ろさないまま、じりじりとにじり寄ると、彼は薄目を開けて桜花の顔を見つめた。
「ありがとう……桜花さん……」
その唇がかすかに動き、やがて、弱々しい笑みのかたちになる。
「私を、止めてくださって……
あなたの、おかげで……詩乃さんとの約束を、破らずに、すんだ……」
ああ、この表情は――
「レイ!」
桜花は叫び、彼のもとに駆け寄った。
止めようもなく、あふれた涙が頬を濡らした。
「ごめん、あたし……あたしは、あんたを……」
「何を……謝るんです……?」
バシレイオスの口調も、表情も、まるで夢でも見ているようにふわふわとして、今にも消えてしまいそうだ。
「桜花さん……俊一郎さんたちと、一緒に、早く、山を下りてください……」
「何言ってるんだ、レイ。一緒に――」
血まみれの手を取ろうとした桜花を、しかし、バシレイオスはそっと制した。
「ありがとう……」
はっとして上げた目を、バシレイオスの目が見返している。
「ですが、私は、あなたたちを、これ以上、傷つけたくない……」
その視線は穏やかで、そのくせ、何をもってしても、決して動かせそうにないほど強固で――
そして、哀しみに満ちていた。
共に過ごすかぎり、またいつか、今夜のようなことが起こるだろう。
銀の血の王子を求める敵と、そして自分自身が、側にいるものたちを傷つける。
あるいは、と、希望を持った。
だが、その身勝手が、音也の生命を奪い、桜花たちを苦しめ、危険に晒したのだ。
バシレイオスの苦悩を感じ取った桜花は、それ以上、ことばを続けることができなかった。
「私なら、大丈夫……少し、休んでから、別の道を行きます。
さあ、急いで! 夜明けまで、あと数時間しかない。人目に触れると厄介です。
俊一郎さんを起こして……気を失っているだけのはずですから……」
「ああ……」
気迫に圧されるように、言われるまま立ち上がり、背を向けて――
桜花は、まだ、ためらっていた。
いいのか、これで?
こんな別れ方をして、本当に?
まだ、聞いていないことがたくさんあった。
言いたいことも、たくさんあった――
「桜花さん……」
ためらいながら三歩、進んだところで、背後からバシレイオスの声が聞こえてきた。
振り向くと、バシレイオスがこちらに片手を差し伸べている。
その右腕は、付け根から失われたままだ。
「お別れの前に……最後に、一度だけ……近くに……」
桜花の心に、彼に抱きしめられたときの感覚がよみがえった。
冷たく、けれども限りなく優しかった、彼の腕。
その記憶に、引き寄せられるように歩み寄った。
そうだ、思い出のよすがに、もう一度だけ――
あと、一歩。
近付いた桜花の足がぴたりと止まった。
バシレイオスの左手が鞭のように伸びて彼女を捕らえようとしたが、その手は寸前で凍りついた。
音もなく持ち上げられた銃口が、彼の心臓を正確にポイントしている。
「ふざけた野郎だ……
あたしが、おまえとレイを見誤るとでも思ったか?」
静かな声だ。
怒鳴ることもできないほどの怒りというものが、ある。
彼は、ゆっくりと苦笑を浮かべた。
「やれやれ……君は、ムードを大切にしない女性だな」
その顔も、声も、バシレイオスそのものだ。
だが、漂わせる雰囲気は、まるで別人のもの。
「レイの顔で、ふざけたセリフをぬかすな……!
ムカッ腹が立って、無性に撃ちたくなる……」
「あの男は俺だ。そして、俺は、彼そのもの……
撃てるかな、君に?」
銀の血の王子の問いかけに、桜花は、無言でハンマーを起こすことで答えた。
「体内にわずかでも銀が入るということがどういうことか、君には分からんだろうな。
再生はおろか、身動きすらもままならない……
このままでは、俺は、夜明けを待たずに滅びることになるだろう」
彼は目の前の銃口に何ら感銘を受けた様子もなく、ことばを続けた。
桜花には決して撃てないと、知っているかのように。
「君が愛している、あの男も、滅びることになる」
「愛している――?」
繰り返したそのことばは、自分の口から出たものではないかのように思えた。
銃口が、ほんのわずかに逸れる。
「ああ……あいつも、君を愛しているさ」
その隙だらけの一瞬にも、彼は、動こうとはしなかった。
余力がないというのは、どうやら本当のようだ。
「君は、あいつを助けたいだろう?
君の目のなかに、それが見える……
力が戻れば、こんな傷、すぐに塞がる。
そうとも、君の血を、ほんの少し分けてもらいさえすれば……」
そうか。なぜ、思いつかなかったのだろう。
奪われることは認められなくても、自分から与えてやればいい。
彼をこんなふうにしたのは、半分は、あたしの責任だ。
少し血を分けてやるくらい、どうってことはない――
桜花はもう一度、銀の血の王子の目を見つめた。
そして、彼の笑いが一層深くなっていることに気付いた。
桜花が自分の前にひざまずいて首筋を差し出すことを、露ほども疑っていない表情だ。
「そうしたら……おまえは、あたしたちを殺すんだろ」
わずかに逸れていた銃口が、再び引き戻される。
「おまえの目のなかに、それが見えるよ」
桜花がそう言い放ったと同時、優雅な仮面にひびが入った。
「黙れ!」
ついに激昂し、銀の血の王子が叫んだ。
――いや、そのことばは、桜花に向けられたものではない。
彼は自分の胸を押さえつけるようにしながら、嫌悪に満ちた口調で怒鳴りつけた。
「おまえは引っ込んでいろ!
……桜花……さんっ」
桜花は、目を見開いた。
同じ口から、まったく調子の違う声が次々に流れ出してくる。
「桜花さん、耳を貸してはいけない、早く行ってください!
――黙れ、愚か者! おまえが望んだんだ――!」
彼は壊れた人形のように身体を傾け、よろめきながら立ち上がった。
明らかに、最後の力を振り絞っている。
桜花は後ずさりながら、彼の心臓を狙った。
残弾は一発。
だが、これほど弱り切った吸血鬼を滅ぼすには、銀の弾が一発あれば充分だ。
「そうです、その、銃で……!」
彼が飛びかかってきた。
ぐうっと伸びた腕の先、五本の鋭い爪が、桜花の頚動脈を狙っている。
くぐもった発射音――
彼の攻撃の、狙いがそれる。
爪の一本が、桜花の首筋を浅く削ったのみ。
そのまま、彼は正面から桜花にぶつかった。
少女の身体では彼の体重を受け止めることができず、ふたりは、重なるようにして地面に倒れこんだ。
彼の表情は安らかだった。
――だが、予想していた衝撃や苦痛は、いつまで経ってもやってこない。
彼が、閉じていた目を開くと、間近にある桜花の目と視線が合った。
真剣な表情で、こちらを見上げている。
彼女の右腕は、まっすぐに上に伸び、天に向けて全弾を撃ちつくした銃を握りしめたままだった。
「バシレイオス……」
一瞬、銃に向いた視線を、彼女の声が引き戻す。
その声は、詩乃のものよりもずっと荒々しく、率直で――
「レイ、聞こえてるか?
あたしは、おまえになら……
おまえじゃなきゃ、だめだからな」
無理をして笑おうとしているようだが、口元が引きつっている。
その顔が、すぐに真顔になり、目を閉じて顎を反らした。
「いいよ、レイ。あたしの血を、分けてやるから……」
端整な顔が歪み、笑っているとも泣いているともつかない表情になった。
「……ばかなお嬢さん……」
低い呟きとともに、白い牙が皮膚に押し当てられ、ゆっくりと沈み込んでいった。