表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
少年ロウの観察事件簿  作者: ちわいぬ
第ニ章 洗濯室の視線

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/22

第9話 洗い落とせない

洗濯室は、診療所の裏側にある。


血の匂いが薄くなる場所。

薬の匂いも薄くなる場所。

代わりに、石鹸と湯気と、湿った布の匂いがする。


俺は好きじゃない。

匂いが混ざる。

混ざると、余計なものまで拾う。


それでも来る。


診療助手になったからだ。


包帯。

シーツ。

患者の衣服。

洗って戻すだけで、事故が減る。


事故が減れば、死人が減る。


――理屈は分かる。


でも、ここは俺の居場所じゃない。



「……診療助手?」


背中から声が飛んだ。

振り返ると、洗濯室の女が立っていた。


年は二十代の終わりくらい。

髪はきっちり結っている。

手は荒れているのに、爪だけ整っている。


(爪……)


嫌な連想が走る。

俺はそれを噛み殺した。


女は薄く笑った。


「偉くなったのね」


偉くなった、が褒め言葉じゃない言い方。


俺は返さない。

返すと遊ばれる。


女は布の束を抱えたまま近づく。


「ここ、貴族のお坊ちゃんが来る場所じゃないのよ」


「……俺は貴族じゃねぇ」


言った瞬間、しまったと思った。


“俺”の線を、相手に渡した。


女は嬉しそうに笑う。


「そう。平民よね」


「それで、札だけもらって」


「どこまで勘違いしてるの?」


俺は黙った。


喧嘩する気はない。

でも、逃げる気もない。


女が声を落とす。


「あなた、ここにいると迷惑なの」


「皆が気を遣う。仕事が遅れる」


「帰れば?」


(追い出したい)


直球だ。


俺は言う。


「命令はレナートからしか受けねぇ」


女の笑いが消えた。


「……子爵様を“レナート”って呼ぶんだ」


(人がいない)


ここは裏。

今は俺と女だけだ。


女は一歩近づく。


「調子に乗らないで」


声が低い。

湿った布みたいに重い。


俺は視線を落とした。


女の腰の紐。

結び目が二重。

ほどけにくい。慣れてる。


桶の端。

黒い染み。

洗剤の泡が不自然に乗っている。


(濃い)


泡が濃いのは、隠したい匂いがある時だ。

石鹸の下に、鉄の匂い。


(鍵)


洗濯室に鍵の匂いは要らない。

ここは布だけの場所だ。


女の指先が、無意識に袖口を押さえる。


(何か持ってる)


俺の腹の奥が冷える。


こいつはただのいじめじゃない。

何かを隠してる。


女が言った。


「ねえ」


「あなた、どこから来たの?」


「誰に拾われたの?」


(探り)


俺は答えない。


女が続ける。


「身元証、見せて」


(そこか)


首元の革紐へ視線が飛ぶ。


奪うつもりだ。

奪って、騒ぐつもりだ。


“身元が怪しい”

“診療助手は不適切”

“子爵の判断が軽率”


――そうやって追い出す。


女は笑った。


「ねえ。見せてよ」


「見せないなら、私が引っ張るわよ」


手が伸びた。

その瞬間、俺の中の線が動いた。


(触らせるな)


俺は女の手首を掴まない。

掴めば“暴力”になる。


代わりに、一歩下がる。

そして言う。


「触るな」


女が舌打ちした。


「……生意気」


俺は続ける。


「お前、誰の指示だ」


女の目が一瞬だけ泳いだ。



(来た)



「指示なんかないわよ」


嘘。

嘘の時、人は“理由”を先に出す。

女は言い足す。


「ただ、屋敷の秩序のため」


(秩序)


昨日も聞いた言葉だ。

“規定”と“秩序”の顔をした口実。


俺は、女の爪を見る。

整っている。

でも、右の人差し指の爪が僅かに欠けている。


(……封蝋)


確信が胸の奥に刺さる。

同じ手だ。


俺は、言葉を選んだ。


「お前、薬庫の封、触っただろ」


女の顔が止まる。

止まったのは一瞬。

すぐに怒りが上に浮く。


「何言ってるの」


「洗濯室よ? 私は」


俺は言う。


「洗濯室の石鹸の匂いに、鉄が混じってる」


「鍵の匂いだ」


女の手が背中へ回る。


(隠した)


俺は息を吐いた。


(やっぱり)



女が笑った。


「……子どもが、偉そうに」


「そんな目、誰に習ったの?」


答えない。

答えないで、線を引く。


ここで騒げば、女は“被害者”になれる。

裏方は泣けば強い。



俺は振り返って扉へ向かった。


女が背後で言う。


「出ていけばいいのに」


「あなたがいなくなれば、皆助かるのよ」



扉を開ける瞬間、女が最後に吐いた。


「……閣下も、そう思ってる」



空気が止まった。


(閣下の名を使った)


レナートが言っていた通りだ。

欲は名前を使う。


俺は振り返らずに言った。


「それ、二度と言うな」


女が笑う。


「言うわよ。だって――」



俺は洗濯室を出た。


廊下には人がいる。

人がいる場所では、俺は“子爵様”の札を背中に背負う。


走らない。

騒がない。


でも、忘れない。


洗濯室の女は、俺を追い出したい。

そして、閣下の名を使った。


それだけで十分だ。


報告する。


必要な時だけ。



曲がり角の先に、レナートがいた。


俺は一度だけ、相手の目を見る。

レナートは止めない目だった。


(必要だ)



俺は短く言った。


「……子爵様。洗濯室の女が、俺を追い出そうとしてくる」


レナートの足が止まる。

顔は動かない。


でも、廊下の温度が下がった。


「名前を」


薄い声。


「……知らねぇ」


「特徴は」


「爪が整ってる。右の人差し指が欠けてる」


レナートの沈黙が落ちる。

その沈黙は、怒りの形だ。


「……分かった」


それだけ。

でも俺は分かった。


洗濯室の女は、ただのいじめじゃない。


屋敷の“裏の手”が、

もう一度、閣下の名を使い始めている。


次は、もっと直接に来る。


俺の札を、引きちぎりに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ