父
「どうも、お邪魔いたします……」
「おう」
土嚢とトタンとブルーシートに覆われた玄関を避け、勝手口で礼儀正しく一礼したレイを出迎えたのは、俊一郎だった。
「あ……」
バシレイオスは、ほんの少し目を見開いた。
出てきたのは、俊一郎ひとりだ。
てっきり、昨日のように、桜花が出迎えてくれるものと思っていたのだが。
「桜花さんは、いらっしゃいますか?」
「さっきまで、いたんだけどな」
太い眉をぐっと寄せて、俊一郎。
「俺にも、よくわからんのだが……
何か、急ぎの用事ができたとかで、晩メシも食わずにどっかへ出かけていきやがった。
おまえ、何か知らんか?」
「えっ? いえ……何も……」
「ふん」
戸惑ってかぶりを振ったバシレイオスに、俊一郎は、視線を逸らして鼻息を吹いた。
男ふたりのあいだに、何とも言えず気詰まりな沈黙が流れる。
大して深い知り合いでもない男同士で、いきなり会話を弾ませろというのも無理な話だ。
ましてや、出会いが出会いである。
「あ……それでは、今夜のところは、おいとましたほうがよさそうですね」
「いや」
取ってつけたように微笑んで言ったバシレイオスを、しかし、俊一郎はぶっきらぼうに引きとめた。
「出る前に、あいつが言っとった。
自分が戻るまで、おまえを待たせとけ、ってな。
勝手におまえを帰したりしたら、俺は、後であいつに蹴られる」
「そ……そうなんですか?」
「うるさいな。そうだっつったら、そうなんだ。ま、上がっとけ」
どかどかと騒がしく廊下を戻ってゆく俊一郎の背中を複雑な表情で見つめてから、バシレイオスは音もなくそのあとに従った。
数歩進んだとき、不意に、視界がぐにゃりと歪み、俊一郎の背中と周囲の光景が溶けてサイケデリックな色の渦になった。
バシレイオスはあえぎ、よろめいて壁に寄りかかった。
――その感触も、もはや鈍くしか伝わってはこない。
だめだ。肉体の機能すべてが低下しつつある。
あんな量の血では足りない。
もっとだ、もっと……
「おい、どうした!?」
色の渦を突き破り、男の顔があらわれた。
薄い皮膚の仮面の下から、網の目のような血管が手招いている。
思わず、喉が鳴った。
熱くほとばしる生命の泉……
脈打つ動脈を切り裂き、そこから噴き出る血を思うさま飲み干したい――
「ゴラァ! しっかりしねえか、レイ!」
――レイ?
『これからは、おまえのこと、レイって呼ぶよ』
そう、そうだ、桜花さん……
彼は、その父親――
「……大、丈夫、です」
うねり狂っていた視界が、ゆっくりと元の通りに落ち着き、バシレイオスは、俊一郎を見返して弱々しく笑った。
「ちょっと……眩暈がしただけですから」
「眩暈!? 吸血鬼のくせに、身体弱えな。
……ま、入れよ」
言った俊一郎が腕を振って示したのは、客用の居間ではなく、台所だった。
壁際にはシンクやら冷蔵庫、食料棚が並び、中央には、四人がけのテーブルがどんとばかりに置いてある。
「そこ、座れ。ちょっと付き合えや」
言いながら、ショットグラスと蒸留酒のボトルを持ち出してきた。
「えっ。いえ、しかし――」
「何だ、おまえ、俺の注ぐ酒が飲めねえってのか?」
ずん、と顔を近づけながらこう迫られては、さすがに断るわけにもいかない。
言われるまま、バシレイオスは俊一郎の向かいの席に腰を下ろした。
「ぐうっといけ、ぐうっと」
注がれた酒に口をつけたバシレイオスは、一瞬、わずかに顔をしかめた。
グラスの中身は、強烈なウォッカだ。
生のままで、まともにあおれば、喉が焼ける。
だが、手を止めたのは本当に一瞬のあいだだけだった。
バシレイオスは顔色も変えず、一息に酒をあおった。
同じく一息にグラスを空けた俊一郎も、この飲みっぷりにはいささか驚いた様子で、目を丸くする。
「何だ、やるじゃねえか」
言いつつ、すかさず二杯目を注ぐ俊一郎だ。
「……ところで、おまえ」
「何でしょう」
「娘のことを、どう思ってる?」
二杯目もあっさりと飲み干したバシレイオスは、そのとたんに激しく咳きこんだ。
「し、失礼。――何ですって?」
「だっから、おまえは、桜花をどう思うかって訊いてんだよ。
ちゃんと、俺の話を聞かねーか、コノヤロー」
俊一郎の鼻の頭が、早くも真っ赤に染まりはじめている。
口調も、独り言を呟くような調子になった。
「おふくろはな――俺のおふくろだが――親父を、愛してた。
そう、愛してたんだ。それは、絶対に間違いねえ……」
詩乃のことだ。
話の脈絡がつかめずに、バシレイオスは黙っている。
「だが、な。そんなおふくろが、ときどき、ふっと遠い目をするんだ。
若いころの話をしてるときなんかにな。
そして、ぷっつりと黙りこんじまう……
そんなときのおふくろの目は、俺や親父を通り越してるようで……
俺は、ガキながらに、こう思ったもんだ。
おふくろは、今、いったい何を……
誰を、見てるんだろうかってな」
俊一郎は、まっすぐにバシレイオスを見据えた。
「あいつは……桜花は、今時ねえくらい、おくての娘だ。
おくてっつうか、硬派っつうか……
男と付き合ったことがねえどころか、気に入りの芸能人のひとりも、いたためしがねえ」
なぜ、彼は、こんな話をするのだろう。
「あいつの気性は、色恋とは無縁だ。
あいつ自身、それを、自負してるふしがある。
だから、俺は言わなかった……
言っても、絶対に、認めやしねえだろうからな」
俊一郎は、ぐびり、ときつい酒を飲み下した。
「ここんとこ……この、二、三日……
あいつは、ときどき、遠くを見てやがる。
あの、目だ。あの目をしてやがるんだ……」
(――桜花さんが?)
グラスを持つ手が、凍りついたように止まっていた。
「おい、どうなんだ、てめえ」
ごつい手が伸びてきて、バシレイオスの腕を強くつかんだ。
酒臭い息がかかる。
「てめえは、桜花のことを、どう思ってやがる」
「私は……」
反射のように、そこまで言った。
だが、そこから先をどう続ければよいのか、自分自身でもわからない。
『私たちは、まるで不器用な子どもね』
かつて、詩乃が口にしたことばが、耳の奥によみがえった。
『自分自身の気持ちすら、思い通りにならずにもがいている……』
出会った当時、わずかに十七年を生きてきただけの彼女は、いつでもバシレイオスを圧倒した。
あの目を向けられると、すべてを見透かされているような気がしたものだ。
彼女に対して抱いていた、あってはならぬ想いまでも……
人と吸血鬼との恋など、かなうはずもなかった。
残酷な渇きが、愛を許さないのだ。
愛すれば愛するほどに、その者の生命の根源を欲する衝動は強くなり――
そして、いつか――
『私には許婚がいるの、バシレイオス。とても優しい人……』
だから、あれでよかったのだ。
彼女の婚礼の夜、彼は、暗い洞窟のなかで眠りについた。
永遠の眠りのつもりだった。
彼女を失いながら、自ら滅びを選ぶことのできなかった自分。
その弱さを詰り、終わることのない絶望に苛まれながら、数千の赤い夢をさまよい――
そして、目覚めの夜。
あの少女に出会った。
少女を一目見たとたん、震えるほどの歓喜が全身を走り抜けた。
それほど、少女の姿は、詩乃の面影を宿していたのだ。
だが、その内面は異なっている。
詩乃は、常に控えめで、抑制的で、他者に心の内をさらけだすということをしなかった。
月の光を浴びて咲く花のようにたおやかでありながら、触れれば切れそうな刃の鋭利さをそなえてもいた。
桜花は、詩乃よりもはるかに荒々しく、率直で、快活な精神の主だ。
こちらを吸血鬼と知りながら、ああまで屈託なく接してくる人間には、会ったことがなかった。
(私は……)
詩乃に似ていたから、惹かれた。
そして――
バシレイオスの目に、深い疲れと哀しみの色が浮かんだ。
彼は俊一郎の目を見返し、静かに答えた。
「私には、それを語る資格はない」
そのことばに、何を感じ取ったのだろうか。
俊一郎は、バシレイオスの腕から手を離し、まじまじとその顔を見つめた。
ややあって、ぼりぼりと頭をかき、ふーっとため息をつく。
「おまえは……いいやつだな」
視線は、斜め下に逸れている。
「残念だよ」
その瞬間、バシレイオスは自分の肉体に異変を感じた。
「え……?」
グラスが、指先から離れてテーブルに転がる。
立ち上がり、後ずさろうとするが、腰がくだけた。
そのまま、ずるずると床に倒れこむ。
呼吸が急速に苦しくなった。
全身が鉛のように重く、もはや、自分の意思ではぴくりとも動かすことができない。
「おまえのグラスに、毒を塗っておいた」
ゆっくりと立ち上がり、俊一郎は言った。
その眼差しには、酔いの気配など欠片もない。
「悪く思うな。どうしようもなかったんだ。
……娘を、人質に取られちゃな」
奥の扉がばたんと開き、縛り上げられた桜花と、その首筋に刃を押し当てた優人が姿をあらわした。