第32話 空き部屋の検証
朝の光は、屋敷の廊下を綺麗に見せる。
夜の足音も、声も、紙の擦れる音も――無かったことにできるぐらい、綺麗に。
(こういうのが一番ムカつく)
俺は口に出さない。
口に出すと、噂が増える。
増えるものが多すぎる家だ。
⸻
「ロウ」
レナートが呼ぶ。
いつも通り薄い声。
急ぎじゃない。
「来い」
俺は頷いて、半歩後ろ。
今は研修室区画の鍵付き個室。
客間じゃない。
客じゃないのに、まだ“預かり”のまま。
立場が曖昧だと、人は勝手に線を踏みに来る。
(踏むなら、痕を残せ)
俺の願いはだいたいそれだ。
⸻
研修室区画の前に、管理係がいた。
鍵箱ではない。
昨日から携行している鍵束だ。
顔は真面目。
真面目なやつほど、嫌な役を背負わされる。
レナートが淡々と言う。
「空き部屋を開ける」
管理係が頷く。
「はい、子爵様」
声が硬い。
硬いほど、怖がってる。
(怖いのは俺じゃなくて伯爵だな)
レナートはそれ以上言わない。
命令は短い方がいい。
説明は、逃げ道になる。
俺は管理係の手元を見る。
革紐。
金属輪。
鍵の頭が揃っている。
揃いすぎている。
(揃ってる時ほど、抜かれてる)
俺はまだ言わない。
断定になるからだ。
⸻
個室②。
昨夜、鍵の音がした部屋。
扉の前で、レナートが足を止める。
「昨夜、ここは開けていないな」
管理係は即答する。
「開けていません。携行したままです」
即答は、正しい時もある。
怖くて用意した時もある。
レナートは表情を動かさない。
ただ、目だけが少し細くなる。
「開けろ」
管理係の指が一瞬だけ止まる。
次に、鍵が回る。
――カチ。
(同じ音)
昨夜と同じ、軽い音。
俺は扉の縁を見る。
木のささくれ。
薄い擦り傷。
新しい。
(道具)
鍵じゃない。
鍵穴の周りに、ほんの少しだけ光る粉が付いている。
封蝋の粉じゃない。
紙の粉でもない。
(……金属)
レナートの視線が一瞬だけそこに落ちる。
俺が見ているのを分かっている。
でも止めない。
「入る」
レナートが言って、先に入った。
俺は半歩後ろ。
⸻
中は空っぽだ。
空っぽなのに、空気が“空”じゃない。
夜の匂いが残っている。
石鹸の匂い。
水の匂い。
それに、薄い甘さ。
(洗っても残るやつ)
俺は鼻で息を吐く。
昨夜、手洗い場で洗っても消えなかったのは、これだ。
レナートは部屋を見渡す。
机。
椅子。
棚。
何もない。
何もないのに、床の角だけが不自然に綺麗だ。
(拭いた)
拭いたのに、そこだけ“拭いた”のが分かるのは――雑だからだ。
俺は机の引き出しの取手を見る。
指の跡。
乾いている。
だが、薄く粉が残っている。
封蝋の粉。
(削ったの、ここか)
俺はレナートを見る。
喋っていいか。
レナートの目が、ほんの一瞬だけ「言え」になる。
俺は短く言った。
「封蝋の粉」
「机の引き出し」
管理係が青くなる。
「そんな……ここは……」
レナートが淡々と言う。
「黙れ」
「今は弁明はいらない」
止める声。
でも怒鳴り声じゃない。
屋敷の空気が、少しだけ落ち着く。
レナートは机の縁を指でなぞらない。
触らない。
触ると、匂いが混じる。
だから見る。
目だけで見る。
(見てるときの方が怖い)
俺は床に視線を落とす。
椅子の脚の近く。
薄い線。
椅子を引いた線じゃない。
椅子より細い。
(刃物)
小さな刃。
封蝋を削るやつ。
俺は言わない。
言うと断定になる。
レナートが管理係に言った。
「鍵束を出せ」
管理係が震える手で鍵束を差し出す。
レナートは受け取らない。
「私に渡すな」
「机に置け」
渡した瞬間、責任の線が揺れる。
伯爵家はそういうところだけ、きっちりしている。
鍵束が机に置かれる。
金属輪が鳴る。
その音が、やけに大きい。
レナートが言う。
「昨夜、携行していたのはお前だな」
管理係が頷く。
「はい」
「寝る時もか」
「……寝る時もです」
(持って寝た)
真面目すぎる。
だから狙われる。
レナートが淡く言った。
「記録を出せ」
「鍵の受け渡しと、巡回の記録」
管理係が頷き、すぐ動く。
逃げない。
逃げないやつは、犯人じゃないことが多い。
犯人は、逃げないやつを盾にする。
(……嫌な家)
⸻
レナートは俺に向けて言った。
声は薄い。
だが、命令じゃない。
「昨夜、扉が開いた音は“鍵”だったか」
俺は答える。
「鍵の音だった」
「でも――」
俺は扉の縁を顎で示す。
「道具の痕がある」
管理係がいないのを確認して、俺は続ける。
「鍵じゃなくても、開けられる」
「鍵の音は、真似できる」
レナートの目が一瞬だけ動く。
表情は崩れない。
でも、目だけが驚いた。
(やっぱり分かってなかったんだな)
レナートは小さく息を吐いた。
「……錠前側か」
「合鍵ではなく」
言い切らない。
断定は、逃げ道になるからだ。
レナートが扉に目を向ける。
「ここは“空き”だった」
「空きは、守られない」
俺は心の中で頷く。
守られない場所に、派閥は住む。
レナートが言った。
「空きを潰す」
短い。
だが、決まっている声だ。
⸻
少しして、ハロルドが来た。
当主側の空気。
でも今は、レナートの指示で動いている。
ハロルドが一礼する。
「子爵様」
レナートが言う。
「鍵の記録を取り寄せたか」
「はい。巡回と受け渡しも」
「誰に見せた」
「私と、管理係のみです」
レナートは頷く。
「管理係を責めるな」
ハロルドの眉が僅かに動く。
「承知しました」
レナートが続ける。
「責めれば、口が軽くなる」
「軽くなった口は、派閥の餌だ」
ハロルドは黙って頷いた。
レナートは俺を見る。
目だけで。
「お前はどうする」
聞いてるようで、指示でもある。
俺は短く答える。
「空きを潰す」
「ここ、使われないようにする」
レナートが淡く言う。
「それだ」
それだけ。
褒めない。
でも拾う。
拾う言葉は、残る。
⸻
レナートがハロルドに言う。
「個室②を今夜から用途指定する」
「夜間の物品仮置き」
「立会い必須」
ハロルドが即答する。
「記録を付けますか」
「付ける」
「誰が立会う」
レナートは淡く言った。
「管理係と、当直医と、第三者」
「第三者は日替わり」
「固定にすると狙われる」
(狙われるの、分かってるんだな)
俺は黙って聞く。
レナートが扉を見る。
「錠前は交換する」
ハロルドが頷く。
「今夜のうちに」
レナートは一拍置く。
「……交換までの間」
レナートの声が少しだけ低くなる。
「封をする」
俺は内心で笑いそうになる。
(封蝋に恨みがある家が、封で守るのかよ)
でも理屈は分かる。
封を割ったら、粉が出る。
粉が出たら、靴底に付く。
付いたら、残る。
洗っても残る。
レナートは俺に言った。
「お前は見えるだろう」
「割った時の粉の動きも」
「踏んだ時の癖も」
俺は短く返す。
「見える」
レナートの目が僅かに細くなる。
「今夜は、見るだけでいい」
「止めるな」
「追うな」
(捕まえない)
(記録を揃える)
伯爵家の戦い方だ。
俺は頷く。
「はい、子爵様」
ハロルドが一瞬だけ俺を見る。
赤毛。
目立つ。
だが今は、目立つ方がいい。
目立てば、動く。
動けば、痕が残る。
⸻
部屋を出る前に、レナートが一度だけ振り返った。
個室②。
空きだった場所。
守られない場所。
そこを守ると決めた目。
表情は薄い。
でも、決める時の目は、ちゃんと重い。
「ロウ」
「はい」
「夜に足音が来たら」
「先に私を見る」
俺は口の端だけで笑った。
「分かってる」
止めないためだ。
止めない。
でも管理する。
この家は、そうやって勝つ。
そして今夜――
“空き”が、空じゃなくなる。




