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銀の血の王子

      * 




「懐かしいじゃないか、ええ?

 この最果ての地で、こんなふうに旧き友と再会できるとは、思ってもみなかったよ……」


 ぎりぎりと相手の右腕を掴んで握りしめ、限界までひねり上げながら、彼はふらつく足取りで立ち上がった。


 あの馬鹿者・・・・・のおかげで、ずいぶんと無様を晒すはめになったものだ。

 力が足りない。

 だが、獲物を目の前にしたぞくぞくする感覚が神経系を興奮させ、どんな麻薬よりも強力な作用をもたらしてくれる――


 鈍く湿った音を立て、マリウスの肘の関節が砕けた。

 だが、鋭い爪はなおも残酷な罠のように肉に突き刺さり、もぐり込み続けている。

 マリウスの絶叫が超音波の領域に入りそうなほど甲高くなり、銀の血の王子はにんまりと笑みを浮かべた。


「ああ……こうしていると、あの頃のことを思い出す。

 その声を、前にも聞いたことがあった。

 92年前のローマ、ルッジェーロ一族の晩餐会。

 メイン・ディッシュは、薬で眠らされた、金の髪の美しい娘だった。

 若く生命力に溢れ、その血はほとんど電気でも帯びているように力強い味わいだったな。

 俺が彼女の血管に注いでおいた、強力な麻痺毒の味をすっかり打ち消してしまうほどに――」


 胸の悪くなるような音とともに、マリウスの華奢な右腕は肘のところで引きちぎられ、銀の爪もろとも地面に打ち捨てられた。


「おお、俺は残酷だっただろうか?

 そんなことはないはずだ、俺は、君の父上の願い事をかなえてさしあげたのだから。

『どうかあの子だけは助けてくれ』と泣いて懇願なさる父上の姿に、つい心を動かされたんだよ。

 毒のためにきかない身体を引きずって、息子のために命乞いをするあの様子……

 まさに、父の鑑とも言うべき姿だった。そうじゃないかね?」


 悲劇役者そのものの身振りで胸に手を当て、大仰に眉をひそめる。


「父上が目の前で滅ぼされるのを見ている君の顔は、俺を充分に満足させてくれた」


「ぎ……ぎざ……ま」


 マリウスの顔をのぞきこんでいた銀の血の王子の顔に、心底哀しげな表情が浮かんだ。


「そんな顔をしないでもらいたいな。

 君たちが悪いんだ。せっかくの血を、よく味わいもせずに、あまりがっつくから……

 だが、その気持ちはわからなくもない。

 渇きの衝動は、ときとしてまったく抑え難いことがあるからな」


 悲哀の仮面の裏返しは、悪魔の嘲笑だ。


「そう、ちょうど、今のようにね」


 熟練の踊り手の動きで白い手が翻り、蝶でも留めつけるようにマリウスの左胸を貫いた。

 ほっそりとした肉体が、打ち上げられた鮎のように痙攣する。

 銀の血の王子はマリウスに覆いかぶさるようにしてくちづけ、あふれ出る鮮血をむさぼった。



       * 



「我が君!?」


 叫んだプロメテウスの身体が、突然のけぞり、壊れたマリオネットのようにがくがくと揺れながら後ずさった。

 その全身から、間欠泉のように血が噴き出している。


 呆然と座り込んでいた桜花は、そのときになってようやく、連続する銃声に気がついた。

 ――優人が、身を起こしている。

 彼が構えた銃、その銃口から続けざまに撃ち出される銀の弾丸が、プロメテウスを串刺しにしているのだ。


「俺の、前で……人間に、手を出すんじゃねえ! この、クソ野郎が!」


 だめ押しとばかりに、もう一発。

 銀の弾丸が眉間にめり込み、マリウスの一の側近は、汚物の詰まった風船のように弾けてしぼんだ。


「無事か……深山……」


 言いかけた優人のことばが、途中で切れる。

 若きハンターは、そのまま仰向けに倒れ込んだ。


「鈴木っ!?」


 駆け寄ろうとしたが、鉛のように重くなった身体はいうことをきかない。

 何とか這い寄ると、彼の顔色は、ほとんど紙のように白くなっていた。

 呼吸が浅い。

 腿の傷からの絶え間ない出血のせいで、ショック症状を起こしているのだ。


「鈴木! 死ぬな!」


 目の前で、命の火が消えてゆこうとしている。

 ――まただ。

 また、救えないのか? 


「桜花っ!」


 そこへ、奇跡のように俊一郎が駆け戻ってきた。

 全身、血まみれのずたずただ。

 どこまでが返り血で、どこからがそうでないのか、まったく判別がつかない。


「オヤジっ……!?」


「おい! そいつ死んだのか!?

 ……おう、まだ死んでねえな! とにかく止血だ! 布ないか、布!」


 どうやら、思ったよりも元気なようだ。

 倒れた優人の横に膝をつき、服の切れ端を引き裂いて傷に押し当てようとする。


 そんな俊一郎をおいて、桜花はふらふらと上体を起こし、あたりを見回した。

 彼女たちの必死の戦いで、すでに雑魚どもは一掃されている。

 そう、あとは――


「……レイ?」


 ようやく彼の姿をとらえたとき、桜花の口から、かすれた呟きが漏れた。



       * 



 薄い唇を血に染めて、彼は満足げに息をついた。


「ああ……まずまずだった。

 92年前を思い出すよ。君の兄上たちと、同じ味わいだ」


 新たな活力が全身をめぐり、浅い傷が次々と癒着し、消えてゆくのが感じられる。

 やはり、同族の血は格別だ。

 人間のものよりもずっと濃く、長い年月のあいだに蓄積されたエネルギーに満ちている。

 そこに恐怖と苦痛の火花が刺激を添え、極上のシャンパンのような心地良さをもたらした。


 軽く突き飛ばされてマリウスはよろめき、足をもつれさせて倒れ込んだ。

 急激に血を奪われたせいで、肘からもぎ取られた腕も、胸の傷も、一向に治癒する気配を見せていない。

 喘ぎながら見上げるその目に、いまや余裕はかけらもなく、ただ恐怖だけがあった。


「どうした、ルッジェーロのマリウス?

 俺はちょうど、ひどく退屈していたところなんだ。もっと遊ぼうじゃないか」


 銀の血の王子は微笑みながら言った。

 致死量の血を奪うことなく解放したのはそのためだ。

 そう、獲物を相手に戯れ、その恐怖と絶望を味わうことなくしては、狩りは空しい。


「さあ、一曲お相手いただこうか――?」


 優雅に差し出された手から逃れるように、マリウスはよろめきながら立ち上がり、きびすを返して脱兎のように走り出した。

 超加速運動ハイパーアクセレーションに入るほどの力は、もう残っていない。

 だが、武器も構えず、呆けたように座っているだけの人間の娘を捕らえるには充分だ。


「桜花っ!?」


 すぐそばにいた俊一郎だが、優人の手当てに意識が向いていたために、反応が遅れた。

 ――桜花の喉に、黒い鉤爪が押し当てられる。


「よ……寄るな……!」


 桜花の背後に回ったマリウスは、肘から先のない腕で彼女の身体を抱え込んでいる。

 その様は、人質を取るというよりも、母親の背中に隠れて身を守ろうとする子どものように見えた。


(レイ……)


 そうなってなお、桜花は、彼だけを見つめていた。

 薄い笑みを浮かべたまま、ゆったりとした足取りで近付いてくる、その男を。

 疲労のあまりか、感覚が麻痺したようになって、恐怖はない。


「寄るなぁぁっ! ご執心の娘を殺すぞ!」


 マリウスの絶叫を受け――

 言われてはじめて気付いたように、彼は足を止め、桜花に視線を移した。

 道端の石でも眺めるような、無関心な目つきで。


「好きにするがいい」


 ……わかっていた。そう言われることは。

 だがそれでも、桜花は、全身を火のような怒りと哀しみが満たすのを感じた。


 バシレイオスに裏切られたとは、思っていない。

 自分の心を動かした、彼の優しさは、本物だった。その確信があった。


 心優しい魔物。

 そんな男だからこそ、信じたのに。

 その優しさを食いつぶしてしまった、目の前の男が――

 銀の血の王子が、憎かった。


 真っ向から、その顔をにらみつける。


 銀の血の王子の、血に染まった唇が、にんまりと笑みを深くした。


「できるなら、な」


 そのことばと同時に、桜花の背後で、マリウスの身体がぶるりと震えた。


「ぐっがっ……があぁああああっ!?」


 すさまじい苦悶の声があがる。

 鉤爪が離れ、次の瞬間、マリウスは桜花の足元に倒れ込んできた。

 身体ががくがくと震え、血まみれの口から大量の血泡があふれ出している。


「桜花!」


 その光景を呆然と見つめていた桜花の手を、俊一郎がつかんで力任せに引き寄せた。

 彼は娘と優人とを背後に庇い、身構える。


 銀の血の王子は、しかし、俊一郎のほうなど見てもいなかった。

 マリウスの苦悶を見下ろし、満足げにことばを継ぐ。


「そうそう、言い忘れていたが、さっき、君のなかに俺の血を少しばかり注いでおいた。

 そして、忘れているかもしれないから言っておくが、俺の血は・・・・君のものよりも・・・・・・・遥かに強い・・・・・んだよ……

 ルッジェーロのマリウス、君の訪問に感謝する。

 実に有意義な会見だった。

 だが、残念ながら、何事にも終わりはあるものでね」


 マリウスには、すでにことばを返す余力すらない。

 銀の血の王子は尖った爪の先をあごに触れさせ、わずかに首を傾げた。


「さて、どのように終わらせるのがふさわしいだろうか?

 ――ああ、そうだな。

 それでは、かの名高き《串刺し公》ヴラド・ツェペシュに倣って……」


 ちろりと動いた瞳が、満腔の悪意をたたえて微笑んだ。

 瀕死のマリウスを軽々と抱き上げ、彼は驚異的な跳躍力でかたわらにそびえる大樹の枝に跳び乗った。

 階段をのぼりつめるように次々と枝を蹴り、あっさりと頂点に達する。


 地上20メートル――

 きらめく星々の下で、彼の意図を悟ったマリウスの目が絶望に見開かれた。


「や、やめ……」


「さらば、我が友――永遠に」


 からかうようなくちづけと同時、力強い腕が、華奢な身体を投げ捨てる。

 その下には、一本の枯れた樹があった。


 空中で、マリウスの口が大きく開く。

 そこからほとばしろうとしたのは、呪詛か、哀願か。


 重力の手に引かれた身体が、乾き、尖った幹の先端に貫かれて、虫のようにもがき、それから、動かなくなった。




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