第18話 名の重さ
解毒は、間に合った。
それだけで、診療所の空気は少しだけ緩む。
少しだけ、だ。
貴族の女は眠っている。
呼吸は安定し、脈も落ち着いた。
――助かった。
でも、助かったから終わり、にはならない。
⸻
検査室の外。
婚約者だった男は、椅子に座らされていた。
縄はない。
でも、逃げられない位置にいる。
逃げ道を計算されている、という顔。
バルドが立っている。
静かに。
圧だけで。
レナートは男を見下ろす。
視線だけで。
声は薄い。
「毒の名を言え」
男が笑おうとして、失敗する。
「……名医の伯爵家でも、分からないのですか」
(まだ粘る)
レナートは返さない。
代わりに言った。
「診療助手」
(来た)
俺は一歩、半歩の位置を保ったまま言う。
「粉は甘味で包んでる。長く使うやつ」
「即効性じゃない。体弱いの、利用してる」
男の喉が鳴る。
(当たり)
レナートが淡々と続ける。
「体調不良を“元から弱い”で誤魔化せる」
「婚約を理由に、接触頻度を増やせる」
「医療に明るいという設定で、針も使える」
一つずつ積み上げる。
逃げ道を消す積み上げ方。
男が叫ぶ。
「私は彼女を愛している!」
愛。
ここで出す言葉だ。
伯爵夫人が、少し離れた場所で眉を寄せる。
「……愛、ですって?」
声が低い。
怒りではない。失望だ。
レナートは感情を乗せない。
「愛しているなら、命を賭けるな」
男が言い返す。
「家のためだ! 彼女が当主になれば――」
(出た)
家。
派閥。
伯爵家内部の問題と、同じ匂い。
レナートの声が、ほんの僅かに低くなる。
「誰の家だ」
男は口を噤む。
言えない。
レナートが淡々と告げる。
「伯爵家の診療所で、毒を使った」
「その時点で、お前の言い分は終わっている」
男の肩が落ちる。
伯爵夫人が一歩、前に出た。
「……あなた」
優しい声。
でも、刃を含んだ声。
「その方が亡くなっていたら、あなたはどうしたの?」
男は答えない。
答えられない。
伯爵夫人は静かに言った。
「連れて行って」
バルドが頷く。
「承知しました」
男は連れて行かれる。
泣かない。
叫ばない。
一番みっともない形で、静かに消えた。
⸻
夜。
診療所の灯りが落ちる。
廊下に残るのは、必要な人間だけ。
俺は客間へ戻る途中、ふと足を止めた。
(終わった……のか?)
事件は一段落した。
でも、伯爵家の問題はまだ残っている。
伯爵夫人が戻ったことで、
屋敷の線は、確実に揺れている。
曲がり角で、レナートが立っていた。
珍しい。
人はいない。
「ロウ」
俺は足を止める。
「……何」
レナートは淡く言った。
「今日の件」
「お前の指摘がなければ、判断が遅れた可能性がある」
褒めてもいない。
責めてもいない。
ただ、事実を並べているだけだ。
俺は肩をすくめる。
「たまたま見えただけだ」
「たまたま、で済む回数じゃない」
レナートの言い方は相変わらず硬い。
硬いから、妙に信用できる。
「だから、しばらく同じ動きをさせる」
「同じ動き?」
「診療の同席と、記録」
「急に変えると、周囲が騒ぐ」
……ああ、屋敷の方の話か。
俺は小さく息を吐いた。
「面倒だな」
「面倒だ」
レナートは同意した。
それだけで、少し笑いそうになる。
「あと、奥方様だ」
来た。
俺は顔をしかめる。
「捕まった」
「捕まるな」
命令が雑だ。
「無理だろ。あの人速いぞ」
「速いのは止められる」
淡々としてる。
淡々としてるから、逆に怖い。
「無駄に失礼が出ると、配置の話が再燃する」
「お前は余計なことを言うな」
「私は余計なことを言わせない」
理屈。
理屈しか言わない。
だから、今はそれでいい。
俺は短く答えた。
「……はいはい」
「返事が軽い」
「生きてる証拠だ」
レナートは少しだけ間を置いた。
「……それでいい」
そう言って、先に歩き出した。
俺は半歩後ろに戻る。
この屋敷での“安全な位置”が、まだよく分からない。
でも――少なくとも今は、レナートの指示に従っていれば死なない。
それが、俺にとっての十分な理由だった。




