命を賭して
バシレイオスは、かすむ目を必死に見開き、状況を判断しようとした。
桜花が、こちらを見ている。
何か言いたそうだが、口を粘着テープで塞がれているために声になっていない。
桜花の肩に腕を巻きつけ、その手で首筋に短剣を当てているのは、見たこともない若い男だった。
男のもう一方の手には、消音器つきの拳銃が握られている。
《ハンター》だということは、すぐにわかった。
彼が手にした短剣は、特別な魔術を施されたものだ。
刃のまわりでエネルギーの火花が脈打っているのが見える。
そして、罪人を縛るように桜花の自由を拘束しているロープは、特殊な2層繊維を撚り合わせたもの。
一度、あれに拘束されれば、内側からどれほどの力をかけようとも、引きちぎることはできない。
「ご協力、感謝する」
若きハンターはちらりと俊一郎に視線を送り、落ち着き払った口調で言った。
俊一郎は、苦りきっている。
「言われたとおりにしたぞ、若造。もういいだろ。
……桜花を離せ」
「申し訳ないが、まだだ。そいつに止めを刺すまでは。――下がって」
桜花が唸った。
彼女は自分を捕らえている若者を恐ろしい目つきで睨みつけ、それから父親を見て、小さく首を振った。
彼女の目から涙が流れ、首筋から一筋の血が滴って、襟元を赤く染めた。
(ああ……)
何にもまさる、乙女の生き血。
その香りに喉が鳴った。
視線が離せなくなる。
ああ、一滴でもいい。どうか、どうか――
駄目だ!
「……か……あっ……」
びくりと指先が動き、かすれた声が漏れた。
「まだ、声が出せるのか」
優人は驚いたように呟いた。
俊一郎に命じてグラスの内側に塗らせたのは、師匠直伝の麻痺毒だ。
ほぼ無味無臭だが、人間に摂取させれば即座に呼吸停止、心停止で死に至るほどの劇薬だった。
「だが、さすがのあんたも、それ以上は動けないだろう。
――はじめまして。
あんたに会えて光栄だと言うべきなんだろうな、《銀の血の王子》……」
流れるように銃口が動いて、バシレイオスの額を正確にポイントした。
バシレイオスは、魅入られたように、銃口の奥の闇を見つめた。
装填された弾丸の種類は、見えずともわかる。
吸血鬼にとって致命的な弾丸――
銀被甲。
「そして……お別れだ」
あまりにもあっさりと、トリガーは引かれた。
かすかな発射音。
桜花の目が、限界まで見開かれ――
「……貴様」
逆に、優人の目は、ぐっと細められた。
発射された弾丸が食い込んだ先は、台所の壁だ。
壁紙に小さな弾痕がうがたれ、かすかな煙をあげている。
弾道は、ほんの十数センチの差で、目標を逸れていた。
外れたのではない。
発砲の瞬間、優人が、自ら外したのだ。
「何を、してる?」
それまで動くことのなかった俊一郎が、バシレイオスの前に立ちはだかり、真っ向から優人を見返していた。
「むーん……そいつは、非常に、難しい質問だな」
その口調も、立ち方も、とても銃口を向けられている人間とは思えない態度だ。
「正直な話、俺にも、よくわからんのよ。
何が悲しくて、3日ほど前に会ったばっかの、それも、男を庇わなきゃならんのか……
だが、な」
ぼりぼりと、頭をかく。
「こいつは、俺のおふくろと、俺の娘が守ろうとした男だ。
なら……息子として、父親として、当然、それを尊重しなきゃなるまい?」
ユーモラスとさえいえる仕草で肩をすくめてみせた俊一郎に、優人の表情が険悪になる。
桜花の首筋に押しつけられた刃が、じわりと圧力を増した。
「その化け物が、娘の命よりも大切か?」
「いーや。
……だが、今ここでおまえに協力なんぞしようもんなら、俺はあとで、娘にボコボコに蹴られることになるだろうからな。それは避けたい。
それに――」
俊一郎は、にやりと笑った。
「おい、正直、どうなんだ。――撃てないだろ、えっ?
そうでなきゃ、さっき、外さなかったはずだ。
ハンターの掟ってのは、よくは知らんが、もしも、おまえらが、俺たちと同じ倫理観を持ってるなら……
おまえは、こんなふうに正面切って俺を撃つことはできないはずなんだよ」
「……ああ……」
優人は、苦い表情でうなずいた。
「掟、か。確かに、あんたの言うとおりだ。
俺たちは、無関係の人間を狩りに巻き込むことは避けなければならない」
言って――
俊一郎の額に、まっすぐに銃口を向ける。
「だが、化け物の仲間となれば、話は別だ。
これ以上、俺の邪魔をするなら、あんたを、吸血鬼のシンパと見なして処分する」
そこから発射されるであろう弾丸の軌道を思わせる、いささかもぶれることのない、優人の視線。
それが、俊一郎の視線とぶつかり合い、軋み、火花を散らして――
「……くそっ」
先に外したのは、俊一郎のほうだった。
「とんでもねえガキだな。本気で撃つ目ェしてやがる。
ガキが、そんな目ェしてんじゃねえよ。気色悪い……」
「本気だと思うなら、そこをどけ」
「ああ……」
そんな父の声をききながら、桜花はぎゅっと目を閉じた。
見届けなくてはならない。
それが、自分の義務だ。
だが、絶対に見たくなかった。
自分が敗れたために、俊一郎がバシレイオスを売り、そして、バシレイオスが撃ち殺される場面など――
「まあ、ここらへんが潮時だろうな。
……おい、桜花」
その呼びかけが、あまりにもさりげない調子だったため、桜花は反射的に顔を上げた。
そして、見た。
父が、こめかみに一筋の汗を垂らしながら、にやりと笑うのを。
「しくじっても恨むなよ?」
その瞬間。
さまざまな出来事が、立て続けに起こった。
「……おらぁっ! 行っけえぇぇ!!」
いきなり、そう怒鳴りつつ、俊一郎が横ざまに床にダイブする。
ほとんど身体を水平にしての豪快なジャンプだ。
そのまま床で滑らかに前転し、一瞬で壁際の棚のかげに姿を消す。
庇うものがなくなった瞬間、優人が発砲した。
うずくまったままのバシレイオスに、銀の弾丸が命中する――
と、見えたそのとき、バシレイオスの身体が、ふっと霞むようにかき消えた。
吸血鬼の超加速運動。
今までに幾多のハンターたちがその前に斃れてきた、彼らが《空間渡り》と呼ぶ体技だ。
「くそっ!?」
優人は、はじめて動揺の声をあげた。
グラスに仕込んだ毒は、人間の致死量の5倍だったのだ。
まさか、あれで動けるなどとは。
桜花を捕えたまま、慌てて周囲に意識を展開させ――
「遅い、です」
ほんのわずかにかすれた声は、真後ろから聞こえた。
それと同時、バシレイオスの白い手が、恐るべき力で優人の両手首をとらえている。
首筋から刃が離れた瞬間、桜花は素早く膝を曲げ、肩から床に転がって逃れた。
そして――
「食らえッ、このヤロォォォオッ!!!」
入れ替わりに突進した俊一郎の拳が、風を巻く唸りすら上げ、優人のみぞおちにめり込んだ!




