逃亡者たち
*
その、十五分後。
深山家の前に、ひとりの男が現れた。
「桜花殿! ……俊一郎殿!」
音也だ。
彼は返事を待たず、鍵のかかっていない勝手口から中へと踏み込んでいった。
室内には、皓々と明かりがともっている。
――だが、誰もいない。
床には、わずかな血の跡。
そして、空気中に漂う、かすかな火薬の臭い……
音也は、蒼然となった。
なぜだ。
この場所で、いったい、何が起こったというのだ?
「桜花殿!?」
家中をくまなく駆け回り、求める姿を探す。
無人だ。
桜花も、俊一郎も――
そして、あの鬼もいない。
「な……なぜ……」
「おやおや、どうなさいました?」
玄関前まで戻り、魂が抜けたような声で呟いた音也の背後から、からかうような声が聞こえた。
「あなたのお友だちは、夜の散歩にでも出かけられたのでしょうか?」
弾かれたように振り向いた音也の目に、音もなくたたずむ十数人の男たちの姿が映る。
先頭でにやにやしているのは、交渉に出てきた、プロメテウスと名乗る吸血鬼だった。
プロメテウスの合図で、男たちがさっと道を開け、残るひとりが進み出てきた。
あの少年だ。
彼は古い家を一瞥するなり、すんなりとした眉を軽くしかめ、控えている男たちに顎をしゃくった。
合図を受けて進み出てきたのは、腰溜めにマシンガンを構えた男ふたりだ。
ひとりは筋骨隆々の傷もち顔。ひとりは、やせた無精ヒゲ。
どちらも、人間だ。
昼間に屋外で活動することのできない吸血鬼が、人間の傭兵を雇うのは珍しいことではない。
金次第で腕を売る輩は、どこにでもいるのだ。
ふたりは無造作にトタンとブルーシートを引き剥がし、土足のままで玄関から踏み込んでいった。
そして、数分もしないうちに戻ってくると、少年に向かってかぶりを振る。
「この家は、完全に無人です。
人間も、そうでない者も、まったく見当たりません」
少年の背後で、プロメテウスが苛立っている。
たかが人間の傭兵ふぜいが主君に直接口をきくなどという行為は、彼にとっては許しがたい冒涜なのだ。
「じゃあ、逃げちゃったんだ……彼は」
念のために傭兵たちを送りこみはしたが、少年はとっくにそのことを感づいていた。
この場所からは、《銀の血の王子》の血の響きが感じられないからだ。
吸血鬼にとって、血とは特別なものだ。
ただ生命の糧であるというだけではない。
血は、書き記された名のように、その主の存在そのものをあらわす。
強力な血統に属する吸血鬼たちは、互いに近付いただけで、微妙に震える音叉の響きのように、相手の血の響きを感じとることもできる――
それでも人間たちを送り込んで確かめずにいられなかったのは、その事実が、彼にとって信じがたいものだったからだ。
「我が君?」
怪訝そうなプロメテウスの呼びかけにも答えず、ついに耐え切れなくなった彼は、星空を仰いで甲高い笑い声を響かせた。
「逃げた! あいつが!
やっぱり《オルラントの魔術》の噂は真実だったんだ。
彼は、本当に変わってしまったんだな。
あのバシレイオス――《銀の血の王子》が、迫る敵を前にしながら、おめおめと逃げ出すなんて!」
「ミヤマの者どもも一緒でしょうか?」
「ああ、おそらくね」
(なぜ……)
音也は、表情を歪めた。
少年の話すことばは音也には分からなかったが、それでも、状況は明白だった。
――彼らに情報を与え、バシレイオスに挑ませ、倒させる。
彼らが勝てばそれでよし、たとえ負けたとしても、山猫たちと深山の一族には何の痛痒もない。
共倒れになってくれれば、最も好都合――
これが、音也の策略だった。
この策にもとづいて、音也は、彼らにバシレイオスの居所を教えた。
そして、万が一にも桜花たちを戦いに巻き込むことのないよう、緊急の仕事の依頼と偽って、音也が彼女たちを安全なところへ連れ出すはずだった――
「噂が確かなら、あいつは『人間に対する贖罪』とかいう馬鹿げた考えにとり憑かれているそうだよ。
守ろうってつもりかな?
ああ、それとも、一人で逃げるのが淋しかったのかもね……」
気楽そうに呟いた少年の両眼に、不意に、深紅の光が燃えあがる。
「逃がすものか」
骨がきしむほどの強さで、拳を握りしめた。
「ここまで追い詰めたんだ。絶対に、逃がしはしないよ……!」
彼は深く息を吸いこみ、目を閉じた。
強靭な意思に従い、あらゆる知覚が急激にその感度を上げてゆく。
人間の傭兵たちは、顔を見合わせて肩をすくめた。
人の身では、今、何が起きているのかを理解することすらできないのだ。
別に、理解したいとも思わない。
彼らにとっては、雇い主の少年の奇妙な行動の理由など、興味の対象ではないのだ。
だが、残りの者たちは違った。
蒼白い顔のプロメテウスをはじめ、残る全員が吸血鬼である。
彼らは皆、主の血を注がれた《息子》たちだった。
彼らは、大気が電気でも帯びはじめたかのように体毛がちりちりと逆立つのを感じていた。
少年の力が高まっているのだ。
「――いたぞ!」
カッと見開かれた深紅の目が、黒々とした山影を映して燃えあがる。
追跡者たちは、風のように駆け出した。
(……桜花殿……)
その最後尾に無言で従いながら、山猫の男は、ただ、愛しい娘のことを思っていた。
(なぜです……桜花殿……)
*
「だああぁぁっ! くそっ」
乱れた動悸と息遣いとを示すように、懐中電灯の光の輪が激しく揺れる。
ここまで、ほぼ真っ暗闇の道なき道を、ひたすらに駆け上がってきたのだ。
毒づきでもしなくては、気力が続かない。
「またかっ……!」
突如、目の前にあらわれた光景に、桜花は再び悪態をついた。
崖だ。
ごく小さなものだが、それでも三メートル近くはある。
「急いで!」
優人を抱えたまま、超人的な跳躍で崖の上に降り立ち、バシレイオスが叫ぶ。
その足元が一瞬ふらついたが、倒れることはなかった。
「急げっつったってなあ!
俺たちゃ、そんな、ホイホイ跳べねーんだよ!」
怒鳴るが早いか、俊一郎はバシレイオスに向かって武器の袋を投げ上げ、崖の真下で馬跳びの『馬』の姿勢をとった。
「桜花、行けっ!」
「おう!」
即座に父の意図を察した桜花は、たたっと数歩下がるが早いか、思い切り助走をつけて、父の背中に飛び乗った。
――が、
「ぐぉ!?」
「うわぁっ!」
足のかけどころがまずかったが、まともにバランスを崩し、父娘そろって派手に転倒する。
「今っ……おまえ、腎……まともに、腎臓に入っ……」
「お、重い! 早くどけよ、オヤジっ!」
「何をなさってるんです、おふたりとも!」
上に優人の身体を残し、バシレイオスがひらりと跳び降りてきた。
そのまま一挙動で俊一郎の身体を引き起こし、崖の上に向かって放り上げる。
「うぉお~っ!? ……あ痛!」
俊一郎の悲鳴にはかまわず、バシレイオスはあっという間に桜花を横抱きにすると、再び軽々と跳躍して崖の上に降り立った。
「コラおまえっ! いくら何でも、扱いが違いすぎやせんか!?」
「細かいことは気にしないでください!
それより、急いで! 目的地は、もうすぐそこです!
……桜花さん、走れますか!?」
「お、おう……!」
再び、過酷な逃避行がはじまった。
時間にすれば、遠山家を出てから、ほんの十分弱。
だが、桜花には、すでに何時間も走り続けているように感じられた。
息があがり、焼けるように痛む喉に血の味がする。
ときどき振り返ってくる俊一郎に、目でうなずきを返すのがやっとだ。
いかに日ごろから鍛えているとはいえ、行く先も知らず、視界もきかない山道を疾走するのはあまりにも辛すぎた。
――それとも、ここ数日の寝不足の祟りか。
足がもつれ、踏み出す一歩一歩が、砂袋でもくくりつけられているかのように重い。
(もう、これ以上は無理だ!)
前をゆく俊一郎の背中が徐々に離れてゆく。
呼ぼうにも、走りながらでは声が出せない。
(もう……限界だ……!)
「――着いた!」
今にも桜花が膝をつきそうになったとき、バシレイオスの叫び声が耳に届いた。
逃亡者たちの前に、巨大な洞窟が、ぽっかりと暗い口を開けていた。