サムライガール
澄んだ空気に、キンモクセイの甘い香りがまじっている。
今は放課後。
県立勝駒高校の中庭が、もっとも賑わう時間帯だ。
ずらりと並んだ、何十期生かの寄贈品である白い長椅子とテーブル。
そして、3台の自動販売機。
ベンチを動かして輪になり、ミルクティーの缶を手に談笑する女子たち。
横一列に座り、カバーをかけたマンガを黙々と回し読みするグループ。
あちらに、人目もはばからずいちゃつくカップルがいるかと思えば、こちらでは、テーブルいっぱいにノートと参考書とを広げ、切羽詰まった形相でなにやら書き写している者も――
「あっ……あと、ちょっと……!」
「見えないって! もっと詰めろ!」
「うるさい! くっつくな!
――ああっ、惜しい! あと一息で中身が……」
そしてこちらでは、3名の男子が、ひとつの長椅子の上でごそごそしていた。
間違った前衛芸術のような体勢でひとかたまりになった彼らの姿に、周囲からは幾対もの奇異の視線が注がれ、ひそひそと胡乱げな囁き声も起こっている。
だが、三人組には、それを気にした様子もなかった。
今、彼らの意識は、少し離れて置かれたひとつの長椅子――
正確には、そこにいるひとりの女子の姿にのみ、向けられていたのである。
彼女は、眠っていた。
長椅子を一人でまるごと占拠し、カバンを枕に、横になっている。
スニーカーをはいたままの長い脚をまっすぐに伸ばし、肘のところで曲げた手を腹の上で組んで微動だにしない。
高い位置でポニーテールにされた完璧な黒髪が、ベンチの端から、まるで飾り紐のように垂れ下がっていた。
放課後の中庭で熟睡する少女――
それはかなり奇妙な光景だったが、周囲の生徒たちは、この女子に関しては、あまり注意を払っていなかった。
彼女が、ここでこうして眠っているのは、いつものことだったからだ。
「風でも吹かないかなぁ? ハアハア」
問題は、そのすぐ側の3人組だ。
「後ろから、鼻息をかけるなッ! 気持ち悪い!」
「ていうか……男3人、桜花たんの寝姿を見つめながら、風が吹いてスカートがめくれるのを待ってるって時点で、すでにどうしようもなく気持ち悪いよね……」
「言うな! それは言うなッ! 自分が哀しくなる!」
つまり、そういうことなのだった。
彼らが(勝手に)崇拝してやまない女神「桜花たん」――
二年A組25番、深山桜花。
と、そこへ、彼らへの天佑のごとく、びゅうと一陣の風が吹いた。
「おおおおっ!?」
彼らは一斉に叫んで、我先に身を乗り出し――
ゴガッゴッ ゴゴッ!!
全員、ベンチごと地面に転がる。
「!」
その瞬間、少女――桜花が、跳ね起きた。
その反射速度は、尋常のものではなかった。
転げるようにベンチから降りて立ち上がり、カバンを盾にとって身構えるまでが一瞬。
そして――
「……あ!?」
騒音の源を見極めた瞬間、その目がカッと見開かれた。
「おまえら! ……変態3人組っ!?」
その瞬間、3人組は申し合わせたように同じ動作で、頭と手とをぶんぶん振りはじめた。
「み、見てないよ! 見てない見てない、絶対見てない!」
「そうそうそう! 大丈夫! だから怒らないで!」
「でも、スパッツ装着は反則――」
「って、しっかり見てるだろーがこのボケナスどもがあぁぁぁっ!」
怒号とともに少女のカバンが唸りをあげ、3人組をなぎ倒した。
恐るべき遠心力の威力に、全員がただの一撃で轟沈する。
「ひ……ひどいよ、桜花たん……」
「ふざけるな、変態どもっ!」
倒れ伏して呻く男子たちに向かい、どーんと片足をベンチにかけ、ついでに中指まで立てて、少女は威勢よく啖呵を切った。
「あたしの安眠を妨害した上に、スカートまでのぞいておいて、無傷で帰れると思ったら大間違いだコラ! 今度やったら、おまえら全員、北館の屋上から逆さ吊りにしてやるからなっ!?」
「ああっ、桜花たん! もっと言って! ハアハア」
「――おまえは、今すぐ消え失せろッ!」
容赦ない怒声に「おお……」「怖ぇ~……」と、ギャラリーたちからどよめきが起こる。
それが聞こえたためか、桜花は、ぴたりと動きを止めた。
ややあって――
ばさりと髪を払いのけ、何事もなかったかのようにベンチに座りなおす。
「5秒だけ、待ってやる。あたしの視界から、速やかに消え失せろ……」
押し殺した声音に、逆に凄味があった。
ひい、とか、ほう、とか妙な声をあげつつ3人組が逃げ去ると、周囲から、ぱちぱちとまばらな拍手が起こる。
「おっ……どうも」
「どうも、じゃないってばー」
思わず一礼した彼女の横手から、不意に、呆れ果てたような声がかかった。
そちらを見上げ、桜花は気楽に手を挙げる。
「おっ、ミナ! やっと来たか」
「おーちゃん、何やってんのー?」
桜花を見下ろしていたのは、桜花とは、あらゆる意味で対照的な女子だった。
明るめの髪色に、ばっちり決まったメイク。
色っぽくドレスダウンした制服。
カバンにはべたべたとシールが貼られ、大きなキーホルダーがじゃらじゃらとぶら下がっている。
二年A組24番、舞洲美奈。
「何って、女の尊厳を守るための戦いをだな」
「つまり、また暴れてたってわけー?
あ、待たせてごめんねー。
服装の反省文、書き直しになっちゃって、時間かかったー」
桜花と美奈。
出席番号が隣同士だったことから、入学初日に親しくなり、それ以来、ずっとつるんでいる仲だ。
見た目の印象はほぼ正反対なのだが、不思議とウマが合い、今では、互いに親友同士と思っている。
「全然、待ってない。寝てた。
それに、別に暴れてないよ。ただちょっと……アレだ……
まあ、馬鹿に鉄拳制裁を加えてただけで」
男そのものの口調で答える桜花に、美奈は、はぁーっ、と深い溜め息をつく。
「だからー、そーやって平気でベンチで寝たり、男子を殴ったりしちゃダメだってば……
そんなことしてると、まともな男の子も寄ってこなくなっちゃうよー?」
「いいよ。男なんか、別にいらないし」
むっつりと言った桜花に対し、
「あー、ダメダメ! そーやって、自分で壁を作っちゃうのがよくないんだよねー。
やっぱ、女に生まれたからには、恋をしなきゃー!」
恋多き乙女である美奈は、桜花をラブのすばらしさに目覚めさせるのが自分の使命だと信じているふしがあり、事あるごとにこうして熱弁を振るってくれるのだった。
「悪いけど、興味なし!」
「またぁー。そんなこと言って、誰とも付き合ったことないまま、おバアちゃんになっちゃったらどうすんのー?」
「……う」
確かに、それは嫌だ。
(でも)
ふと、桜花の目にさびしげな色が浮かんだ。
(下手に、恋なんか、しないほうがいいんだ。
だって、あたしはどうせ、いつか――)
「あー、そうそう。これ!」
桜花の物思いにはまったく気付かぬ様子で、何やらごそごそと自分のカバンを探っていた美奈が、
「今朝から、渡そう渡そうと思ってて、ずっと渡しそびれてたんだよねー」
そう言って、いきなり大量の紙束をどさどさと桜花の膝に載せてくる。
見れば、全部ファッション雑誌だ。
「……何だ、これ?」
「えー? 昨日、貸してって言ってたじゃん」
「はあ?」
「あれ、忘れてるー? ほら、昨日の昼休み。
『流行の服とかも来てみたいけど、コーディネートの仕方がよく分からん』って言ってたでしょー?」
「……うん。確かに、それは言ったな」
「だから、参考書にと思ってー」
「勝手に持ってきたんだろーが!」
その通りだ。
「まあ、読んでみるといいよー」
「うーん……まあ……けど、こんな重いもん、よく学校まで持ってきたな」
「あ、気にしないでー。学校まではワタルくんにバイクで送ってもらったし、教室までは、ミーくんにカバン持ってもらったから!」
――うかつにも少し感動してしまった自分が情けない。
「恋愛運の占いも載ってるよ。見てみるー?
この雑誌の占い、けっこう当たるんだよねー!」
「はあ? そんなもん、でたらめだろ? どうせ、雑誌によって結果が違ったりするんだろ」
「そこは、深く考えちゃダメー。えーと……おーちゃんの誕生月、で、誕生日……と。なになに?
『今月は、あなたのラブに大きな転機が訪れます! すでに付き合っている人は、結婚などの具体的な話に発展するチャンスかも!?』」
「全然、まったく、ひとつも付き合ってないんだけど、その場合はどうなるんだ?」
雑誌の占いなど信じてはいないが、一応、1パーセントくらいは結果が気になる桜花だ。
「えっとねー…… 『現在、ラブを探し中の人は、近いうちに運命の出会いが訪れる可能性アリ! 新しい出会いだけじゃなく、友だちから進展するケースもあるので、改めてまわりに目を向けてみて』 だってー!」
読み上げて、美奈は自分のことのように嬉しそうに言った。
「すっごいじゃん! おーちゃんの今月のラブ運、絶好調!
ねー、誰か、いいなと思う男子っていないの? 絶対、今が押し時だよ!」
「だから、いないって。そんなもん」
「えー? じゃあさー、さっきの3人組の中で、誰が一番マシだと思う?」
「マシ!? ――ていうか、なんでいきなり変態からの三択なんだッ!?」
「だからー、友だちから進展……」
「アレは、断じて友だちじゃねええええぇ!」
「うーん……」
渾身の主張でぜえはあと息を荒らげる桜花に、美奈は困った様子で、
「おーちゃんさー、ちょっと、構えすぎじゃない?
もっとハードル下げて、気楽に男の子と付き合ってみればいいのにー」
「そうかもしれないけど、下げるにも、限度ってもんがあるだろうがっ!?」
冷静に考えると、桜花も相当、失礼なことを言っている。
「そう? じゃあ、他にはー……」
そのへんから適当に見つくろうつもりか、きょろきょろと辺りを見回す美奈。
付き合いきれん、とばかりに大量の雑誌を自分のカバンにしまいこんでいた桜花は、
「あれー?」
そのとき、美奈があげた声に、今までとは違う響きを聞き取った。
「どうした、ミナ?」
「え? いや……あそこ。なんか、こっち見てる子がいるんだけど……」
戸惑ったような表情を浮かべた美奈の視線の先には、本館の建物があった。
その出入口の脇に、メガネをかけた、一人の男子が立っている。
「あれって……誰だっけー? なんか、顔は見たことある……」
「あっ! あいつ、あいつ!」
桜花は、ぱんと手を打った。
「この前、転入してきたやつ。えーっと……ほら、アレだ。C組の!
……あ、鈴木! 鈴木優人」
勢いでフルネームまで出てきたが、特に知り合いというわけではない。
直接、話したことすらなかった。
二週間ほど前に、二年C組に転入してきた男子である。
勝駒高校恒例の、転入生による全校朝会での自己紹介のとき、マイクが入っているにも関わらず、声が小さすぎて何を言っているのか分からなかった――という情けない理由で印象に残っていたのだ。
その鈴木優人が、本館の入り口脇に立って、はっきりとこちらを見つめている。
「何だ、あいつ?」
美奈にぼーっと見とれる男子なら、年じゅうそこらにごろごろしているため、特に珍しくもないのだが――
「ちょっとー! あの子さー、おーちゃんのこと見てるんじゃないの……?」
「あ、やっぱ、そう?」
勘違いだったら恥ずかしいと思って黙っていたが、美奈も言うからには、おそらく間違いないだろう。
そうと分かれば、桜花の気性だ。
やることは決まっている。
「えっ? ……ちょっと、おーちゃん!?」
桜花はいきなり立ち上がり、びっくりしたように声をあげる美奈を置いて、つかつかと優人に向かって歩き出した。
「おう、おまえ何見てんだコラ」――もとい、「何かあたしに用事?」と、真正面から尋ねるつもりだ。
まさか、桜花がいきなり自分に向かってくるとは思っていなかったらしい。
優人は目を見開いて、その場に凍りつき――
そして次の瞬間、脱兎のごとくその場から走り去る!
「な!?」
このとき、即座にダッシュをかけていれば、桜花の俊足なら簡単に追いつけただろう。
だが、驚きのほうが先に立った。
「逃げた……!?」
「もーっ、おーちゃん、何してんのー!」
思わず立ち止まった桜花の背中を、追いついてきた美奈がばしっと叩く。
「せっかくのチャンスだったのにー……!
あれじゃ、ケンカ売りに行ってるようにしか見えないじゃーん!
あーゆーときは、もっと、こう、気付いてないフリして焦らさなきゃー!」
「焦らすって……あのなぁ、ミナ」
ぽん、と美奈の肩に手を置き、桜花。
「そりゃ、あたし、ミナと比べて全然モテないけどさ。
だからって、誰でもいい、何でもいいってわけじゃないから。
まわりの男子に片っ端から、そうやって……小技をかけるっての?
そういうのって、あたしの性格には、合ってないんだよな」
すっぱりと言い放った桜花に、美奈は一瞬、驚いたように固まったが、
「おーちゃん……」
3秒後には、くしゃっと顔をまげて、泣きそうになった。
「ごめーん……あたし、ちょっと調子乗りすぎてたよねー。
エラそうなこととか、いっぱい言って。
ごめんねー、イヤな思いさせちゃって……」
「いや、いいって! そんな、そこまで気にしてないし」
桜花は、慌てて言った。
いいことだろうが、悪いことだろうが、思ったことを何でもすぐ口に出す性格のために、美奈には、桜花以外の女子の友だちがほとんどいない。
だが、口も性格もさばけた桜花にとっては、そのストレートさこそが、気楽で心地いいのだった。
友人関係の妙というものだろう。
「まあ、アレだ……あたしは、乱射よりも、狙撃で一撃必殺ってことで。
誰か、運命の相手っぽいやつが見つかったら、絶対ミナに教えるから。
そんときは、指導よろしく!」
『運命の相手』が命の危険を感じて逃走しそうなセリフを吐いて、桜花はにこりと笑った。
年下の女子たちが思わずときめいてしまいそうな、男前な笑顔だ。
それを目にして、美奈も、たちまち笑みを取り戻す。
「オーケー、任しといてー!」
――と。
不意に、桜花は右の腿に振動を感じた。
着信だ。
嫌な、予感がした。
悪いことに、こういう予感はいつも当たるのだ。
着信ランプは、青。
桜花の目つきが変わった。
「悪い、ミナ。今日も、一緒に帰りたかったけど……また、用事が入った」
「あ……今の、お父さんから呼び出し?」
「うん。気をつけて帰れよ。最近、物騒な事件が多いし」
「あー、今朝もすっごくニュースでやってたよねー! あの『神隠し』事件。
家族の人たち、ほんと、かわいそー……」
「小さな子どもばっか、4人も攫われて、いまだに、手がかりも何も見つかってないってのがな……」
「うん。ほんと、早く見つかるといいよねー」
一瞬、深刻な顔をした美奈だが、次の瞬間にはにっこりと笑う。
「でも、あたしは大丈夫だよー。コージ先輩誘って、一緒に帰るから!」
急に帰りがひとりになっても、「送り要員」に不自由したことはない美奈だ。
「おーちゃんも、いつも大変だねー。じゃ、また明日!」
「おう。――あ、雑誌、サンキュ! 明日、学食で何かおごるから!」
美奈に勢いよく手を振っておいて、桜花は猛然と駆け出した。
走りながら、思わず表情が歪むのを抑えきれない。
(今日もか……! くそっ!)
美奈には「オヤジの仕事の手伝い」と説明している。
嘘、というわけではなかった。
だが、それ以上に詳しいことを美奈が知る日は、永遠に来ないだろう――
走りながら、腕時計を睨みつける。
――WED 17:16
(半に、駅前……間に合うか?)
そこに、一台のジープが待っている。
乗っているのは父。
そして――
(今日も、生きて帰れりゃいいけど……)
親友同士のあいだにも、決して明かすことのできない秘密がある。
その秘密は、桜花の場合、あまりにも、大きなものでありすぎた――