第4話 内側の火、伯爵の秤
遠回りの廊下を二度通っただけで、屋敷は勝手に噂を作る。
子爵が動いている。
拾いものが後ろにいる。
研究棟の空気が軽い。
軽いのは、浮いてるからだ。
浮いてる空気は、いつか必ず割れる。
昼過ぎ、薬庫の前の人の出入りが減った。
減ったのに、気配は増えた。
隠す気配が増えると、そこに理由がある。
レナートは歩きを止めない。
止めないまま、曲がり角だけを選ぶ。
見せる歩き方。
そして今日は、呼ぶ前に来たやつがいた。
補助係は、呼ばれる前に来た。
廊下の角。
逃げ道が二つある位置。
言い訳が通る距離。
誰かの視線を拾える高さ。
準備してるやつは、嘘が少ない。
少ない嘘は、逆に目立つ。
レナートが足を止める。
「名は」
補助係が頭を下げる。
「カイルと申します、子爵様」
丁寧すぎる丁寧。
それだけで距離が分かる。
レナートが言う。
「昨夜、薬庫に入った」
カイルは否定しない。
否定しない形で受ける。
「出入りは許可の範囲で」
“許可”。
レナートは拾わない。
拾うと、逃げ道が増える。
「匂いを残すな、と言ったな」
カイルの喉が一度動く。
「……言いました」
「誰から聞いた」
カイルは答えない。
答えないのが答えだ。
俺は思い出す。
一話の廊下で嗅いだ甘い匂い。
二話の保管室で嗅いだ甘い匂い。
匂い隠し。
それを知ってる奴が、屋敷の中にいる。
レナートが言った。
「ハロルドか」
側近の名を出す。
カイルの喉がもう一度動いた。
「……当主側より、そのように」
当主側。
レナートの声は薄い。
「なぜ当主側が、私の預かりに関心を持つ」
研究の話をしているようで、
実際に問うているのは“管轄”だった。
カイルは正論を差し出す。
「屋敷は研究成果を守る必要があります」
「守る必要がある。だから抜いていいにはならない」
「盗んではおりません。写しです」
レナートは言った。
「写しなら抜く必要がない」
「抜くのは“原本がある形”を作るためだ」
カイルの顔が止まる。
否定できない時の止まり方。
そして、出した。
「……伯爵のご意向です」
レナートは淡く言う。
「閣下の前で言え」
俺は口を閉じる。
ここから先は、俺が口を挟む場所じゃない。
挟めば、余計な線が増える。
――研究保管室前。
伯爵が立っている。
無口で、動かない。
立っているだけで空気が締まる。
その一歩後ろに、側近がいる。
ハロルド。
当主側の空気。
背中で分かる。
レナートが一礼する。
「閣下」
伯爵は短く言った。
「話せ」
レナートはカイルを前に出す。
「補助係が、灰銀液の研究ノートを“抜いた”件です」
カイルが頭を下げる。
「閣下。ご命令の通り、必要部分を回収しました」
伯爵が言う。
「必要だった」
一言で、場が凍る。
命令だった。
命令なら、歪む。
命令なら、嘘は減る。
でも、火は残る。
レナートは敬語のまま踏み込む。
「閣下。理由を伺います」
伯爵は少し間を置いた。
「未完成だ」
「流させない」
命令で止める型。
レナートは崩さない。
「命令で止めても、欲は残ります」
「次は原液を持ち出します」
伯爵の目が僅かに動く。
レナートが続ける。
「閣下が恐れておられるのは外ではなく内です」
「研究員が功績を欲しがり、派閥を作る」
「だから抜いた」
「功績の核を、閣下の手元に戻した」
伯爵が言う。
「当然だ」
レナートは敬語のまま、否定した。
「当然ではございません」
空気が割れる。
ハロルドが口を挟みかける。
「子爵様――」
レナートが視線だけで止める。
視線で止まる。
それがこの家の怖さの形だ。
伯爵が問う。
「では、どうする」
レナートは即答した。
「規定で縛ります」
「写しを禁じ、原液の出庫は二重承認」
「補助係の権限を整理いたします」
伯爵が言う。
「研究が遅れる」
「遅れて構いません」
「漏れるよりましです」
沈黙。
伯爵は、わずかに頷いた。
「……よい」
許可はレナートに向けたものだ。
俺には向いていない。
でも、今すぐ追い出されもしない。
カイルは息を吐けないまま、頭を下げ続ける。
ハロルドは何も言わない。
言わないが、視線だけで一度、俺を測る。
赤毛。
拾いもの。
屋敷の外。
その視線を切るように、レナートが半歩前に出た。
俺を話題にしない、守り方。
伯爵の視線が、今度は俺に落ちる。
拒絶でも承認でもない。
ただ、量る。
伯爵が言った。
「……今は、名を付けるな」
短い。
重い。
要観察。
それが伯爵の秤だった。
俺は口を閉じた。
言いたいことはある。
でも、今ここで言うのは違う。
レナートの背中が、少しだけ固くなる。
それでも、振り返らない。
俺は半歩後ろを守る。
この家の中で、
一番安全なのは――
今のところ、そこだった。




