第8話 冷える怒り
診療助手の札を持ってから、最初に変わったのは――仕事じゃない。
距離だ。
廊下で目が合う時間が、長くなった。
挨拶の言葉が、増えた。
そのくせ、誰も俺の名前を呼ばない。
診療助手。
札の呼び方だけが先に立つ。
(面倒だ)
俺は札を隠して歩いた。
レナートに言われた通り、必要な時だけ出す。
隠すと、視線は首元へ行く。
革紐へ。
身元証へ。
証拠は二つ。
奪われる理由も二つ。
「ロウ」
背後から呼ばれる。
レナートが来た。
いつも通りの無表情。声も薄い。
「今日は確認がある」
「何の」
「薬庫」
(またかよ)
俺は言い返しかけて、飲み込む。
廊下には人がいる。
「……はい、子爵様」
レナートは振り返らず、淡く言った。
「声が固い」
「他人いるだろ」
「正しい」
それだけ。
レナートは歩き出す。
俺は半歩後ろ。
⸻
薬庫前には、すでに人が集まっていた。
薬庫番。
帳簿係。
研究員が二人。
それと、当主側の男が一人。
見たことがある。
昨日、係が言った「バルドの部下」だ。
ハロルド本人は少し離れて立っていた。
いつも通り静か。
目が刃物みたいに光っている。
「レナート子爵」
薬庫番が頭を下げる。
レナートは淡く頷くだけ。
「状況を」
帳簿係が紙を差し出す。
「封印箱の封蝋が削れていました。今朝の点検で」
レナートは紙を受け取らない。
視線だけで読むように眺める。
「誰が最後に触れた」
帳簿係が答える。
「……当主側の立会いがありました」
当主側の男が一歩前に出る。
「閣下の命で確認しました。規定改定後の整合性を」
言い方が整っている。
整っている言い方は、誰かの台詞を覚えた言い方だ。
(言わされてるか、慣れてるか)
レナートが言う。
「名は」
「オルガと申します」
レナートは淡く続ける。
「オルガ。閣下の命と言ったな」
「はい」
「命令書は」
オルガの喉が動く。
「……口頭です」
口頭。
つまり、証拠が残らない。
レナートは声を荒げない。
顔も動かない。
でも、空気が一段下がった。
(……冷えた)
研究員の肩が、同時に固くなる。
レナートが言う。
「規定を変えた。なら、確認も規定で行う」
「口頭は、規定ではない」
オルガは反射で言い返しかける。
「しかし――」
レナートが遮る。
「黙れ」
声は薄い。
でも、氷みたいに硬い。
俺は内心で息を吐いた。
(これが怒りか)
怒鳴らない。
殴らない。
ただ、場が凍る。
レナートは薬庫番へ視線を移す。
「鍵は」
薬庫番が震える声で答える。
「二重承認後、私が保管しています」
レナートが言う。
「封蝋を見せろ」
薬庫番が小箱を差し出す。
削れた封。
俺の頭の奥が切り替わりかける。
(来るな)
でも、勝手に来る。
削れ方が荒い。
力任せ。
でも、途中で止めている。
(見られたくない痕がある)
俺は一度だけレナートを見る。
許可を取る癖。
レナートは俺を見ない。
見ないまま、淡く言った。
「診療助手。必要なら話せ」
札を出せとは言わない。
役割で呼ぶ。
俺は短く言った。
「これ、刃じゃない」
薬庫番が息を呑む。
俺は続ける。
「削ったの、刃物じゃねぇ。……爪だ」
研究員が顔をしかめる。
「そんな馬鹿な」
俺は言い返す。
「馬鹿でもやる。急いでたら」
削れ方。
粉の散り方。
蝋の欠けの形。
刃なら線になる。爪なら“抉れ”になる。
レナートが聞く。
「なぜ爪だと言える」
「線がない。欠けが丸い。引っ掛けて剥がしてる」
俺が言うと、ざわつく。
でも、レナートが続ける。
「誰の爪だ」
場が止まる。
俺は黙った。
(そこは言えねぇ)
爪の長さ。
手入れ。
指の形。
見た。
さっき。
オルガの指先が妙に綺麗だった。
貴族側の手。
でも、爪が僅かに欠けていた。
(こいつだ)
言ったら、刺される。
刺されるならまだいい。
レナートが面倒になる。
俺は一度だけレナートを見る。
レナートの視線が、初めて俺を捉える。
止めない目。
でも“ここで言うな”の目でもある。
俺は息を吐いて、線を選んだ。
「……昨日、誰かが触った。今日じゃねぇ」
レナートが淡く言った。
「根拠」
「蝋の乾き。削れの周りが白い。今日削ったなら粉が湿る」
俺の言葉を、レナートが“事実”に変える。
「昨日触れた者がいる。つまり、規定改定の直後だ」
レナートがオルガを見る。
「昨日、薬庫に入ったか」
オルガは即答する。
「入っておりません」
(嘘)
俺は黙る。
レナートは淡く言う。
「なら、立会い記録を出せ」
帳簿係が慌てて紙束を探す。
「……あります。ええと……」
見つからない。
見つからないのが答え。
レナートは声を荒げない。
荒げないまま、言う。
「記録がない立会いは、立会いではない」
「閣下の名を使うな。規定を使え」
オルガの顔色が変わる。
「レナート子爵、それは――」
レナートが初めて、言葉の温度をさらに下げた。
「私は、閣下の名を守っている」
「貴様は、閣下の名を汚している」
誰も息をしない。
怒鳴っていない。
でも、叩きつけるより重い。
(凍る)
ハロルドが一歩前に出た。
「レナート子爵。……私から閣下へ報告いたします」
レナートが言う。
「私が行く」
ハロルドの目が僅かに動く。
「……承知しました」
当主側の空気が、ほんの少し揺れる。
レナートは薬庫番に言った。
「封印箱は移す。鍵は二本とも私が預かる」
薬庫番が震えながら頷く。
「は、はい……」
レナートが俺を見る。
「来い」
廊下には人がいる。
俺は短く答える。
「……はい、子爵様」
(封は、守るためのものじゃない)
俺は一瞬だけ、封蝋を見る。
伯爵家の封は、中身を守るためにあるんじゃない。
誰が触れたか。
誰が許したか。
その線を、逃げられない形で残すためだ。
レナートがここで封を開けるのは、
“盗まれたか”を確かめるためじゃない。
もう一線は越えられている。
だから次は、
誰がどこまで踏み込んだかを確定させる。
開ける権限を持つ者。
止められる者。
黙る者。
――その全部を、同じ場所に並べる。
封蝋が割れた瞬間、
この家の「内側」が、表に出る。
レナートは歩き出す。
俺は半歩後ろ。
⸻
当主室の前。
ここは線が変わる場所だ。
レナートが扉を叩く。
「入れ」
中へ。
伯爵が机にいる。
目だけ動く。
「レナート」
呼び捨て。
レナートが一礼する。
「閣下。薬庫の封印に不正がありました」
伯爵の視線が僅かに鋭くなる。
「誰だ」
レナートは淡々と答える。
「当主側の立会いと称する者です。記録がありません」
伯爵が言う。
「口頭か」
「はい」
伯爵の沈黙が落ちる。
その沈黙が、処分の音だ。
レナートが続ける。
「規定改定の直後に、封印箱が触られています」
伯爵の視線が、俺に一瞬落ちる。
(秤)
レナートが言う。
「診療助手の観察です」
伯爵が言った。
「喋ったか」
レナートが答える。
「必要な部分だけ」
伯爵は短く言った。
「よい」
褒めない。
ただ、判断する。
伯爵が言う。
「当主側は、私の名を使って動く」
レナートが答える。
「はい」
伯爵が言う。
「なら、切る」
短い。
冷たい。
レナートは敬語のまま確認する。
「対象は」
伯爵が言う。
「立会いの名を持ち出した者」
「ハロルドの管理下も含む」
ハロルドの顔は動かない。
でも、空気が一瞬で固くなるのが分かる。
レナートが言う。
「承知いたしました、閣下」
伯爵が最後に俺を見る。
「診療助手」
俺は一瞬だけ背筋を固くする。
伯爵が言った。
「次に“閣下の指示”が出たら、先に私へ言え」
俺は言った。
「分かった」
伯爵は頷きもしない。
ただ、言う。
「名が付いた者は、名で守る」
それは命令であり、宣言だった。
⸻
当主室を出た廊下で、俺は小さく息を吐いた。
(怖ぇ)
レナートは振り返らない。
「今のを見て、怖いと思ったなら正しい」
「……お前、怒ってたのか」
レナートは淡く言った。
「私は怒っていない」
「ただ、許さない」
その違いが、屋敷を凍らせる。
俺は半歩後ろを守った。
札の重さが、また増えた気がした。




