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少年ロウの観察事件簿  作者: ちわいぬ
第三章 伯爵夫人の帰還

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第32話 空き部屋の検証

朝の光は、屋敷の廊下を綺麗に見せる。


夜の足音も、声も、紙の擦れる音も――無かったことにできるぐらい、綺麗に。


(こういうのが一番ムカつく)


俺は口に出さない。

口に出すと、噂が増える。

増えるものが多すぎる家だ。



「ロウ」

レナートが呼ぶ。


いつも通り薄い声。

急ぎじゃない。

「来い」


俺は頷いて、半歩後ろ。


今は研修室区画の鍵付き個室。

客間じゃない。


客じゃないのに、まだ“預かり”のまま。

立場が曖昧だと、人は勝手に線を踏みに来る。


(踏むなら、痕を残せ)


俺の願いはだいたいそれだ。



研修室区画の前に、管理係がいた。


鍵箱ではない。

昨日から携行している鍵束だ。


顔は真面目。

真面目なやつほど、嫌な役を背負わされる。


レナートが淡々と言う。

「空き部屋を開ける」


管理係が頷く。

「はい、子爵様」


声が硬い。

硬いほど、怖がってる。


(怖いのは俺じゃなくて伯爵だな)


レナートはそれ以上言わない。


命令は短い方がいい。

説明は、逃げ道になる。


俺は管理係の手元を見る。


革紐。

金属輪。

鍵の頭が揃っている。


揃いすぎている。


(揃ってる時ほど、抜かれてる)


俺はまだ言わない。

断定になるからだ。



個室②。


昨夜、鍵の音がした部屋。

扉の前で、レナートが足を止める。


「昨夜、ここは開けていないな」


管理係は即答する。

「開けていません。携行したままです」


即答は、正しい時もある。

怖くて用意した時もある。


レナートは表情を動かさない。

ただ、目だけが少し細くなる。

「開けろ」


管理係の指が一瞬だけ止まる。

次に、鍵が回る。


――カチ。


(同じ音)


昨夜と同じ、軽い音。


俺は扉の縁を見る。

木のささくれ。

薄い擦り傷。


新しい。


(道具)


鍵じゃない。

鍵穴の周りに、ほんの少しだけ光る粉が付いている。


封蝋の粉じゃない。

紙の粉でもない。


(……金属)


レナートの視線が一瞬だけそこに落ちる。

俺が見ているのを分かっている。


でも止めない。


「入る」


レナートが言って、先に入った。

俺は半歩後ろ。



中は空っぽだ。

空っぽなのに、空気が“空”じゃない。


夜の匂いが残っている。


石鹸の匂い。

水の匂い。

それに、薄い甘さ。


(洗っても残るやつ)


俺は鼻で息を吐く。

昨夜、手洗い場で洗っても消えなかったのは、これだ。


レナートは部屋を見渡す。


机。

椅子。

棚。

何もない。


何もないのに、床の角だけが不自然に綺麗だ。


(拭いた)


拭いたのに、そこだけ“拭いた”のが分かるのは――雑だからだ。


俺は机の引き出しの取手を見る。


指の跡。

乾いている。

だが、薄く粉が残っている。


封蝋の粉。


(削ったの、ここか)


俺はレナートを見る。

喋っていいか。


レナートの目が、ほんの一瞬だけ「言え」になる。


俺は短く言った。

「封蝋の粉」

「机の引き出し」


管理係が青くなる。

「そんな……ここは……」


レナートが淡々と言う。

「黙れ」

「今は弁明はいらない」


止める声。

でも怒鳴り声じゃない。


屋敷の空気が、少しだけ落ち着く。


レナートは机の縁を指でなぞらない。

触らない。

触ると、匂いが混じる。


だから見る。

目だけで見る。


(見てるときの方が怖い)


俺は床に視線を落とす。

椅子の脚の近く。


薄い線。


椅子を引いた線じゃない。

椅子より細い。


(刃物)


小さな刃。

封蝋を削るやつ。


俺は言わない。

言うと断定になる。


レナートが管理係に言った。

「鍵束を出せ」


管理係が震える手で鍵束を差し出す。

レナートは受け取らない。

「私に渡すな」

「机に置け」


渡した瞬間、責任の線が揺れる。

伯爵家はそういうところだけ、きっちりしている。


鍵束が机に置かれる。

金属輪が鳴る。

その音が、やけに大きい。


レナートが言う。

「昨夜、携行していたのはお前だな」


管理係が頷く。

「はい」


「寝る時もか」


「……寝る時もです」


(持って寝た)


真面目すぎる。

だから狙われる。


レナートが淡く言った。

「記録を出せ」


「鍵の受け渡しと、巡回の記録」


管理係が頷き、すぐ動く。

逃げない。

逃げないやつは、犯人じゃないことが多い。


犯人は、逃げないやつを盾にする。


(……嫌な家)



レナートは俺に向けて言った。

声は薄い。

だが、命令じゃない。

「昨夜、扉が開いた音は“鍵”だったか」


俺は答える。

「鍵の音だった」

「でも――」


俺は扉の縁を顎で示す。

「道具の痕がある」


管理係がいないのを確認して、俺は続ける。

「鍵じゃなくても、開けられる」

「鍵の音は、真似できる」


レナートの目が一瞬だけ動く。

表情は崩れない。


でも、目だけが驚いた。


(やっぱり分かってなかったんだな)


レナートは小さく息を吐いた。


「……錠前側か」


「合鍵ではなく」


言い切らない。

断定は、逃げ道になるからだ。


レナートが扉に目を向ける。

「ここは“空き”だった」


「空きは、守られない」


俺は心の中で頷く。

守られない場所に、派閥は住む。


レナートが言った。

「空きを潰す」


短い。

だが、決まっている声だ。



少しして、ハロルドが来た。


当主側の空気。

でも今は、レナートの指示で動いている。


ハロルドが一礼する。

「子爵様」


レナートが言う。

「鍵の記録を取り寄せたか」


「はい。巡回と受け渡しも」


「誰に見せた」


「私と、管理係のみです」


レナートは頷く。

「管理係を責めるな」


ハロルドの眉が僅かに動く。

「承知しました」


レナートが続ける。

「責めれば、口が軽くなる」


「軽くなった口は、派閥の餌だ」

ハロルドは黙って頷いた。


レナートは俺を見る。

目だけで。


「お前はどうする」

聞いてるようで、指示でもある。


俺は短く答える。

「空きを潰す」

「ここ、使われないようにする」


レナートが淡く言う。

「それだ」


それだけ。


褒めない。

でも拾う。


拾う言葉は、残る。



レナートがハロルドに言う。

「個室②を今夜から用途指定する」

「夜間の物品仮置き」

「立会い必須」


ハロルドが即答する。

「記録を付けますか」


「付ける」


「誰が立会う」


レナートは淡く言った。

「管理係と、当直医と、第三者」

「第三者は日替わり」

「固定にすると狙われる」


(狙われるの、分かってるんだな)


俺は黙って聞く。


レナートが扉を見る。

「錠前は交換する」


ハロルドが頷く。

「今夜のうちに」


レナートは一拍置く。

「……交換までの間」


レナートの声が少しだけ低くなる。

「封をする」


俺は内心で笑いそうになる。


(封蝋に恨みがある家が、封で守るのかよ)


でも理屈は分かる。


封を割ったら、粉が出る。

粉が出たら、靴底に付く。

付いたら、残る。


洗っても残る。

レナートは俺に言った。

「お前は見えるだろう」

「割った時の粉の動きも」

「踏んだ時の癖も」


俺は短く返す。

「見える」


レナートの目が僅かに細くなる。

「今夜は、見るだけでいい」

「止めるな」

「追うな」


(捕まえない)


(記録を揃える)


伯爵家の戦い方だ。


俺は頷く。

「はい、子爵様」


ハロルドが一瞬だけ俺を見る。


赤毛。

目立つ。

だが今は、目立つ方がいい。


目立てば、動く。

動けば、痕が残る。



部屋を出る前に、レナートが一度だけ振り返った。


個室②。

空きだった場所。


守られない場所。

そこを守ると決めた目。


表情は薄い。

でも、決める時の目は、ちゃんと重い。


「ロウ」


「はい」


「夜に足音が来たら」


「先に私を見る」


俺は口の端だけで笑った。


「分かってる」


止めないためだ。


止めない。

でも管理する。


この家は、そうやって勝つ。


そして今夜――


“空き”が、空じゃなくなる。

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