第29話 洗濯室の名
洗濯室の女は、名前がある。
でも、屋敷では「洗濯室の女」で十分だった。
そう呼ばれている時点で、あいつは屋敷の端にいる。
端にいる奴ほど、噂を運ぶのは上手い。
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朝。
管理係が帳簿係と一緒に、研修室区画へ来た。
管理係は眉間に皺。
帳簿係は紙束。
「子爵様の指示です」
帳簿係が淡々と言う。
「洗濯室の人員名簿を確認します」
(名簿)
屋敷の“形”が動く音がする。
洗濯室は湿気と石鹸の匂いで満ちていた。
蒸気が上がり、布が揺れている。
女たちは忙しそうに手を動かす。
口も動く。
噂は、こういう場所で育つ。
帳簿係が声を張る。
「洗濯室責任者は」
年配の女が一歩前へ出た。
「私です。責任者のマルタ」
帳簿係は頷き、紙を見る。
「今週の夜勤当番は」
マルタが答える。
「夜勤はありません。洗濯室は夜は止めます」
(夜勤なし)
つまり、夜に研修室区画へ来る理由がない。
帳簿係は淡々と言う。
「研修室区画へ立ち入った者がいる」
洗濯室が一瞬だけ静かになる。
泡の音だけが残る。
マルタが眉を上げる。
「そんな馬鹿な。うちは医療区域に入れませんよ」
帳簿係が紙をめくる。
「今朝、研修室区画の廊下で診療助手に声をかけた者がいる」
(ここで出すのか)
俺は壁際で黙っている。
マルタが視線を走らせた。
「……あんた、エリン」
女が一人、手を止めた。
細い。
目が鋭い。
俺に絡んできた女だ。
エリン。
(名が出た)
エリンは肩をすくめる。
「声をかけただけよ。話しかけちゃいけない規定でもあるの?」
帳簿係が淡々と言う。
「規定はあります」
「医療区域への立ち入りも、規定があります」
エリンが笑う。
「立ち入ったって、証拠あるの?」
(強いな)
強いのは、嘘をついてる奴の強さか。
慣れてるだけの強さか。
帳簿係は俺を見る。
「診療助手。見たことを」
俺は短く言った。
「研修室区画の廊下で、俺が一人の時に声をかけた」
「鍵のことを言った」
エリンが目を細める。
「鍵?」
「あなた、鍵を持ってるの?」
(また言う)
俺は即答する。
「持ってない」
エリンが小さく笑う。
「じゃあ、何の話?」
(逃げる)
帳簿係は淡々と言った。
「噂の出所を確認している」
「噂って、誰でもするでしょ」
エリンは手を動かしながら言う。
「屋敷は広いんだから」
マルタが低い声で言った。
「エリン、余計なこと言うな」
エリンは肩をすくめる。
「余計じゃないわ」
「だって――」
エリンが俺を見る。
「診療助手って呼ばれてるのに、まだ“預かり”なんでしょ?」
(知ってる)
預かり。
その言葉は、現場の下働きが軽く使う言葉じゃない。
帳簿係の目が細くなる。
「誰から聞いた」
エリンは笑う。
「聞いてない」
「見れば分かるでしょ」
(嘘)
見れば分かる範囲を超えてる。
帳簿係は紙に何か書いた。
エリンは笑って手を動かす。
「ほらほら、仕事が止まる。洗濯が遅れると怒られるわ」
場を崩すのが上手い。
噂を運ぶのも、こういう奴だ。
帳簿係は淡々と言う。
「エリン。今後、医療区域への立ち入りは禁止」
エリンが首を傾げる。
「もともと禁止でしょ?」
「“繰り返し”を禁止する」
帳簿係は冷たい声で言った。
「次は処分対象です」
洗濯室の空気が少しだけ硬くなる。
でも重くはならない。
泡の音が戻る。
エリンは笑ったまま、布を絞った。
「怖いわねえ。伯爵家は」
(お前が怖い)
俺は心の中でそう言って、黙った。
⸻
その夜。
レナートは淡々と報告を聞いた。
エリン。
洗濯室。
預かりという言葉。
鍵の噂。
レナートは一拍置いて言った。
「当主側の補佐官、ラセルの周辺を洗う」
「繋がるなら、そこだ」
(繋がる)
ようやく線が一本になる。
洗濯室の女は、ただの意地悪じゃない。
噂を運び、鍵を試し、備品室を開ける。
その手が届く場所に、誰かがいる。
――伯爵家の派閥の匂いが、濃くなってきた。




