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少年ロウの観察事件簿  作者: ちわいぬ
第三章 伯爵夫人の帰還

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第29話 洗濯室の名

洗濯室の女は、名前がある。


でも、屋敷では「洗濯室の女」で十分だった。

そう呼ばれている時点で、あいつは屋敷の端にいる。


端にいる奴ほど、噂を運ぶのは上手い。



朝。


管理係が帳簿係と一緒に、研修室区画へ来た。


管理係は眉間に皺。

帳簿係は紙束。

「子爵様の指示です」


帳簿係が淡々と言う。

「洗濯室の人員名簿を確認します」


(名簿)


屋敷の“形”が動く音がする。


洗濯室は湿気と石鹸の匂いで満ちていた。

蒸気が上がり、布が揺れている。


女たちは忙しそうに手を動かす。

口も動く。


噂は、こういう場所で育つ。


帳簿係が声を張る。

「洗濯室責任者は」


年配の女が一歩前へ出た。

「私です。責任者のマルタ」


帳簿係は頷き、紙を見る。

「今週の夜勤当番は」


マルタが答える。

「夜勤はありません。洗濯室は夜は止めます」


(夜勤なし)



つまり、夜に研修室区画へ来る理由がない。


帳簿係は淡々と言う。

「研修室区画へ立ち入った者がいる」


洗濯室が一瞬だけ静かになる。

泡の音だけが残る。


マルタが眉を上げる。

「そんな馬鹿な。うちは医療区域に入れませんよ」


帳簿係が紙をめくる。

「今朝、研修室区画の廊下で診療助手に声をかけた者がいる」


(ここで出すのか)



俺は壁際で黙っている。


マルタが視線を走らせた。

「……あんた、エリン」


女が一人、手を止めた。


細い。

目が鋭い。

俺に絡んできた女だ。


エリン。


(名が出た)


エリンは肩をすくめる。

「声をかけただけよ。話しかけちゃいけない規定でもあるの?」


帳簿係が淡々と言う。

「規定はあります」

「医療区域への立ち入りも、規定があります」


エリンが笑う。

「立ち入ったって、証拠あるの?」


(強いな)


強いのは、嘘をついてる奴の強さか。

慣れてるだけの強さか。


帳簿係は俺を見る。

「診療助手。見たことを」


俺は短く言った。

「研修室区画の廊下で、俺が一人の時に声をかけた」

「鍵のことを言った」


エリンが目を細める。

「鍵?」

「あなた、鍵を持ってるの?」


(また言う)


俺は即答する。

「持ってない」


エリンが小さく笑う。

「じゃあ、何の話?」


(逃げる)


帳簿係は淡々と言った。

「噂の出所を確認している」


「噂って、誰でもするでしょ」

エリンは手を動かしながら言う。

「屋敷は広いんだから」


マルタが低い声で言った。

「エリン、余計なこと言うな」


エリンは肩をすくめる。

「余計じゃないわ」

「だって――」


エリンが俺を見る。

「診療助手って呼ばれてるのに、まだ“預かり”なんでしょ?」


(知ってる)


預かり。

その言葉は、現場の下働きが軽く使う言葉じゃない。


帳簿係の目が細くなる。

「誰から聞いた」


エリンは笑う。

「聞いてない」

「見れば分かるでしょ」


(嘘)


見れば分かる範囲を超えてる。

帳簿係は紙に何か書いた。


エリンは笑って手を動かす。

「ほらほら、仕事が止まる。洗濯が遅れると怒られるわ」


場を崩すのが上手い。

噂を運ぶのも、こういう奴だ。


帳簿係は淡々と言う。

「エリン。今後、医療区域への立ち入りは禁止」


エリンが首を傾げる。

「もともと禁止でしょ?」


「“繰り返し”を禁止する」

帳簿係は冷たい声で言った。

「次は処分対象です」


洗濯室の空気が少しだけ硬くなる。

でも重くはならない。


泡の音が戻る。


エリンは笑ったまま、布を絞った。

「怖いわねえ。伯爵家は」


(お前が怖い)


俺は心の中でそう言って、黙った。



その夜。


レナートは淡々と報告を聞いた。


エリン。

洗濯室。

預かりという言葉。

鍵の噂。


レナートは一拍置いて言った。

「当主側の補佐官、ラセルの周辺を洗う」

「繋がるなら、そこだ」


(繋がる)


ようやく線が一本になる。


洗濯室の女は、ただの意地悪じゃない。

噂を運び、鍵を試し、備品室を開ける。


その手が届く場所に、誰かがいる。


――伯爵家の派閥の匂いが、濃くなってきた。

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