第2話 試しの期間
翌日、診療所は何もなかった顔をして動いていた。
変わったのは、人の目だけだ。
俺が廊下を通ると視線が集まり、すぐ外れる。
見て、見ないふり。
(……面倒)
昨日の件は、口に出していない。
出していないのに、空気だけは広がっている。
伯爵家は、だいたいこうだ。
情報より先に、気配が走る。
「ロウ」
レナートが呼ぶ。
いつも通り薄い声。今日は急ぎじゃない。
「来い」
俺は頷き、半歩後ろ。
書類の匂いがする小部屋。
診療所の奥、外から見えない場所だ。
机の上には帳簿が広げられている。
出庫記録。
封の管理簿。
数字だけの世界。
だが、それだけじゃない。
灰銀液の研究ノート管理簿も、並べて置かれていた。
「一部抜け」と書かれている。
“紛失”じゃない。
“回収”に近い言葉だ。
(……内側だな)
レナートが言う。
「灰銀液の原液は、出ていないことになっている」
俺は帳簿の端を見る。
紙の繊維が立っている。
乾き切っていない。
インクが、ほんの少し滲んでいる。
(濡らした。昨日の夜)
俺は口を出した。
「触ってる」
レナートの手が止まる。
「どこを」
「この頁。端」
「昨日じゃない」
レナートは否定しない。
俺の言葉を、そのまま机の上に置く。
「乾かした痕だ」
「急いだ」
「急ぐと、残る」
レナートがページを戻す。
「印がズレている」
俺は頷く。
「押し直した」
レナートは淡く言う。
「押し直しなら二重に出る。出ていない」
俺は言わない。
断定すると、逃げ道を作る。
レナートが言った。
「まだだ。騒がない」
(試し)
俺は息を吐く。
使う気はない。
でも、離す気もない。
レナートは引き出しから紙片を出す。
昨日、研究保管室で拾ったものだ。
研究ノートの切れ端。
「これと同じ紙は、どこで手に入る」
「研究員」
「書記」
「薬庫番」
レナートが頷く。
「誰でも触れる」
「だが、抜くのは違う」
俺は短く言った。
「違うな」
レナートは立ち上がる。
「今日は確認を続ける」
扉が開く。
廊下の先に、側近が立っていた。
ハロルド。
当主側の空気。
レナートが言う。
「ハロルド」
ハロルドが頭を下げる。
「子爵様」
「封は維持する。誰にも触らせるな」
「承知しました」
ハロルドは一拍置いて続ける。
「……当主様は、騒ぎを好まれません」
「同意する」
さらに、視線を俺に一瞬だけ流す。
「赤毛の子は、目立ちます」
「口も軽くなりやすい」
レナートは淡く言った。
「目立たせない」
「私が管理する」
命令だ。
「……畏まりました、子爵様」
ハロルドは下がる。
レナートが歩き出す。
俺は半歩後ろ。
「戻っていい、と言った」
「選択肢だ」
俺は眉を寄せる。
「……連れてくのか」
「まだ決めていない」
正直な言い方。
「だが、お前は見過ぎる」
「悪いかよ」
「悪くない」
「危ない」
便利の裏側。
レナートは言う。
「今日は私の後ろを歩け」
「喋りたくなったら、先に私を見る」
「……なんで」
「止めないためだ」
俺は黙って頷いた。
──その先、薬庫の区画に入る。
灰銀液の研究ノートが“抜けた”場所だ。
薬庫番が一礼する。
顔色が、まだ死んでいる。
書記がいる。
昨日の書記とは違う。
同じ家は、交代が早い。
研究員が二人。
視線だけが忙しい。
(“何もない顔”の中身はこれか)
レナートは薬庫番に言う。
「昨夜の封を見せろ」
薬庫番が封の管理箱を出す。
鍵は二つ。
一つは薬庫番。
もう一つは管理係。
二重鍵。
伯爵家らしい。
鍵を回す手が、少し震えている。
(怖いのは、俺じゃなくて伯爵だ)
箱が開く。
封の紐。
蝋の刻印。
番号札。
整然。
整然すぎる。
俺は足元を見る。
箱の角の床に、薄い粉が落ちている。
蝋の粉じゃない。
紙の粉でもない。
(……石)
いや、違う。
磨いた床の削れ方が違う。
箱の底が、少しだけ引きずられている。
(中身を抜くために、位置を変えた)
俺はレナートを見る。
喋りたくなったら先に見ろ。
レナートは俺の視線を拾った。
表情は薄い。
でも、目だけが「言え」になった。
俺は短く言う。
「箱、動かしてる」
薬庫番が固まる。
「い、いえ……そんな……」
レナートは淡く言った。
「どこが動いた」
俺は床を指す。
「ここ」
「引きずった痕」
「粉が違う」
「昨日まで、ここは綺麗だった」
レナートは黙って箱の底を見る。
次に、薬庫番の指先を見る。
爪の間に、白い粉。
レナートが言う。
「昨夜、箱を持ち上げたのか」
薬庫番が息を詰める。
「……持ち上げていません」
「だが動いている」
「そ、それは……掃除で……」
掃除で引きずるなら、角だけじゃない。
角だけ擦れているのは、片側だけ持ち上げた時だ。
俺は言わない。
断定は、次だ。
レナートが淡く言う。
「掃除なら、掃除係の名を出せ」
薬庫番の喉が動く。
レナートは、そこで追い詰めない。
「今日はここまでだ」
「封は維持する」
「誰にも触らせるな」
薬庫番が震えた声で答える。
「……承知しました、子爵様」
薬庫を出る。
廊下の角で、また視線が刺さる。
遠くじゃない。
近い。
隠すのが下手な視線。
(……誰だよ)
洗濯室の女がいた。
籠を抱えている。
顔は平然。
でも、指先が落ち着いていない。
俺の赤毛を見る。
次に、レナートを見る。
すぐ目を逸らす。
(俺を追い出したい、って目だ)
洗濯室の女は、俺が一人の時だけ刺してくる。
昨日の件で、刺し方が増えた。
(絡んでるな)
俺は口を閉じた。
喋るな。
聞かれたら答えろ。
レナートは歩きながら言った。
「お前の視線が変わった」
(……ばれてんのかよ)
俺は短く言う。
「洗濯室の女」
「俺が一人だと絡む」
「追い出したい」
レナートは表情を動かさない。
「理由は」
「知らねぇ」
「でも、今の顔は“嫌い”じゃなくて“困る”」
レナートの足が一瞬だけ止まり、すぐ動く。
「覚えておく」
淡い声。
でも、置いた。
置かれた言葉は、拾われる。
この男はそういうやつだ。
しばらく歩いて、レナートが言う。
「今日は戻っていい」
「だが、戻るなら客間からだ」
俺は眉を寄せる。
「まだ客扱いかよ」
レナートは淡く言った。
「客扱いではない」
「置き場が未定だ」
「未定の間は、手が出しにくい場所に置く」
「……つまり盾か」
レナートは否定しない。
「盾にもなる」
俺は鼻で笑った。
「正直だな」
レナートは歩いたまま言う。
「正直でないと、死ぬ」
その言い方が、少しだけ冷えた。
俺は半歩後ろを保つ。
(試しの期間、か)
使えるかどうか。
危ないかどうか。
便利の裏側の、危ない方に落ちないか。
レナートは俺に言う。
「今日は私の後ろを歩け」
「喋りたくなったら、先に私を見る」
「……なんで」
「止めないためだ」
俺は黙って頷いた。
止めない。
でも管理する。
それが、この家のやり方なんだろう。
そして多分――
俺がこの家に残るなら、
このやり方に慣れた方が早い。
慣れたくはないけど。




