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少年ロウの観察事件簿  作者: ちわいぬ
第三章 伯爵夫人の帰還

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第23話 呼称の戦い

伯爵が決めた。


「呼称は“診療助手”で統一しろ」


つまり――

奥方様の「ロウ捕獲作戦」にも、規定の鎖がかかる。


……かかればいいけど。



翌朝。


診療所の廊下で、俺は早速つまずいた。


「ロウ」


呼んだのは、若い研究員だ。


(おい)


俺は足を止めて、顔だけ向ける。

研究員は悪気のない顔で続ける。


「昨日の件、すごかったね。匂いで――」


「診療助手」


レナートの声が飛んだ。

薄い声。

でも、よく通る。


研究員が固まる。


レナートは淡々と続ける。


「呼称は統一する」


研究員が慌てて頭を下げる。


「し、失礼しました。診療助手」


(面倒くさっ)


でも、面倒くささが盾になる時もある。


レナートが俺に言う。


「……行く」


「はい」


俺は半歩後ろへ戻る。



午前の診療。


今日は軽い患者が多い。


貴族の子どもの擦り傷。

食あたり。

咳。


重い話が続くと屋敷の空気が沈むから、こういう日があると助かる。


――助かる、と思った。


「奥方様ご到着!」


廊下の向こうから侍女の声。


(来た)


俺は反射で包帯箱を抱える。

抱えたからって盾にはならないが、気分の問題だ。


伯爵夫人が明るく入ってくる。


「おはよう!」


空気が一段明るくなる。

そして視線が、真っ直ぐ俺に刺さる。


「ロ――」


言いかけた瞬間、伯爵夫人が自分で止まった。


(止まった!?)


伯爵夫人は少し悔しそうな顔で言う。


「……診療助手」


言えた。

言えたけど、声が不満でいっぱいだ。


レナートが淡々と言う。


「奥方様。ご協力に感謝します」


伯爵夫人が頬を膨らませる。


「あなたが堅いからよ」


「堅いのは家のためです」


「分かってるわよ」


分かってるから、余計に悔しい。

伯爵夫人は俺に近づいて、ぐっと顔を覗き込む。


(距離!)


「診療助手。ちゃんと寝てる?」


寝てるかどうか、今聞くな。


俺は短く答える。


「寝てる」


伯爵夫人は嬉しそうに笑った。


「返事が可愛い!」


(可愛いって言うな)



レナートが淡々と言う。


「奥方様。言葉も噂になります」


伯爵夫人が目を丸くする。


「えっ、可愛いもダメ?」


「可愛いは増えます」


伯爵夫人が堪えきれず笑った。


「あなた、本当に面倒ねえ!」


面倒だ。

でも、その面倒が俺の命綱だ。


伯爵夫人は侍女に目配せする。


「じゃあ、お茶はどう?」


(結局それ)


伯爵夫人がにこにこ言う。


「診療助手を“必要な範囲で”お茶に呼ぶの」


レナートが淡々と言う。


「必要な範囲は診療です」


伯爵夫人が即座に返す。


「診療の合間に休憩は必要よ!」


(強い)



俺は内心で、伯爵夫人に軍配を上げかけた。

でもレナートは淡々と、別の方向から切る。


「奥方様。今、当主側の書記の件で動いています」


伯爵夫人の笑顔が少しだけ消える。


「……また?」


「はい」


伯爵夫人は一拍置いて頷いた。


「分かった。今日は我慢する」


我慢できるのがすごい。

でも伯爵夫人は、代わりに俺へ言った。


「じゃあね、診療助手」


「無理しないでね」


(優しいのが怖い)




伯爵夫人が去る。


俺は息を吐いた。


「……呼称だけで戦争だな」


レナートが淡々と言う。


「統一は必要だ」


「奥方様、きついぞ」


「奥方様は強い」


淡々と認める。


俺は少し笑いそうになる。

この屋敷は、事件だけじゃなく、呼び方でも揉める。


でも――呼び方が統一されるだけで、少しだけ楽になる。


少しだけ、だが。

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