第17話 呼び方の線
検査室の灯りは白い。
白い灯りは、嘘を薄くする。
貴族の女は横たわっていた。
顔色はさらに落ちて、唇の赤だけが浮いている。
レナートは淡々と脈を取り、呼吸を見て、瞳孔を確認した。
「解毒を続ける」
研究員が頷く。
「はい、子爵様」
扉の外では、婚約者がハロルドに押さえられている。
声を荒げるでもなく、ただ呼吸だけが速い。
(崩れた)
“優しい婚約者”の仮面が割れた瞬間の匂いは、薄い汗の匂いだった。
俺は半歩後ろ。
札は袖の内。
伯爵夫人は検査室の入口に立っていた。
「大丈夫?」
声が柔らかい。
でも、柔らかい声ほど境界を溶かす。
レナートは一歩だけ、俺と伯爵夫人の間に入る。
「奥方様」
いつもの呼び方。
役割の呼び方。
伯爵夫人が目を細める。
「ねえ、レナート」
呼び捨て。家の呼び方。
「あなた、昔から私をそう呼ぶわね」
空気が一瞬止まる。
研究員も、侍女も、皆そこには触れない。
触れたら“家”が出る。
伯爵夫人は笑って言った。
「母って呼んだところ、私、見たことないもの」
冗談の形。
でも核心を軽く踏む冗談。
俺は息を止めた。
(今、言うのかよ)
レナートは表情を動かさない。
声も薄いまま。
「必要です」
それだけ。
必要。
理屈の言葉。
いつも通りの逃げ方。
伯爵夫人は怒らない。
怒らずに、少しだけ寂しそうに笑う。
「そうね。あなたはいつも“必要”で生きる人だもの」
レナートは返さない。
返さないことで線を引く。
伯爵夫人は視線を俺に移した。
「ロウ」
名前を呼ぶ。
呼ぶだけで距離を縮める人。
「怖いでしょう? こういうの」
俺は短く答えた。
「……慣れてる」
伯爵夫人が目を丸くする。
「まあ。慣れてるって言える子、珍しいわ」
伯爵夫人の手が伸びかける。
レナートが一歩、また壁になる。
「奥方様」
薄い声。
「今は診療です」
伯爵夫人が頬を膨らませる。
「分かってるわよ。でもね――」
伯爵夫人は声を落とす。
「あなたがああいう性格だから、私、この子を可愛がれるのが嬉しいの」
言ってしまった。
俺の腹が冷える。
“可愛がる”は、武器になる。
守りの顔をした、奪いの手になる。
レナートは否定しない。
否定しない代わりに、場の線を締める。
「奥方様。こちらの患者は婚約者が関与しています」
伯爵夫人の目が鋭くなる。
「……毒?」
レナートは頷かない。
断定しない。
「可能性があります」
伯爵夫人は一瞬で“伯爵夫人の顔”になる。
優しい母の顔から、家の顔へ。
「それで、あの男は?」
レナートの声は薄い。
「拘束しています。逃がしません」
伯爵夫人が小さく息を吐く。
「そう……」
そして、また笑って俺を見る。
「ロウ、あなたが気づいたのね」
(言うな)
褒め言葉は、目立つ。
レナートは淡々と言った。
「診療助手が観察しました」
役割名で固定する。
俺の名前を目立たせない。
伯爵夫人は面白そうに笑った。
「診療助手、ね。あなたの口からそれが出るの、まだ慣れないわ」
レナートは返さない。
返さないまま、視線を研究員へ向ける。
「血液の反応は」
研究員が答える。
「異常な反応があります。特定は――」
「急げ」
短い命令。
伯爵夫人が静かに言った。
「レナート」
レナートが僅かに目だけ動かす。
伯爵夫人は柔らかく、でも確かに言う。
「あなた、線を引くのが上手ね」
「私にも。ロウにも」
場がまた一瞬止まる。
(刺さる)
レナートは薄い声で答えた。
「線がなければ、壊れます」
伯爵夫人の笑いが、ほんの少しだけ消えた。
「……壊れたくないのね」
レナートは返事をしない。
返事をしないことが返事だ。
⸻
検査室を出る。
廊下の角、人がいない。
俺は小さく言った。
「……奥方様、気づいてるな」
レナートは淡く答える。
「母は鋭い」
「母って言った」
俺が言うと、レナートの足が止まった。
ほんの一瞬。
その一瞬で、空気が少しだけ冷える。
「……今は私語だ」
言い直さない。
誤魔化さない。
俺は分かった。
線は、呼び方で固定されている。
“奥方様”は、役割へ戻すための言葉。
そして――
俺に対しても、同じように線を引いているつもりだ。
でも、壁になって救出するたび、
その線は、少しずつ形を変える。
今は、視界の端に置く線。




