ロスト
『お前は、俺みたいになるなよ』
龍さんはあの日微笑んで、そう言った。
『あはは働き過ぎっすもんねー』
『…こんな風になっちゃ、ダメだ』
『またまた〜デキる男に俺もなりたいっすよ〜』
お世辞ではなく。
俺はずっと龍さんみたいになりたかった。けれど彼はただ目を伏せて首を振り、それを拒んだ。
今日がこんな冬の曇り空で良かった。
窓に映る灰色を見上げながら、俺はあの日の先輩のよく思い出せない横顔の事を考えていた。
この寒空の日から3日前、それが彼を見た最期だった。
「片山くん。もう会えないんだね」
低い読経の波の中からふっと呟きを零す様に美月先輩が言う。
小さな告別式。末席には美月さんと俺が2人だけ。
会社から足を運んだ同僚はそれだけだった。
いや親族や友人もまばらなのだろう。20人も入れば窮屈になる郊外の斎場には空席も目立っていた。
「ウソみたいです、よね…」
嘘だったらどんなに良いだろうか。俺だけでなくたくさんの人達にとって。
報せを受けてから何度となく思った想いが益体もなくまた胸を過ぎる。
「秋重君は、また片山君に…」
美月さんが言いかけた時、
”人殺し!!”
ふいに会場の入り口で男の声がした。
読経の声が止み、龍さんのご両親が強張った様に肩を震わせた。咄嗟の事に振り返ると、初老の男性が斎場の職員に取り押さえられ、目を剥いて叫び続けている。
”人殺し!!”
”人殺し!!”
”人殺し!!”
狂ったように繰り返す言葉に会場は静まり返っていく。
声は黒縁の額の中、桐の柩に横たわる人間だけでなく、この場にいる全ての者を糾弾し、呪うかの様だった。
”人殺し!!”
”人殺し!!”
”人殺し!!”
職員に連れられて行ったのだろう。その声は次第に小さくなっていった。
”娘を返せっっ!”
引き絞られて放たれたその言葉に龍さんのお父さんは崩れ落ち、申し訳ございません。と、いっそ滑稽な位に幾度も幾度もその頭を地にこすりつけた。お母さんはその背中に涙を落とし、声を亡くして号泣した。
たった小さな告別式もそれでおしまいとなった。
ノイローゼに悩んでいた矢先のことだったと聞く。
変調はあった。
毎日夜遅くまで残業して。
飲み会にいつも遅れて来ていた。
彼女と喧嘩したと聞いたのが数ヵ月前。
以来ぷっつりと彼女の話は聞かなくなった。
時折頭を抱えて机に伏せる龍さんを見るようになったのもその頃からだった。
『あいつは強いから大丈夫』
『あいつは出来る男だから何とかするさ』
『あんな素敵なカップルなんだからちゃんと解りあえてるよ』
僕らにとってはありふれた日々の中で。
彼がどれだけの覚悟でその笑顔を浮かべていたのか、その意味も知らず。
根拠のない言葉をみんなは口にしていた。
限界は俺達の無責任な安心の横を何も言わず、擦り抜けて行ったのだった。
”それ”は彼女が新しい恋人と食事を共にした帰り道の出来事だったのだという。
詳しい事情は知らない。
知る事に意味があるとも思えない。
その後、龍さんは程なく橋から身を投げた。
翌日の捜索の結果、大量の睡眠薬を服し、絶対に上がらぬ様重りを身体中に巻き付けていた彼が川底から引き揚げられた。
そう新聞には書かれていた。
「さっきの質問」
「え?」
「言いかけてたでしょ。お葬式の時」
「…ああ」
龍さんが身を投げた現場とされる川辺のテラスに俺達は来ていた。曇り空が映す川面の澱みは、だからこそ何故か救いに思えた。
花束と線香を手向けて小さく祈った後、美月さんは俺の隣でテラスの欄干にもたれ掛かった。
「もう一度。片山くんに会って話したい?」
揺れる様な、大人の様でいて子供の様でもある、ただ純粋な瞳が俺を捉えた。
「……はい。」
「……私もよ。」
「救えたかは…止められたかは分からない」
「でも、せめて話を聞くくらいしたかった」
「暴れさせてあげたかった。死ぬことは、なかったよ」
そう言って美月さんは小さな菊の花束に目を落とした。
「学生の時に、言われた事があります」
「『お前が全てを救えるなんて思い上がりだ』って…」
「……分かってます。だけど」
だけど、ただ。ただ俺は。
「寂しいよ。龍さん。俺は。」
「たまんなく寂しいよ」
美月さんが口をつぐんで俺を見ていた。
罪とは、何だろうか。
罰とは、何だろうか。
赦す事と償う事。
この場合それらは誰のものなのだろうか…分からない。
でもなるべくなら俺は、その答えを出したくなかった。
「あ…」
灰色の空から堪え切れずに雨が降り出す。俺達は雨が世界の景色をほんのり変えてしまうまでそこを動けないでいた。
今日初めての雫が、漸くの様に頬を伝って流れていった。
初めて書きました。はー。短かくまとめるって大変なんですね〜。
あまり意味がない小作ですが、読んで頂いた栄誉に添えて、ご意見&ご鞭撻いただければ大変しあわせです。