覚醒
*
「ねえ、君。どうして、前みたいに笑わないんだい?」
銀と黒。二つの鉤爪が亜音速の軌跡を描き、美しい残像を引きずりながらバシレイオスを狙った。
銀の爪が頬をかすめ、黒い爪が二の腕を抉る。
「君は確か、こういうのが好きだったよね?
そんなふうに逃げてばかりいないで、僕とダンスを踊ろうよ――」
唸りをあげて飛んできた横殴りの一撃を紙一重で受け流し、バシレイオスは苦悶の表情を浮かべて下がった。
すでに全身にいくつもの傷を受け、サーベルを握る手にも力がこもっていない。
攻撃もせず、ただ、反射で身をかわしているだけだ。
だが、この瞬間にも、彼は激しく戦っていたのである。
このまま、マリウスの攻撃に身をさらしてしまいたいという誘惑との戦いだ。
自分は、かつてそれだけのことをしたのだ。
ああ……そうできれば、どんなにか楽だろう。
だが、自分には守るべき人々がいる――
一方、マリウスの目は、敵の迷いを敏感に見抜いていた。
鈍った防御をかいくぐるのは、彼の腕をもってすればたやすいことだ。
そう、このために、この瞬間のためだけに、あの夜から92年、ずっと修練を積んできた――
「ハッ!!」
裂帛の気合とともに繰り出された鉤爪が、火花を散らしてサーベルと交錯する。
バシレイオスの手から、サーベルが跳ね飛ぶ。
どっ! と鈍い音を立て、マリウスの黒い鉤爪は、バシレイオスの右脇腹をまともに貫いた。
「あ……」
バシレイオスの身体が硬直した。
ごぼりと音を立て、薄い唇から血の泡があふれる。
身体が細かく痙攣し、弓なりに反り返った。
背中が木の幹にぶつかる。
そのまま崩れ落ちようとする彼を、象牙のように白い手が優しく支えた。
「駄目だよ。まだ、終わりじゃないんだからさ……」
びくん、とバシレイオスの身体がのたうった。
突き込まれた黒い鉤爪が、傷口の中で大きくひねられたのだ。
銀か白木、あるいは魔術でなければ、武器をもって吸血鬼を滅ぼすことはできない。
だが、苦痛を与えることはできる。
「そうそう……」
宿敵の苦悶を見上げるマリウスの目には、禍々しい悦びがあらわれている。
「もっともっと苦しんでよ……
これでも、僕は優しいだろう? 92年前の君と比べればね。
さあ、これから、どうして欲しい?
兄さんにしたみたいに、内蔵を抉り出して撒き散らしてあげようか?
それとも父さんにしたみたいに、心臓をつかみ出して、その口に食べさせてあげようか……?」
弓のように細められたマリウスの目が、ちらりと横に流れた。
戦いのあいだにずいぶんと遠ざかっていたが、彼の視線の先、木々のあいだには、必死に周囲を警戒している俊一郎たちの姿がある。
(お……桜花、さ……)
座り込んでいる少女の姿を捉え、バシレイオスの表情が悲痛に歪んだ。
「ふふ、そうだ。あの子たちを傷つけたら、君は怒るかな――?」
「や……め……」
「なあんだ、そう。早く言ってくれればいいのに」
哀願にも似たバシレイオスのことばに親しげにうなずきかけ、マリウスはずるりと鉤爪を引き抜いた。
腹の傷を押さえて崩れるように膝をついたバシレイオスに、愛くるしい笑みを向ける。
「それじゃ、ご期待に応えて。
僕の部下たちをやってくれたお礼に、あの子たちと遊んであげることにするよ。
でも、君に邪魔されるのはありがたくないから、動けなくしておいてあげる。
そこでじっくり見物してるといい。
――ねえ、僕は残酷かな?
そんなことないよね。
だって、これは92年前の夜、君が、僕に対してしたことなんだから……」
悪鬼の形相に、変わる。
「思い知れ!」
金切り声とともに繰り出された黒い鉤爪が、バシレイオスの胸板を樹幹に縫いとめる。
その寸前、マリウスの左手を激しい衝撃が襲った。
「!?」
少年吸血鬼は目を剥いた。
バシレイオスの手が跳ね上がり、黒い鉤爪を、つかみ止めている。
白い指から血が滴り落ちるが、痛みすら感じていないかのようだ。
もはや抵抗する力もなかったはずなのに、振り払おうとしても、その手は獣のあぎとのようにがっちりと鉤爪をつかんで離さない。
「92年前の今夜……君に対して、こんな真似を……?」
押し殺したような声。
かすかに震えている。
「いいや、違うな」
唇がにいっと吊り上がり、血の色をした瞳が歓喜に燃えた。
「俺のほうが、ずっと洗練されたやり方だった。そうだろう?」
*
「伏せろ!」
いきなり俊一郎に肩を突き飛ばされた瞬間、桜花にできたのは、頭を打たないよう、とっさに受身をとることだけだった。
奇術のように、何もない空中から出し抜けに三人の吸血鬼があらわれ、同時に剣を突き出してくる。
「がぁっ!」
優人の腿を、銀色の切っ先が貫き、次の瞬間には引き抜かれた。
一拍おいて血があふれ出し、夜目にも赤く地面に滴った。
痙攣する指から、グリップが離れて落ちる。
彼は傷を押さえ、前のめりに倒れ込んだ。
「鈴木……!」
「無様だな、人間」
慌てて這い寄り、優人を庇った桜花に向かって、血に染まったサーベルを振りながらプロメテウスは言った。
「お、桜花! 逃げろ!」
背後では、俊一郎が、二体を一度に相手にして圧されている。
とても、助けを求められるような状況ではない。
プロメテウスは、呻く優人を、虫けらでも見るような目で見下ろし、
「こんな者のことは情報にはなかったが……まあ、いい」
すぐに桜花に視線を戻すと、嗜虐的に笑う。
「おまえがミヤマの女か? たわいないものだな……
ふふ、わたしの前にひざまずいて慈悲を請えば、愛玩用に生かしてやらんでもないぞ。
我が君は、きっとお許し下さるだろう」
「ふ……ざけんな……」
桜花は呻いた。
その声は弱々しくとも、断固たる意思がこもっている。
「おまえみたいな、蚊トンボ野郎に、膝つかされるくらいなら……死んだほうがましだ……!」
「口の減らん女だな」
ぐいと喉元をつかまれ、息が詰まった。
片手だけで軽々と引き起こされ、爪先が地面に擦れる。
桜花はもがき、スーツの腕に必死に爪を立てたが、プロメテウスは蒼白い顔ににんまりと笑みを浮かべただけだった。
じわりと首を絞めつけられ、桜花は喘いだ。
「あの山猫の男のように、ずたずたになって死にたいか?」
(お……音也……)
桜花の目の端から、涙が流れた。
それは、哀しみと怒りの涙だった。
哀しみは、友の死に。
そして、怒りは、自分のふがいなさに――
プロメテウスは、その涙の意味を読み違えた。
「かわいいじゃないか、ええ?」
力を失った桜花の身体をぐいと引き寄せて、口付けを仕掛けようとする。
その死体のような顔が目の前に迫った瞬間、桜花は、相手の唇に思い切り噛みついた。
口いっぱいに腐肉の味が広がる。
プロメテウスは獣じみた咆哮をあげ、桜花を地面に叩きつけた。
「は……はは!」
倒れたまま、激痛のなかで、桜花は敵をあざ笑った。
「このあたしに、気安く触るんじゃない……!
気持ち悪いんだよ、蚊トンボ野郎が!」
「こっ、この、雌豚がぁっ……!」
怒り狂ったプロメテウスが目を血走らせてサーベルを振り上げた、その瞬間。
戦場に、すさまじい絶叫が響き渡った。