第7話 札の重さ
木札は軽い。
軽いのに、手が重くなる。
「診療助手」
ただの二文字。
でも、それで屋敷の中の線が変わる。
俺は客間に戻っても、落ち着かなかった。
首元の革紐と、掌の木札。
二つの“証拠”。
証拠は、守りになる。
守りになるものは、奪われる。
(……面倒だ)
⸻
翌朝。
診療所の廊下に出た瞬間、空気が変わった。
昨日までの視線は「見ないふり」だった。
今日は「確認」だ。
――札があるか。
俺の掌を見る目。
革紐を見る目。
そして、俺の赤い髪を見る目。
研究員の一人が、短く頭を下げた。
「……診療助手」
呼び方がぎこちない。
俺は返事をしない。
返事をすると、角が立つ。
角が立つと、今度は“診療助手”が問題になる。
足音が近づく。
レナートが歩いてくる。
いつも通り無表情。
でも、今日は足音が少しだけ早い。
「ロウ」
「……何だよ」
「札は」
俺は木札を見せた。
レナートはそれを一度だけ確認して、言った。
「隠せ」
「は?」
「表に出すな。必要な時だけ出せ」
伯爵の言葉と同じだ。
名は守りになる。
でも、争いも呼ぶ。
レナートは淡い声で続けた。
「札を見せれば、相手は“札”に話しかける」
「お前に話しかけなくなる」
「それが楽なら、そうしろ」
俺は舌打ちを飲み込んだ。
「……楽じゃねぇ」
レナートは一拍置いた。
「分かっている」
それだけ。
レナートは俺に袋を渡した。
中身は紙と、薄い板と、封蝋。
「今日の仕事だ」
「診療助手の?」
「診療助手の」
薄い声で、断言する。
レナートは歩き出した。
俺は半歩後ろ。
⸻
診療室。
家紋付きの患者が座っていた。
顔色が悪い。
付き添いは二人。
どちらも、品のいい服を着ている。
(貴族だな)
市民の匂いじゃない。
レナートが挨拶する。
「体調は」
患者が答える。
「夜が眠れません。胸が……苦しい」
レナートは淡々と問診を続ける。
症状。
食事。
睡眠。
薬歴。
俺は黙って立つ。
立っているだけで、情報が入る。
付き添いの指が、何度も同じ場所を叩く。
焦ってる。
隠したい話がある。
患者の袖口。
薄い粉。
香料。
(薬を自己判断で足したな)
でも、言わない。
レナートが脈を取りながら言う。
「薬包を出して」
付き添いが薬包を差し出した。
俺は匂いで分かる。
――昨日の“研究用”に近い匂い。
(またかよ)
俺の腹の奥が冷える。
同じ事故は、二度目から“事件”になる。
レナートが薬包を開く前に、俺は一度だけレナートを見た。
レナートの目が俺を捉える。
止めない目。
“必要か”の確認の目。
俺は短く言った。
「これ、混ざってる」
付き添いが反射で言う。
「な、何を――」
レナートが遮る。
「黙れ」
薄い声。
それだけで、黙る。
レナートは薬包を開き、匂いを確かめた。
ほんの一瞬だけ、眉が動く。
「……鎮静に、別の粉が混ざっている」
付き添いの喉が鳴る。
「そんなはずは……!」
レナートが言った。
「“そんなはずがない”のは、記録が正しい場合だ」
「混ざる理由は二つ。誰かが混ぜたか、勝手に足したか」
付き添いの指が止まる。
(勝手に足した方だな)
レナートは俺を見ない。
見ないまま、俺の言葉を拾う。
「診療助手。見たことを」
俺は短く言った。
「袖に粉。香料で隠してる」
付き添いが青くなる。
「……私は、患者のために……」
言い訳は、善意の顔をして出る。
レナートは淡々と言う。
「善意でも、事故は起きる」
「薬を勝手に足すな。混ぜるな。――殺す気か」
言葉だけは鋭い。
声は薄いまま。
患者が俯く。
「……眠れなくて。怖くて」
怖い。
それは本当だ。
俺は胸の奥が少しだけ痛くなる。
でも、線は引く。
やっていいことと、やっちゃいけないこと。
レナートが言った。
「薬を預かる。今日から、私の指示以外で触るな」
付き添いが唇を噛んで頷いた。
レナートが俺に言う。
「記録」
俺は紙を出す。
札を見せない。
診療助手の名乗りもしない。
ただ、レナートの後ろで、記録を取る。
それが、今の俺の仕事だ。
⸻
診療室を出た廊下。
レナートが言った。
「今の判断は正しかった」
「当たり前だろ」
「当たり前にできない者が多い」
薄い声。
でも、少しだけ疲れてる。
俺は訊いた。
「閣下の側のやつら、まだ動いてんのか」
レナートの足が止まる。
止まって、言った。
「動く」
「規定を変えても、欲は残る」
「欲は、名前を使う」
(閣下の指示、ってやつ)
レナートは続けた。
「だから札を与えた。札があれば、お前の言葉は“役割”になる」
「役割は、命令に繋がる」
俺は息を吐いた。
「……じゃあ、俺は道具かよ」
レナートは否定しない。
否定しない代わりに、言う。
「道具は守る」
「壊れたら困るからではない」
「壊れたら、誰かが死ぬからだ」
俺は黙った。
この人の優しさは、いつも理屈の形をしている。
廊下の先に、ハロルドが立っていた。
いつも通り静かに。
「レナート子爵」
呼び方が公的で、硬い。
それが伯爵家の側の空気だ。
レナートが言った。
「ハロルド」
「閣下が、お呼びです」
レナートの目が僅かに細くなる。
「今か」
「はい」
俺は木札を握り直した。
札の重さが、少し増えた気がした。
レナートが言った。
「来い」
俺は一瞬だけ言い返しかけて、飲み込む。
ここは廊下だ。
他人がいる。
俺は短く答えた。
「……はい、子爵様」
レナートは振り返らない。
「必要な時だ」
俺は半歩後ろに戻った。
名を付けられた。
その名が、今度は――
伯爵の秤の上だけじゃなく、屋敷全体の火種に触れ始める。




