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少年ロウの観察事件簿  作者: ちわいぬ
第三章 伯爵夫人の帰還

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第20話 土産話と封蝋

伯爵夫人の「ロウー!」は、屋敷のベルみたいなものだ。


鳴ったら終わり。

こちらの予定は、だいたい潰れる。


……はずなのに。


「奥方様が来る。話を終わらせる」


レナートが淡々と言ったせいで、妙に間に合ってしまうのが腹立つ。



記録室の扉が開く。

伯爵夫人がにこにこ入ってくる。


「いた!」


(いた、じゃない)


伯爵夫人の視線が俺に刺さる。


「ロウ、忙しいの?」


忙しいかどうか、見れば分かるだろ。


紙束。

粉皿。

研究員の顔。

青い顔の書記。


でも伯爵夫人は、そういうのを見ない。

見ないまま、空気を明るくする。


「ねえねえ、夜のお茶の約束、忘れないでね」


俺が返事を探している間に、レナートが淡々と言う。


「承知しています、奥方様」


伯爵夫人が目を輝かせる。


「まあ! あなたから“承知”が出るなんて!」


(そこ?)


伯爵夫人は嬉しそうに笑って、俺を見た。


「ロウも来るわよね?」



俺は小さく息を吐く。


断ると角が立つ。

行くと捕まる。



俺が迷っていると、レナートが淡々と言った。


「診療助手は、必要な範囲で同席します」


(必要な範囲、便利だな)


伯爵夫人は満足げに頷いた。


「分かった! 必要な範囲で可愛がるわ!」


(それは範囲じゃねぇ)


俺は顔に出さないようにした。

伯爵夫人はふと、机の上の封蝋に目を止めた。


「何それ? また封蝋?」


“また”って言った。

この家の封蝋の評判、奥方様の中でも落ちてる。


レナートは淡々と答える。


「毒事件の証拠です」


伯爵夫人の笑顔が少しだけ消える。


「……まだ続いてるのね」


「はい」


伯爵夫人は侍女を見る。


「お茶の支度、少し遅らせましょう」


優しい人は、切り替えも早い。

それでも伯爵夫人は、俺を見て笑う。


「ロウ、あとでちゃんと甘いもの食べさせるからね」


(甘いものは好きだけど、捕まるのは嫌だ)



伯爵夫人が去ると、記録室の空気が戻った。

レナートは淡々と、セドリックへ言う。


「もう一度聞く」


「封を開けたか」


セドリックは青い顔で首を振る。


「……開けていません」


レナートは声を荒げない。


「なら、誰が触れた」


セドリックの喉が動く。


「……私は、封を預かる前に、手渡されました」


「誰から」


「当主側の……補佐官です」


(補佐官)



また当主側。

俺は内心で小さく舌打ちする。


(穴、多すぎ)


レナートが言った。


「名」


セドリックは目を伏せる。


「……オルガの後任です」



後任。

後任が穴を引き継ぐなら、穴は“役職”で残っている。


レナートは淡々と言う。


「名を出せ」


セドリックが震えながら言った。


「……ラセルです」


(ラセル)



名が出た瞬間、帳簿係が反射で紙に書いた。

レナートが言う。


「ラセルが触れた証拠は」


研究員が答える。


「封蝋の線は刃です。手元が震れると、この角度になります」


「慣れている者の線ではありません」


(慣れてない刃)



つまり、急場しのぎ。

急場しのぎは、隠し事がある。



レナートは淡々と結論を置く。


「ラセルは、証拠を入れ替えたか、消した」


セドリックが小さく言う。


「そんな……」


レナートは言った。


「“そんな”は不要だ」


「証拠を残す」


そして俺に言う。


「診療助手。ここまでを記録」


「はい」


俺は紙に書く。


淡々と。


暗くしない。

淡々と書けば、暗さは増えない。


……たぶん。







夜。


応接間。


お茶の匂いがする。

甘い匂いがする。


――捕獲の匂いもする。


伯爵夫人が満面の笑みで待っていた。


「おかえり!」


「さあ座って!」


逃げ道はある。

でも侍女が自然に塞いでいる。


(強い)


俺は椅子に座る。

伯爵夫人が俺の前に皿を置いた。


「旅行のお土産なの」


「この菓子、すごく甘いのよ!」


俺はつい言う。


「……毒じゃないよな」


伯爵夫人が目を丸くして、次の瞬間、声を上げて笑った。


「毒だったら、レナートが先に食べるわよ!」


(そういう問題じゃねぇ)


レナートは、いつも通り淡々としている。


「奥方様。冗談が過ぎます」


伯爵夫人はにこにこする。


「冗談じゃないわ。あなた、昔からそうだもの」


レナートは返さない。


返さないまま、紅茶を一口飲む。

俺も菓子を一口食べる。


甘い。

うまい。


(悔しい)


伯爵夫人が嬉しそうに言った。


「ロウ、もっと食べていいのよ」


俺が皿を見ていると、伯爵夫人が唐突に話題を変える。


「ところでね、今日の封蝋の話」


(仕事に戻るのかよ)



伯爵夫人はにこにこしながらも、目が鋭い。


「当主側がまだ動いているなら、あなたたちだけで抱えないでね」


レナートは淡々と言った。


「はい、奥方様」


伯爵夫人は俺を見た。


「ロウも」


「危ないと思ったら、すぐ言うのよ」


俺は短く答える。


「……分かった」


伯爵夫人は満足げに頷く。


「よし!」


「じゃあ、もう一つ土産話していい?」


(まだあるのか)


伯爵夫人は楽しそうに言った。


「旅先でね、“赤い髪の民族”の話を聞いたの」




俺の背中が一瞬だけ固くなる。


(……は?)




伯爵夫人は悪意なく続ける。


「珍しいのよねえ。赤髪って」


「ロウ、あなたの髪も――」


(まずい)


拾われた頃は、黒く染めていた。

古い染料だ。何日ももたなかったらしい。


気づけば、全部落ちている。

今は隠しようもない赤だ。

話題にされるだけで、面倒が増える。


レナートが淡々と遮った。


「奥方様。その話は後日に」


伯爵夫人がきょとんとする。


「え? どうして?」


レナートは薄い声で言った。


「今は、毒事件の後処理が優先です」


(仕事で切った)


伯爵夫人は少し不満そうにしつつも、引いた。


「分かったわ。じゃあ――」


伯爵夫人が笑う。


「甘いもの、もう一個!」


(結局それか)


俺は苦笑いしそうになって、飲み込んだ。

屋敷の穴も、毒の線も、まだ消えていない。


でも、甘い匂いがあるだけで、

少しだけ世界が軽く見える。


……少しだけ。

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