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少年ロウの観察事件簿  作者: ちわいぬ
第ニ章 洗濯室の視線

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第7話 札の重さ

木札は軽い。

軽いのに、手が重くなる。


「診療助手」


ただの二文字。

でも、それで屋敷の中の線が変わる。


俺は客間に戻っても、落ち着かなかった。


首元の革紐と、掌の木札。

二つの“証拠”。


証拠は、守りになる。

守りになるものは、奪われる。


(……面倒だ)



翌朝。


診療所の廊下に出た瞬間、空気が変わった。


昨日までの視線は「見ないふり」だった。

今日は「確認」だ。


――札があるか。


俺の掌を見る目。

革紐を見る目。

そして、俺の赤い髪を見る目。


研究員の一人が、短く頭を下げた。


「……診療助手」


呼び方がぎこちない。


俺は返事をしない。

返事をすると、角が立つ。


角が立つと、今度は“診療助手”が問題になる。


足音が近づく。


レナートが歩いてくる。


いつも通り無表情。

でも、今日は足音が少しだけ早い。


「ロウ」


「……何だよ」


「札は」


俺は木札を見せた。


レナートはそれを一度だけ確認して、言った。


「隠せ」


「は?」


「表に出すな。必要な時だけ出せ」


伯爵の言葉と同じだ。

名は守りになる。

でも、争いも呼ぶ。


レナートは淡い声で続けた。


「札を見せれば、相手は“札”に話しかける」


「お前に話しかけなくなる」


「それが楽なら、そうしろ」



俺は舌打ちを飲み込んだ。


「……楽じゃねぇ」



レナートは一拍置いた。


「分かっている」



それだけ。



レナートは俺に袋を渡した。

中身は紙と、薄い板と、封蝋。


「今日の仕事だ」


「診療助手の?」


「診療助手の」


薄い声で、断言する。


レナートは歩き出した。

俺は半歩後ろ。



診療室。


家紋付きの患者が座っていた。


顔色が悪い。

付き添いは二人。

どちらも、品のいい服を着ている。


(貴族だな)


市民の匂いじゃない。



レナートが挨拶する。


「体調は」


患者が答える。


「夜が眠れません。胸が……苦しい」


レナートは淡々と問診を続ける。


症状。

食事。

睡眠。

薬歴。


俺は黙って立つ。

立っているだけで、情報が入る。


付き添いの指が、何度も同じ場所を叩く。


焦ってる。

隠したい話がある。


患者の袖口。

薄い粉。

香料。


(薬を自己判断で足したな)


でも、言わない。


レナートが脈を取りながら言う。


「薬包を出して」


付き添いが薬包を差し出した。


俺は匂いで分かる。


――昨日の“研究用”に近い匂い。


(またかよ)


俺の腹の奥が冷える。



同じ事故は、二度目から“事件”になる。


レナートが薬包を開く前に、俺は一度だけレナートを見た。


レナートの目が俺を捉える。


止めない目。

“必要か”の確認の目。


俺は短く言った。


「これ、混ざってる」


付き添いが反射で言う。


「な、何を――」


レナートが遮る。


「黙れ」


薄い声。

それだけで、黙る。



レナートは薬包を開き、匂いを確かめた。


ほんの一瞬だけ、眉が動く。


「……鎮静に、別の粉が混ざっている」



付き添いの喉が鳴る。


「そんなはずは……!」



レナートが言った。


「“そんなはずがない”のは、記録が正しい場合だ」


「混ざる理由は二つ。誰かが混ぜたか、勝手に足したか」


付き添いの指が止まる。


(勝手に足した方だな)



レナートは俺を見ない。

見ないまま、俺の言葉を拾う。


「診療助手。見たことを」



俺は短く言った。


「袖に粉。香料で隠してる」



付き添いが青くなる。


「……私は、患者のために……」



言い訳は、善意の顔をして出る。


レナートは淡々と言う。


「善意でも、事故は起きる」


「薬を勝手に足すな。混ぜるな。――殺す気か」



言葉だけは鋭い。

声は薄いまま。


患者が俯く。


「……眠れなくて。怖くて」


怖い。

それは本当だ。


俺は胸の奥が少しだけ痛くなる。


でも、線は引く。


やっていいことと、やっちゃいけないこと。



レナートが言った。


「薬を預かる。今日から、私の指示以外で触るな」


付き添いが唇を噛んで頷いた。


レナートが俺に言う。


「記録」



俺は紙を出す。


札を見せない。

診療助手の名乗りもしない。


ただ、レナートの後ろで、記録を取る。


それが、今の俺の仕事だ。



診療室を出た廊下。

レナートが言った。


「今の判断は正しかった」


「当たり前だろ」


「当たり前にできない者が多い」


薄い声。

でも、少しだけ疲れてる。


俺は訊いた。


「閣下の側のやつら、まだ動いてんのか」



レナートの足が止まる。

止まって、言った。


「動く」


「規定を変えても、欲は残る」


「欲は、名前を使う」


(閣下の指示、ってやつ)



レナートは続けた。


「だから札を与えた。札があれば、お前の言葉は“役割”になる」


「役割は、命令に繋がる」


俺は息を吐いた。


「……じゃあ、俺は道具かよ」



レナートは否定しない。

否定しない代わりに、言う。


「道具は守る」


「壊れたら困るからではない」


「壊れたら、誰かが死ぬからだ」


俺は黙った。


この人の優しさは、いつも理屈の形をしている。



廊下の先に、ハロルドが立っていた。


いつも通り静かに。


「レナート子爵」



呼び方が公的で、硬い。

それが伯爵家の側の空気だ。


レナートが言った。


「ハロルド」


「閣下が、お呼びです」


レナートの目が僅かに細くなる。


「今か」


「はい」



俺は木札を握り直した。

札の重さが、少し増えた気がした。



レナートが言った。


「来い」


俺は一瞬だけ言い返しかけて、飲み込む。


ここは廊下だ。

他人がいる。


俺は短く答えた。


「……はい、子爵様」



レナートは振り返らない。


「必要な時だ」


俺は半歩後ろに戻った。


名を付けられた。


その名が、今度は――

伯爵の秤の上だけじゃなく、屋敷全体の火種に触れ始める。

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