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決断

      * 



「悪いけど、もう一度言ってくれるかい?」


 少年は、微笑んで言った。

 邪気の欠片も感じさせない、人の心を蕩かすような笑みだ。


「ねえ、プロメテウス。彼は、何て言ったの?」


「……夜明けに、いったん全ての部下を引き揚げさせていただきたい。

 人間も含めて、全員を」


 少年と向き合った音也おとやは、無表情に言った。

 少年のかたわらに控えたプロメテウスが、もったいぶったような表情で通訳をつとめている。

 音也は内心、その顔を噛み砕いてやりたくてたまらなかった。


「どうして、そんなことをしなくちゃならないんだい?」


「深山の一族の当主と、その娘が、あなたがたの獲物と行動を共にしております。

 深山の一族には、危害を加えぬこと――

 これが、狩りの条件だったはず」


「危害を加える?

 ひどいな。僕たちは、そんなことしやしないよ」


 天使の笑みがますます大きくなった。


「第一、そのふたりは、その気になれば、いつでも出てこられるんだ。

 バシレイオスを滅ぼし、ここを塞いでいる魔術を解除するだけでいいんだからね。

 彼女たちは、自分の意思で、あいつと一緒に閉じこもっているんだよ?」

 

 音也は、ぎりりと歯を食い縛った。

 ――あの鬼と、桜花が共にいると思うだけで、嫉妬に気が狂いそうだった。


(桜花殿……)


 この焼けつくような想いに、少女は、今も気付いてはいないだろう。

 自分が、そう仕向けたからだ。


 いつも軽口めかして誘いのことばをかけ、気安いふりをして、そっと肌に触れた。

 ああ、そのたびに、この胸がどれほど高鳴り、張り裂けるように痛んだことか……


 そうだ、これまでずっと、渇仰しながらも得られなかった。

 かつて、幾人もの人間の女を意のままに籠絡してきた自分が――

 あの少女と向かい合ったときだけは、あと一歩を、踏み込むことができなかった。


 それは、拒絶されることが怖かったから。

 心から、愛おしいと思ったから――


 情欲を満たすためにではなく相手を愛したのは初めてだった。

 いつからだったのか、思い出せない。

 わずかに十数年を生きただけの人間の少女に、なぜ、こんなに惹かれるのかもわからなかった。


 ただ、彼女が傷付くと心が軋むようで、彼女を守ることを誇りに思った。

 そのためならば、苦痛すらも心地良かった。


(それなのに……なぜだ!

 わたくしには振り向いて下さらぬのに、あのような者と……)


 人と、人ならざるモノという壁が彼女をよそよそしくさせていると思えばこそ、今までは耐えることができた。

 それなのに――


(許さない)


 それなのに、なぜ、あの鬼とだけは――


(あのような者の手に落ちて、わたくしのものにならぬのなら……いっそ……)


 殺して、しまおうか?


 その考えは、甘い毒のように一瞬で彼の心を侵していった。


 誰にも渡してなるものか。

 わたくしのものだ。

 そうだ、力ずくで組み伏せ、引きむしり、愛して、愛して、愛し抜いて――

 二度と誰のものにもならぬように、その喉を噛み裂いてしまおうか――?



『音也』


 そう自分を呼ぶ、ぶっきらぼうな声が聞こえたような気がした。

 にらみつけるようにこちらを見つめてから、不意ににこりと笑う、その表情。


『あんま、バイトに精出しすぎるなよな……

 九郎次の御大にどやされるぞ?』


『どけっ、音也アアアァッ!』


『ありがと。あの加勢は、助かったよ……』



 音也は、目を見開いた。


 ――自分は、今、いったい何を考えたのか?

 あろうことか、彼女を、この手で――

 そんなことを考えるなど、わたくしは、気でも狂ったのだろうか。


(……ああ……)


 不意に、気付いた。

 花のようにはかなく、刃のように潔い、人間の少女。


 そうだ……

 その、あまりにも強い輝きに、惹かれたのだ。

 戦いの中で、必死に強く、気高くあろうとする少女の魂の光に。


 あの光を、消させてはならない。

 守り抜くのだ。

 たとえ、その心が、己のもとにはなくとも……


「わたくしに、交渉役を任せていただきたい」


 音也は、決然と言った。


「バシレイオスとやらを引き渡すよう、わたくしが、桜花殿と交渉いたしましょう。

 話し合いによってけりが着くならば、あなたがたも被害を出さずに済むぶん、好都合のはず」


「話し合いだって?」



             * 



 優人の目が、ぐっと細められた。

 相手の真意を見極めようとするかのように。


「つまり、おまえの命をよこすかわりに、こいつらを助けろってことだな?」


「……おい?」


 ほうけたような呟き。

 それが、自分の声だということに気付いて、桜花は驚いた。


「何、言ってるんだよ、レイ……?」


「いいんですよ、桜花さん」


 バシレイオスの口調は静かだ。


 今、わかった。

 この落ち着きは、冷静さのあらわれではない。

 自分自身を、すでに死んだものと見なしているから――

 諦めているからだ。


 彼は、桜花を見ていない。

 優人を――自分を滅ぼす者を、まっすぐに見ている。


「私は、これまで、ずっと逃げ続けてきました。

 私を追っている者たちから。

 自分が犯した罪の重さから。

 自分のなかに存在し続けている、もう一人の自分の声から……

 そろそろ、すべてにけりを着けてもいいころです」


 そして、微笑んだ。


「契約を承諾しますか? ハンター」


「――レイ」


 その声には、滅びを心に決めたバシレイオスを振り向かせるだけの力があった。

 振り向いた彼の顔に、驚きの表情が浮かぶ。


 それとほとんど同時に、桜花が放った渾身の右ストレートが、彼の顔面を思い切り殴り飛ばした。

 俊一郎が「あ」と口を開け、優人も思わず硬直する。


 いかに鍛錬を積んでいるとはいえ、人間の、それも若い娘の腕力だ。

 倒れはしない。

 それでも二、三歩よろめき、目を見開いてこちらを見たバシレイオスを、


「おまえっ……なあぁぁぁに、格好つけてんだ、この大バカ野郎がっ!?」


 桜花は、すさまじい剣幕で怒鳴りつけた。


「おまえが、今までの人生で、どれだけ逃げ回ってきたかは知らないけどな!

 ここで死んだら、そんなもん……

 今までで、最低最悪の逃げだろうがっ!

 だいたい、よく考えろ!

 おまえが死んで、あたしたちがここから出られたとしても、敵の吸血鬼どもは、まるっきり無傷のままなんだよ!

 そいつらは、あたしたちのことを知ってるんだから、絶対、口封じのために、あたしたちを始末しにくるに決まってるだろうが!」


「あ……」


 バシレイオスの目に、しまった、という色が浮かぶ。

 どうやら、本気で失念していたらしい。


「それにな、おまえ!

 鈴木の腕をえらく信用してるみたいだが、こいつ、さっきオヤジのパンチ一発でされちゃったんだぞっ!?

 その程度の奴が、あたしらを守る!? 笑わせるな!

 守るどころか、足手まといになるのがオチだ!」


「し、失礼なことを言うな! あれは――」


 たまらず優人が割り込むが、


「あれは!? あれは、何だよっ!?

 人質までとっといて、パンチ一発で倒されたくせに、今さら言い訳する気か!?」


 牙を剥かんばかりの桜花の剣幕に、うっと口をつぐむ。


「いいか、レイ! ばらばらに出ても、じきに各個撃破されるだけだ。

 こうなったら、取るべき道はひとつしかない……」


 自分よりも、はるかに背の高いバシレイオスの肩をつかんで、桜花は、力強く宣言した。


「おまえも来るんだ。

 ――四人全員で討って出て、敵を殲滅し、下山する!」


 その首筋の真新しい傷、襟元を汚す紅の染み。

 衣服ごしに肩に伝わる体温。

 温かな皮膚の内側で脈打つ、甘い血潮――


「……桜花さん……」


 なぜだろう。

 今、彼女の目は、それらよりもずっと強く、私を惹きつける――


 つかの間見つめあうふたりのかたわらでは、はっと我に返った優人が、怒りを通り越して呆れ果てたという調子で自分を指差している。


「この、俺に……吸血鬼に協力しろっていうのか?」


「まっ、そう、カタく考えるな! 若いんだから」


 ぽん、とその肩に手を置いたのは俊一郎だ。


「吸血鬼と力を合わせて、吸血鬼を倒す。

 な? ――差し引きゼロだ」


「そんな屁理屈があるかっ!」


 怒鳴っておいて、優人は急にしゃがみ込み、髪をぐしゃぐしゃとかきむしり始める。


「どーした、頭痛か?」


「黙れ!

 だが……敵は何人だ? 十人以上だと?

 それほどの数のヴァンパイアをみすみす逃がすのも、ハンターとしては……

 もしも……おまえたちと、協力すれば……」


 一人でぶつぶつと呟いていた優人だが、全員の視線に気付くと、慌てて立ち上がり、こちらに指を突きつけてくる。


「い、言っておくが、俺は、断じておまえらの仲間になるわけじゃないからな!

 たまたま利害が一致した結果、不本意ながら、一時的に行動を共にするだけだ!」


「おっ、何だ、ツンデレってやつか?」


「黙れ! 撃ち殺すぞ!?」


「それじゃ……」


 俊一郎のことばに青筋を立てていた優人は、確認を求めるように問いかけた桜花に、きっとした表情でうなずいた。


「外の連中を始末するまでは、おまえたちと共闘する。

 それから後のことは、後のことだ。

 武器は返してもらうぜ」


 ずかずかとバシレイオスに歩み寄り、その手から銃をひったくる。

 桜花は一瞬、緊張したが、優人がその銃をバシレイオスに向けることはなかった。


「作戦はこうだ」


 そのまま地面にしゃがみ込み、指先で図のようなものを描きながら、いきなり一同に向けて作戦説明ブリーフィングを始める。

 いざ動き出すとなると、迷いのない男だ。


「手持ちに、閃光弾が何発かある。

 吸血鬼が入り口の結界を解くと同時に、俺が照明弾をぶっ放し、敵が混乱したところへ、全員で飛び出す。

 俺は左、深山の親父は右、吸血鬼は、中央を担当。

 深山は援護だ」


「あたしが援護だとっ!? なめんな!」


「なんか、ハリウッド映画みたいになってきたなー……」


 それぞれに感想をもらす深山親子とは対照的に、バシレイオスは沈黙したままだ。

 うなずきもせず、ただ拳を握りしめ、地面を見つめている。


「おい、わかったのか?」


 いらついた調子で、優人が問いかける。

 バシレイオスが、ゆっくりと顔をあげた。


「今の作戦に……少し、修正を加えてください」


 三人の人間たちを見返した、その瞳に、力が戻っている。


「私は中央担当とおっしゃいましたが、位置にはこだわらず、敵のリーダーを発見し次第、そちらを相手にしたいと思います。

 閃光弾の直後に、まず私が出て道をひらきますから、みなさんは、後に続いてください。

 担当する位置はそのまま。

 吸血鬼との実戦経験のない俊一郎さんと桜花さんは、突出しないよう気をつけて。

 三人で、互いに死角を補いながら戦ってください」


「いいだろう」


 優人がそっけなくうなずき、銃弾を入れ替えはじめる。


「レイ」


 ふう、と息を吐いたバシレイオスの横顔を見つめ、桜花は問いかけた。


「武器は、あるのか?」


「ありますよ」


 答えた彼の顔から、すでに迷いの影は消えていた。


「二度と、使うことはないと思っていましたが……

 それも、今夜までですね」



       * 



「ひゃっはははははははは!」


 甲高い笑い声が響いた。

 まったく突然に哄笑し始めた少年吸血鬼を、音也は、唖然として見つめた。


「話し合いなどないのですよ、山猫殿」


 プロメテウスが、にやにやしながら言った。


「この壁は音も、光も通さない。交渉などしようがないのです。

 あの者たちには、いつまででも、ここにいてもらう」


「何だと? それでは……」


 プロメテウスに詰め寄ろうとした音也の肩に、華奢な手がかけられた。


「ああ……ああ、おもしろかったよ、猫ちゃん」


 少年の手だ。

 笑いのためか、ぶるぶると震えている。


 反射的に音也が振り向いたとき、うつむいていた彼は、顔を上げてきた。

 天使の表情に、亀裂が入っていた。

 その背後にちらちらと透けるのは、暗く禍々しい憎悪の炎。

 復讐の期待に燃える、悪鬼の形相――


「じゃあ、そう・・なんだね?

 その子を助けたくて仕方がないって顔をしているよ。

 ――魔物のくせに、君は、その子のことが好きなんだ!」


「な……」


「でも大丈夫!」


 舞台俳優のようにぱっと両腕を広げたかと思うと、大げさに指を立てて言ってくる。


「彼女たちに、そう長いこと不自由な思いはさせないよ。

 ほんの数日、我慢してもらうだけでいいんだ……」


「何を、言っている!? 通訳しないか!」


「そう、おそらく、我が主の仰せの通りでしょうな」


 プロメテウスがまじめくさってうなずいた。


「数日もあれば充分ですよ。

 ……バシレイオスが渇きに狂って、ミヤマの女を引き裂くのにはね!」


「――何だと!?」


「そうすれば、奴は必ず出てくるでしょう!

 守るべき人間を殺してしまった絶望と、血の興奮が《銀の血の王子》を呼び覚ますのです!」


「そして、僕があいつを滅ぼすんだ!

 父さんと兄さんたちの仇! 思い知れ! あっはははははは!」


「貴様らっ……初めから、そのつもりだったな!」


 怒りに身を震わせ、音也は身構えた。

 その身体が不意に、どん、と小さく揺れた。


 怒りの表情が凍りつき、それから、虚ろになった。

 ゆっくりと視線を下げた音也の目に映ったのは、自分の胸から腹にかけて急速に広がってゆく、真っ赤な染みだった。


「お、の……」


 プロメテウスのうなずきを受け、人間の傭兵たちはあっさりとマシンガンのトリガーを絞った。

 連続する銃声。


 音也は、地面にくずおれた。

 かりそめの肉体が溶けるように消え去り、金茶の毛並みをあふれ出る血に染めた山猫の姿で、何とか立ち上がろうともがく。


 それを見下ろし、少年は澄まして言った。


「猫ちゃん、僕たちは、約束を守るよ。

 ミヤマの人間には手を出さない。

 ――僕たちは、ね」


(おのれ……)


 音也の喉からごぼりと血があふれた。

 少年はその様を見つめ、唇を舐めた。


「そういえば、猫の眷属に手を出すなというのもあったんだっけ、プロメテウス?」


「その通りです、我が君」


「ああ……」


 ほっそりとした指を顎に当てて一瞬の思案顔を見せ、やがて、少年はにっこりと笑った。


「それじゃ、これは《銀の血の王子》がやったということにしておこう」


「御意」


 プロメテウスが滑らかな動作でサーベルを抜き放ち、止めの一撃を突き下ろそうとする。


 ――その瞬間、凄まじい閃光がひらめいた。

 それこそが、余人には知られることのない、熾烈な闘争の幕開けであった。



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