第23話 呼称の戦い
伯爵が決めた。
「呼称は“診療助手”で統一しろ」
つまり――
奥方様の「ロウ捕獲作戦」にも、規定の鎖がかかる。
……かかればいいけど。
⸻
翌朝。
診療所の廊下で、俺は早速つまずいた。
「ロウ」
呼んだのは、若い研究員だ。
(おい)
俺は足を止めて、顔だけ向ける。
研究員は悪気のない顔で続ける。
「昨日の件、すごかったね。匂いで――」
「診療助手」
レナートの声が飛んだ。
薄い声。
でも、よく通る。
研究員が固まる。
レナートは淡々と続ける。
「呼称は統一する」
研究員が慌てて頭を下げる。
「し、失礼しました。診療助手」
(面倒くさっ)
でも、面倒くささが盾になる時もある。
レナートが俺に言う。
「……行く」
「はい」
俺は半歩後ろへ戻る。
⸻
午前の診療。
今日は軽い患者が多い。
貴族の子どもの擦り傷。
食あたり。
咳。
重い話が続くと屋敷の空気が沈むから、こういう日があると助かる。
――助かる、と思った。
「奥方様ご到着!」
廊下の向こうから侍女の声。
(来た)
俺は反射で包帯箱を抱える。
抱えたからって盾にはならないが、気分の問題だ。
伯爵夫人が明るく入ってくる。
「おはよう!」
空気が一段明るくなる。
そして視線が、真っ直ぐ俺に刺さる。
「ロ――」
言いかけた瞬間、伯爵夫人が自分で止まった。
(止まった!?)
伯爵夫人は少し悔しそうな顔で言う。
「……診療助手」
言えた。
言えたけど、声が不満でいっぱいだ。
レナートが淡々と言う。
「奥方様。ご協力に感謝します」
伯爵夫人が頬を膨らませる。
「あなたが堅いからよ」
「堅いのは家のためです」
「分かってるわよ」
分かってるから、余計に悔しい。
伯爵夫人は俺に近づいて、ぐっと顔を覗き込む。
(距離!)
「診療助手。ちゃんと寝てる?」
寝てるかどうか、今聞くな。
俺は短く答える。
「寝てる」
伯爵夫人は嬉しそうに笑った。
「返事が可愛い!」
(可愛いって言うな)
レナートが淡々と言う。
「奥方様。言葉も噂になります」
伯爵夫人が目を丸くする。
「えっ、可愛いもダメ?」
「可愛いは増えます」
伯爵夫人が堪えきれず笑った。
「あなた、本当に面倒ねえ!」
面倒だ。
でも、その面倒が俺の命綱だ。
伯爵夫人は侍女に目配せする。
「じゃあ、お茶はどう?」
(結局それ)
伯爵夫人がにこにこ言う。
「診療助手を“必要な範囲で”お茶に呼ぶの」
レナートが淡々と言う。
「必要な範囲は診療です」
伯爵夫人が即座に返す。
「診療の合間に休憩は必要よ!」
(強い)
俺は内心で、伯爵夫人に軍配を上げかけた。
でもレナートは淡々と、別の方向から切る。
「奥方様。今、当主側の書記の件で動いています」
伯爵夫人の笑顔が少しだけ消える。
「……また?」
「はい」
伯爵夫人は一拍置いて頷いた。
「分かった。今日は我慢する」
我慢できるのがすごい。
でも伯爵夫人は、代わりに俺へ言った。
「じゃあね、診療助手」
「無理しないでね」
(優しいのが怖い)
伯爵夫人が去る。
俺は息を吐いた。
「……呼称だけで戦争だな」
レナートが淡々と言う。
「統一は必要だ」
「奥方様、きついぞ」
「奥方様は強い」
淡々と認める。
俺は少し笑いそうになる。
この屋敷は、事件だけじゃなく、呼び方でも揉める。
でも――呼び方が統一されるだけで、少しだけ楽になる。
少しだけ、だが。




