第20話 土産話と封蝋
伯爵夫人の「ロウー!」は、屋敷のベルみたいなものだ。
鳴ったら終わり。
こちらの予定は、だいたい潰れる。
……はずなのに。
「奥方様が来る。話を終わらせる」
レナートが淡々と言ったせいで、妙に間に合ってしまうのが腹立つ。
⸻
記録室の扉が開く。
伯爵夫人がにこにこ入ってくる。
「いた!」
(いた、じゃない)
伯爵夫人の視線が俺に刺さる。
「ロウ、忙しいの?」
忙しいかどうか、見れば分かるだろ。
紙束。
粉皿。
研究員の顔。
青い顔の書記。
でも伯爵夫人は、そういうのを見ない。
見ないまま、空気を明るくする。
「ねえねえ、夜のお茶の約束、忘れないでね」
俺が返事を探している間に、レナートが淡々と言う。
「承知しています、奥方様」
伯爵夫人が目を輝かせる。
「まあ! あなたから“承知”が出るなんて!」
(そこ?)
伯爵夫人は嬉しそうに笑って、俺を見た。
「ロウも来るわよね?」
俺は小さく息を吐く。
断ると角が立つ。
行くと捕まる。
俺が迷っていると、レナートが淡々と言った。
「診療助手は、必要な範囲で同席します」
(必要な範囲、便利だな)
伯爵夫人は満足げに頷いた。
「分かった! 必要な範囲で可愛がるわ!」
(それは範囲じゃねぇ)
俺は顔に出さないようにした。
伯爵夫人はふと、机の上の封蝋に目を止めた。
「何それ? また封蝋?」
“また”って言った。
この家の封蝋の評判、奥方様の中でも落ちてる。
レナートは淡々と答える。
「毒事件の証拠です」
伯爵夫人の笑顔が少しだけ消える。
「……まだ続いてるのね」
「はい」
伯爵夫人は侍女を見る。
「お茶の支度、少し遅らせましょう」
優しい人は、切り替えも早い。
それでも伯爵夫人は、俺を見て笑う。
「ロウ、あとでちゃんと甘いもの食べさせるからね」
(甘いものは好きだけど、捕まるのは嫌だ)
⸻
伯爵夫人が去ると、記録室の空気が戻った。
レナートは淡々と、セドリックへ言う。
「もう一度聞く」
「封を開けたか」
セドリックは青い顔で首を振る。
「……開けていません」
レナートは声を荒げない。
「なら、誰が触れた」
セドリックの喉が動く。
「……私は、封を預かる前に、手渡されました」
「誰から」
「当主側の……補佐官です」
(補佐官)
また当主側。
俺は内心で小さく舌打ちする。
(穴、多すぎ)
レナートが言った。
「名」
セドリックは目を伏せる。
「……オルガの後任です」
後任。
後任が穴を引き継ぐなら、穴は“役職”で残っている。
レナートは淡々と言う。
「名を出せ」
セドリックが震えながら言った。
「……ラセルです」
(ラセル)
名が出た瞬間、帳簿係が反射で紙に書いた。
レナートが言う。
「ラセルが触れた証拠は」
研究員が答える。
「封蝋の線は刃です。手元が震れると、この角度になります」
「慣れている者の線ではありません」
(慣れてない刃)
つまり、急場しのぎ。
急場しのぎは、隠し事がある。
レナートは淡々と結論を置く。
「ラセルは、証拠を入れ替えたか、消した」
セドリックが小さく言う。
「そんな……」
レナートは言った。
「“そんな”は不要だ」
「証拠を残す」
そして俺に言う。
「診療助手。ここまでを記録」
「はい」
俺は紙に書く。
淡々と。
暗くしない。
淡々と書けば、暗さは増えない。
……たぶん。
⸻
夜。
応接間。
お茶の匂いがする。
甘い匂いがする。
――捕獲の匂いもする。
伯爵夫人が満面の笑みで待っていた。
「おかえり!」
「さあ座って!」
逃げ道はある。
でも侍女が自然に塞いでいる。
(強い)
俺は椅子に座る。
伯爵夫人が俺の前に皿を置いた。
「旅行のお土産なの」
「この菓子、すごく甘いのよ!」
俺はつい言う。
「……毒じゃないよな」
伯爵夫人が目を丸くして、次の瞬間、声を上げて笑った。
「毒だったら、レナートが先に食べるわよ!」
(そういう問題じゃねぇ)
レナートは、いつも通り淡々としている。
「奥方様。冗談が過ぎます」
伯爵夫人はにこにこする。
「冗談じゃないわ。あなた、昔からそうだもの」
レナートは返さない。
返さないまま、紅茶を一口飲む。
俺も菓子を一口食べる。
甘い。
うまい。
(悔しい)
伯爵夫人が嬉しそうに言った。
「ロウ、もっと食べていいのよ」
俺が皿を見ていると、伯爵夫人が唐突に話題を変える。
「ところでね、今日の封蝋の話」
(仕事に戻るのかよ)
伯爵夫人はにこにこしながらも、目が鋭い。
「当主側がまだ動いているなら、あなたたちだけで抱えないでね」
レナートは淡々と言った。
「はい、奥方様」
伯爵夫人は俺を見た。
「ロウも」
「危ないと思ったら、すぐ言うのよ」
俺は短く答える。
「……分かった」
伯爵夫人は満足げに頷く。
「よし!」
「じゃあ、もう一つ土産話していい?」
(まだあるのか)
伯爵夫人は楽しそうに言った。
「旅先でね、“赤い髪の民族”の話を聞いたの」
俺の背中が一瞬だけ固くなる。
(……は?)
伯爵夫人は悪意なく続ける。
「珍しいのよねえ。赤髪って」
「ロウ、あなたの髪も――」
(まずい)
拾われた頃は、黒く染めていた。
古い染料だ。何日ももたなかったらしい。
気づけば、全部落ちている。
今は隠しようもない赤だ。
話題にされるだけで、面倒が増える。
レナートが淡々と遮った。
「奥方様。その話は後日に」
伯爵夫人がきょとんとする。
「え? どうして?」
レナートは薄い声で言った。
「今は、毒事件の後処理が優先です」
(仕事で切った)
伯爵夫人は少し不満そうにしつつも、引いた。
「分かったわ。じゃあ――」
伯爵夫人が笑う。
「甘いもの、もう一個!」
(結局それか)
俺は苦笑いしそうになって、飲み込んだ。
屋敷の穴も、毒の線も、まだ消えていない。
でも、甘い匂いがあるだけで、
少しだけ世界が軽く見える。
……少しだけ。




